翻訳|sericulture
クワを栽培し,そのクワでカイコ(蚕)を飼育し,繭を生産すること。人類は農業が始まる以前,山野に自然にできたものを採って食糧や衣類などの原料にしていた。その後,生活している場所の近くで植物を栽培したり,動物を飼育するようになった。養蚕も同じような過程を経たものと考えられている。養蚕が始まる以前の長い期間,人類は野生のカイコ(野蚕)の繭を利用していたものと思われる。人類は,太古時代,食用のために果実やクワの実を採ろうとしたとき,木に野蚕の繭が営まれているのを発見し,繭糸が柔軟,強靱で生活上に役だつことを見いだして,しだいに重要な生活資源の一つとしていったのであろう。樹林の中に生息している野蚕は,自然環境の変化に左右され,野蚕繭の収穫は年によって不安定であった。雨やひょう(雹)あるいは鳥獣などの害から野蚕を守って,その収穫を確実なものにしようとしたとき,初めて野蚕を家屋に持ち帰って育てようという思いつきが生まれたものと思われる。こうして,野蚕はしだいにカイコ(家蚕)へと馴化(じゆんか)された。
元の王禎が書いた《農書》(1313)の第6巻に,〈淮南王蚕経に云う。黄帝元妃西陵氏始めて蚕す。蓋し黄帝衣裳を制作(つく)る。因て此に始まる也〉とあって,これが養蚕の起源とされている。《蚕経》という本は今日伝えられていないが,同じ漢代の司馬遷が書いた有名な《史記》にも〈黄帝妃養蚕を愛す〉という文章がみられる。系図上での黄帝は,中国最古の王朝といわれる夏の祖先である禹のさらに祖先にあたる。歴史学者によれば,夏のつぎの殷王朝の系譜は,殷墟出土の遺物から信用できると認められているが,夏王朝以前は未確認である。したがって,《史記》に述べられている衣・食・住など人間の生活にかかわる技術がすべて黄帝によってつくられたということは,おそらく伝説であろう。しかし,養蚕の起源を黄帝妃に付会させたことは,養蚕がひじょうに古くから行われていたこと,そして養蚕,繰糸および機織が主として女性のしごとであったことを意味するものと思われる。一方,考古学的遺物から,殷代(前約1600-前約1050)には養蚕が行われていたと考えられている。すなわち,殷墟から発掘された甲骨文の中に,蚕,桑,糸,帛などを表す文字があること,さらに,青銅や斧や壺に付着していた布が絹織物であることなどから,殷代の黄河流域で,世界で初めて養蚕が始められたとされている。
中国の養蚕の起源は他の国と比較にならないくらい古く,前漢代(前202-後8)にはすでに全土に広がっていたと考えられている。このように古く始められた中国の養蚕は,シルクロードを通ってその周辺地域へ伝播(でんぱ)していった。シルクロードは洛陽あるいは西安を出て,敦煌(とんこう)を経てタクラマカン砂漠の北側と南側に点在する高昌,カラシャール(焉耆(えんき)),クチャ(亀茲(きじ)),ホータン(于闐(うてん))などのオアシス国家を結んで西進し,パミール高原をこえイランの北側を通ってシリアに達する,いわゆるオアシスルートを一般にさしている。しかし,広い意味でのシルクロードは,オアシスルートのさらに北側をいくステップルートと,海洋をまわっていくマリンルート(海の道)の合計三つの交通路を含めたものである。このシルクロードを通じて,多くの絹製品が中国から他国へ運ばれ,それに伴って養蚕や織物の技術も伝播していったのである。1世紀の中ごろ,西域のホータン国王に嫁した中国婦人が,当時国外搬出が禁じられていたクワの種子と蚕種を,綿帽子の中にかくしてひそかに持ち出したのが,養蚕が国外へ伝播した最初であるという話もある。
執筆者:吉武 成美
