東蒲原郡(読み)ひがしかんばらぐん

日本歴史地名大系 「東蒲原郡」の解説

東蒲原郡
ひがしかんばらぐん

面積:九五〇・七五平方キロ
上川かみかわ村・津川つがわ町・鹿瀬かのせ町・三川みかわ

県の北東部に位置し、北には飯豊いいで山地がそびえ、南東には越後山脈が連なる。阿賀野川が郡の中央を西流し、北部山地から南流するさね川・新谷あらや川、越後山脈を源に北流する常浪とこなみ(上流は室谷川)などを合流する。東は福島県耶麻やま郡、南は同県大沼おおぬま郡、西は北蒲原郡笹神ささかみ村・水原すいばら町飛地・安田やすだ町、五泉市、中蒲原郡村松むらまつ町、南蒲原郡下田しただ村、北は新発田しばた市と山形県西置賜にしおきたま郡に接する。国鉄磐越西線が阿賀野川の右岸沿いに通り、並行して対岸南部を国道四九号が走る。旧蒲原郡に属し、長く小川こがわ庄とよばれた。小川庄の初見は「吾妻鏡」寿永元年(一一八二)九月二八日条で、「越後国城四郎永用於越後国小河庄赤谷城郭」とある。なお赤谷あかだには現新発田市上赤谷である。

〔原始・古代〕

先土器時代の遺物は、鹿瀬町角神つのがみ遺跡から発見されている。上川村室谷むろや川沿いにある小瀬こせさわ室谷の両洞窟遺跡の発掘は、縄文時代草創期の編年研究に大きく貢献した。また室谷洞窟遺跡からは七個体分の人骨が出土し、屈葬の状態で発見された成年女性の人骨は縄文前期のものと思われる。縄文時代中・後期の遺物は、津川町のはら楠川くすかわ古志王こしおう鹿瀬町の深戸ふかど長者屋敷ちようじややしきの各遺跡から深鉢形・有孔壺形土器や土偶などが発掘されている。上川村の野中のなかに南北に連なる五ッ塚があるが、本格的な調査は行われていない。

「古事記」崇神天皇の段に「大毘古命は、先の命の随に、高志国に罷り行きき。爾に東の方より遣はさえし建沼河別と、其の父大毘古と共に、相津に往き遇ひき。故、其地を相津と謂ふなり」とある。これは会津の地名伝説であるが、当地の伝説では大彦命と武沼河別命が会ったのは、上川村南の福島県境にある御神楽みかぐら岳であるという。同岳には二人を祀った祠がある。また大彦命伝説にまつわる腰王こしおう神社が津川町にあったが、現在は同町の神明神社に遷された。上川村西山の日光にしやまのにつこう寺は「会津旧事雑考」によれば、延暦元年(七八二)弘法大師が開基したと伝えるが、一説には会津恵日えにち(現耶麻郡磐梯町)を開いた徳一が開基したともいう。三川村岩谷の平等いわやのびようどう寺の薬師堂は、室町期の遺構を残すが、越後に勢力のあった平維茂が創建したと伝える。その子孫の城氏は平安末期には越後一国を支配下に置いたが、承安二年(一一七二)城長茂(永用)叔母の竹姫を恵日寺の僧乗丹坊に嫁がせ、小川庄を寄進して緊密な関係を取結んだという。これ以後、当郡域は明治初年の一時期を除いて明治一九年(一八八六)まで会津の支配下に置かれる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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