日本歴史地名大系 「栃尾市」の解説 栃尾市とちおし 面積:二〇五・三九平方キロ県中央部の東側、守門(すもん)岳(一五三七・六メートル)および大(おお)岳(一四三二・四メートル)の西山麓にあたる。北と東は南蒲原(みなみかんばら)郡下田(しただ)村、南は北魚沼郡守門村・古志(こし)郡山古志(やまこし)村、西は東山(ひがしやま)丘陵で長岡市・見附市と接する。守門岳・大岳に源を発する信濃川支流の刈谷田(かりやだ)川と東山丘陵に源を発する支流西谷(にしだに)川とがほぼ北流して市街地付近で合流、さらに見附市境で西流してきた塩谷(しおたに)川を合せてこれより西流し、越後平野に流出する。周囲はほぼ全域が山地に囲まれ、これら河川の合流地帯に栃尾盆地が形成される。冬は長く有数の豪雪地帯であり、盆地的孤立性が強く、古くから栃尾郷と呼称されてきた。刈谷田川下流部を川谷(かわたに)・北谷(きただに)と称し、刈谷田川中・上流は東谷(ひがしだに)・入東谷(いりひがしだに)、西谷川流域は西谷、塩谷川流域は塩谷の地域呼称がある。道は刈谷田川・西谷川の合流地域を中心として、刈谷田川下流へ長岡道(現主要地方道栃尾―見附線)、上流へ石(いし)峠越で広瀬(ひろせ)郷(現北魚沼郡守門村・入広瀬村方面)へ通じる東谷道(現国道二九〇号)、西谷川沿いに花立(はなだて)峠越で栖吉(すよし)(現長岡市)へ通じる西谷道と、途中荷頃(にごろ)で分岐し比礼(ひれい)を経由して榎(えのき)峠越で浦瀬(うらせ)・長岡(現長岡市)へ至る比礼道、塩谷へ通じる塩谷道と、途中二日町(ふつかまち)で分岐する梨木(なしのき)峠越の下田道、葎谷(もぐらだに)経由の八十里越(はちじゆうりごえ)道などがある。地名の栃尾は明応年間(一四九二―一五〇一)の国衙之日記(「古文書集」所収文書)に「とつちやう」とある。〔原始・古代〕先土器時代の石器が東谷の菅畑(すがばたけ)の字外野(そでの)と十二山(じゆうにやま)から出土。縄文時代の遺跡は塩谷川とその支流および刈谷田川の河岸段丘が最も発達している東谷の東岸や刈谷田川と塩谷川のいわゆる樫出原(かしいではら)に集中し、中・後期の遺跡が圧倒的に多い。早・前期の遺跡は塩谷川上流とその支流付近にみられ、出土土器の文様から会津地方との交流が示唆されている。後期後半から発掘例は減少し、弥生時代の確実な資料は東谷の菅畑と栃堀(とちぼり)の中間の赤助(あかすけ)遺跡のみである。古墳時代の土師器・須恵器も発見例はない。市域は「和名抄」の古志郡に属したと思われる。栃尾郷における古代文化の名残を伝えるものに守門信仰がある。守門岳の麓にあたる栃尾郷・広瀬郷・下田郷の比較的狭い範囲にだけみられる山岳信仰で、これらの地域内には巣守(すもり)社・守門社と称する神社が江戸中期には五六社を数えた(栃尾市史)。祭神は一定しておらず、繁殖の神である高皇産霊命、山の神である木花咲耶姫・大山祇命、川の神・水の神である苅谷田姫命などで、いずれも守門大明神と称している。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by