中国で始まった養蚕業がヨーロッパへ伝播したのは6世紀といわれる。ビザンティン帝国の歴史家プロコピウスによると,時の皇帝ユスティニアヌス1世が,ペルシアによって供給を阻まれた絹を確保すべく,552年2人のネストリウス派の修道士をアジアに派遣,彼らが蚕卵を竹筒の中に隠し持ち帰ったのが,養蚕業西伝の最初であるとされる。それはギリシア,シリア,小アジアなどに広まり,7世紀前半のアラブによるペルシア征服を機に,絹生産の西方伝播がさらに加速した。西進したベルベル人はスペイン,ポルトガルに養蚕業を起こし,10世紀にはアンダルシア地方がヨーロッパ随一の養蚕地帯として栄えた。イタリアでは12世紀中葉シチリア島においてその発達の基礎が据えられ,13世紀から15世紀にかけてベネチア,ジェノバ,フィレンツェ,ミラノにおいて,都市当局の奨励の下,桑樹栽培が促進された。フランスにおける栽桑業は,13世紀中ごろのプロバンス地方へのスペイン産桑樹の導入を最初とする。その後15世紀末から16世紀中葉にかけて,南東部一帯で栽桑・養蚕業が隆盛に向かったが,最大の進歩はアンリ4世の治下(1589-1610)においてみられた。同王が農学者O.deセールらの努力をおおいに勧奨した結果,養蚕場ならびに繭・生糸生産の飛躍的増大が達成されたのである。17世紀後半にはコルベールによる養蚕業の保護,奨励も行われた。
ヨーロッパでは19世紀初頭以降,養蚕業が本格的な農業の一部門として確固たる地位をかちえ,L.パスツールの蚕病研究を契機にして,科学的農業の性格さえ帯びるにいたった。フランスでのその全盛期は1820-53年であり,53年における繭生産高は2600万kg,桑樹数は2400万本以上,養蚕業を営む村落2300以上,その従事者数30万~35万人と,史上最高を記録した。しかし以後は微粒子病などの蚕病の流行によって激しい打撃を被った。パスツールの研究により75年以降微粒子病が克服された後も,繭の生産水準は700万~800万kgにとどまり続け,19世紀末期からの政府の補助金付与の効果もなく,ブドウその他の果樹や野菜,タバコなどの栽培への転換が進んだ。蚕病の惨禍はすべての地中海沿岸諸国に及んだが,イタリアの場合は1870年代にはほぼ蚕病以前の生産水準にまで回復し,ロンバルディア,ベネチア,ピエモンテ地方を中心に,19世紀末期には年平均4000万kgの生産水準を維持した。
イギリスではジェームズ1世が17世紀初頭に,国内とアメリカ植民地(バージニアやジョージア)において蚕糸生産の奨励を試みたものの成功せず,アメリカ合衆国における19世紀前半の養蚕ブームも,タバコや綿花など競合作物の存在と労働力の高価などのために,結局失敗に帰した。
執筆者:松原 建彦
日本での養蚕を示す最も古い記録は《魏志倭人伝》の記載で,3世紀半ばにはすでに朝鮮半島を経て中国から伝えられていたことが知られる。しかし,北九州の弥生時代中期の遺跡から素朴な平織の絹が発見され,大陸からの養蚕の伝播はさらにさかのぼって,1世紀ころにはすでに伝わっていた可能性がでてきている。古代における養蚕は主として帰化人によって行われたが,当時養蚕はもとより,製糸,製織まで技術は相当高かったと考えられる。その後,大化改新(645),大宝律令の制定(701)がなされ,公民に対して租税を負担させるために一定の口分田が与えられ,租・庸・調などの税が課せられた。また,各戸にクワやウルシなどを植えさせ,調物としては原則として絹を貢がせた。その結果,養蚕は奈良時代には近畿から関東,東北まで伸び,平安時代にはほとんど全国におよび,古代の養蚕・製糸技術は日本の風土や文化に調和し安定化した。このように全国的に広がった養蚕も,中世にはいると治安の不良,荘園制度の崩壊ならびに貨幣の流通などの影響を受けて著しく衰えた。この時代の養蚕,製織はほとんど自給生産にとどまっており,技術面についてもみるべきものはなかった。
執筆者:吉武 成美
日本の養蚕業は,中国産の上質な白糸が1685年(貞享2)糸割符(いとわつぷ)の制度復活で輸入が制限されたのを契機に,とりわけ東山道諸国において盛んになったが,幕末開港以前にはクワ畑はほとんどなく,桑樹は主として田畑屋敷の回りに植えられていた。しかし自然のままの立木作りから,中刈,根刈といった刈桑技術がしだいに採用されるようになって,クワ1本当りの供給桑葉量が増え,下層農民の小規模養蚕も可能となった。飼育法は自然の天候によって飼育する清涼育が一般的であったが,幕末に奥州岩代で火力を利用する温暖育が発明され,飼育日数が短縮された。この温暖育は伊達郡梁川町(現,福島県)の田口彦太郎が1830年代にくふうし,同町の中村善右衛門が40年代に考案した養蚕用寒暖計を用いることによって技術的に完成したものである。
1859年(安政6)の開港による生糸輸出の開始は養蚕業の急激な発展をもたらし,クワ畑が各地で出現した。春蚕だけでなく夏・秋蚕も行う者が増加し,1912年には生産量の40%台を夏・秋繭が占めるまでになる。飼育法は田島弥平(現,群馬県伊勢崎市)のように清涼育を主張する者もあったが,群馬県の高山長五郎(現,同県藤岡市)が清涼育と温暖育を折衷した清温育=補温育を考案して,1873年に養蚕改良高山組(のち高山社)を通じて普及に乗り出してから,清涼育,温暖育はしだいに駆逐されていった。養蚕業は農家の副業として行われていたが,群馬,福島,長野,山梨,埼玉,山形などの先進養蚕地ではかなり大規模な経営を行うものも現れた。90年代前後の群馬県では,雇用労働力を用いたと思われる掃立(はきたて)蚕種5枚(必要労働力5人)以上の経営が急増して,約9万戸の春蚕戸数の3分の1を占めるまでになり,掃立蚕種10枚以上の経営も5000戸前後に達した。しかし同県の場合,1900年代に入ると大規模養蚕戸数はむしろ減少ぎみとなり,養蚕業における資本主義的発展には大きな限界があったといわねばならない。これは一つには大規模化に有利な養蚕技術が開発されなかったためであり,いま一つには景気の変動と製糸家の圧力の下で繭価が必ずしも養蚕家に有利な水準で決定されなかったためである。そのため先進養蚕地の一部では,第1次大戦期にかけて養蚕を主業とするかなりの規模の経営が生まれつつも,大多数の農家は養蚕を副業の枠内にとどめるべくつとめたのであった。
第1次大戦は日本の養蚕業に大きな変化をもたらす契機となった。まず日本種,中国種,ヨーロッパ種のうちの二つを交配して作った一代交雑蚕種が,蚕業試験場や三竜社,片倉組,郡是製糸その他の努力で普及し,優良品種による蚕種統一が実現されていった。これは単位蚕種量当りの収繭量を急増させたうえ,繰糸能率の向上にも役だち,日本製糸業が中国,イタリア製糸業を大きく引き離す基礎となった。さらに大規模養蚕が多い長野,埼玉,山梨,群馬などの先進養蚕地では,枝葉のまま給桑する省力的な条桑育が普及するが,これは繭の品質を劣悪にし,生糸の品質に悪影響を与える欠陥を当時はもっていた。かかる変化をとげつつ養蚕戸数はますます増加し,15年の167万戸(全農家の31%)が29年には222万戸(同40%)となり,とくに西日本の養蚕戸数が増加した。養蚕農家は製糸家による繭の買いたたきに対抗するため養蚕組合を結成するようになり,1925年には過半の養蚕農家が組合に加入するまでになった。繭の生産量も30年には39万9000tに達した。だが30年の大恐慌以降繭価が暴落するなかで,組合の多くは片倉,郡是など大製糸資本の特約組合に吸収されていくこととなる。なお34年には原蚕種管理法が公布されて原蚕種の国家管理が始まり,36年には産繭処理統制法の公布を契機として乾繭取引が普及するなど,養蚕業に対する国家統制が強まっていった。
太平洋戦争中に養蚕農家は激減して,45年には約100万戸となり,その後も減少が続いた結果,95年にはついに約1.4万戸となった。繭生産量は1947年に5万t台と日清戦争直前の水準まで落ち込み,その後回復して55-74年は10万~12万t水準にあったが,以後再び減少を続け95年には5000t台になった。その背景には化学繊維の発達および中国,韓国などの安い生糸の進出がある。この間,地域別にみると西日本の養蚕業が衰退し東日本では愛知,岐阜,長野などの生産が減少した結果,1995年の上位5県は群馬,福島,埼玉,長野,山梨の順となり,これらで全国産繭量の68%を占めている。桑園1反(10a)当りの産繭量は1968年が最高で74.8kgと戦前最高の1939年の64.4kgと大差ないが,労働生産性(繭1kg当り労働時間)は55年に戦前水準と同じ7.5時間であったのが,以後急速に変化して80年にはわずか2.2時間となった。これは稚蚕共同飼育や条桑育などによる省力化が進んだ結果にほかならない。
執筆者:石井 寛治
技術面からみると,日本の養蚕業は1955年ころを境にして,前半は品種改良,一代雑種の利用,人工孵化(ふか)法などの土地生産性向上技術に,そして後半は年間条桑育や機械化を中心とした労働生産性向上技術によって維持されてきたといえる。
明治前ならびに明治初期における技術革新の担い手は老農といわれた生産先覚者であったが,その後における技術革新は主として公的試験研究機関でなされた。すなわち,カイコの限性品種,年間条桑育,稚蚕人工飼料育,密植促成機械化桑園,幼若ホルモン利用による繭の増収ならびにウイルス性軟化病の早期診断技術など,1940年代以降に開発された革新技術の大部分が,公的試験研究機関で蚕糸科学を基礎にして組み立てられたものである。養蚕技術の繭生産への貢献を量的にみると,1900-1904年の5ヵ年平均を基準とした場合,およそ80年間で10a当り収繭量は2.2倍,1箱(約2万匹)当り収繭量は3.6倍,そして10a当り生糸生産量は5.4倍と,大きな伸びを示している。これらの生産性増大に対して,栽桑,育蚕,防疫,育種ならびに製糸などの諸技術が,それぞれどの程度貢献したかということを推定することはひじょうに難しい。しかし,明治初年において平均単繭層重が0.2gであったものが,近年では0.6gと3倍になっていることなどから,広義の育種技術が過去において相当高い貢献をしてきたことは事実である。
一方,これらの生産性の増加を第2次大戦前と大戦後に分けて考えてみると,単位面積当り生産量といったいわゆる土地生産性の伸びは,戦後のほうが低いことがわかる。しかし,上繭100kg当り育蚕労働時間の変動をみると,飼育,摘桑(クワの収穫),上蔟(じようぞく),収繭などいずれも減少している。このような傾向は,栽桑技術についても同様であり,戦後は栽桑全般についての土地生産性はあまり上昇していないが,労働生産性についてはその向上が顕著である。
現在の養蚕技術についてみれば,繭の生産は大別してクワを生産する栽桑過程と,クワを与えてカイコを飼育する育蚕過程とに分けられるが,これらの過程における労力の配分は栽桑20%に対して育蚕は80%である。したがって繭生産の労働生産性の向上を図るためには育蚕技術の改善が重要で,1950年以降摘桑,飼育ならびに上蔟法の改良がなされてきた。
クワの収穫は,現在,葉を1枚ずつ摘むのではなく,条桑による収穫が行われているが,さらに能率をあげるため密植桑園を造成し,バインダー改良型の小型条桑刈取機が開発され,10a当り約1時間で収穫することが可能となった。密植桑園は,慣行の植付密度10a当り約800本に対して3000本程度を植栽するもので,密植のためクワの枝条があまり太くならず,機械収穫が容易になるとともに,桑葉の収量も約30%増収となる利点がある。
カイコの飼育は,稚蚕(1~2齢)の共同飼育,壮蚕(3~5齢)の個人による条桑育が最も普通の形態であるが,稚蚕共同飼育においては,その約25%が人工飼料で飼育されている。人工飼料は各県に1~2ヵ所設置されている人工飼料調製センターで,桑葉と大豆粉末を主成分として製造され,各稚蚕共同飼育所へ供給される。稚蚕人工飼料育は,飼料代は桑葉に対して高くつくものの,労賃が少なくてすむし,防疫上利点があるので飼育の安定化に効果をあげている。壮蚕飼育においては,水平移動式あるいは多段循環式などの壮蚕飼育機械も導入されているが,条桑運搬台車付の組立式条桑飼育装置を利用した飼育が最も普及している。
上蔟法としては,一頭拾い法,クワの枝条にしがみついているカイコを簡単な機械でふり落とす条払い法および蚕座に直接蔟を置いてカイコを自然に蔟に誘導する自然上蔟法などがあるが,条払いした後に組立式区画蔟である回転蔟に自然上蔟させる条払い自然上蔟法が最も普及している。一方,上蔟に昆虫ホルモン剤も利用されている。その一つは,熟化促進効果のある脱皮ホルモン剤で,5齢期末に熟蚕が出はじめたころこれをクワに散布すると,カイコは10時間以内に一斉に熟蚕となり,自然上蔟における営繭を斉一化することができる。他の一つは幼若ホルモン剤で,これを5齢初期に散布すると5齢日数が約1日延長し,繭量も増加する。大量のカイコを飼育している農家では,上蔟期を分散させるために利用している。
収繭は回転蔟の場合,まずつり下げてある蔟を下ろし,組み立ててある区画蔟を1枚ずつに解体する。蔟片1枚ごとに薄皮繭などを取り除いたあと,脱繭,毛羽取りを行い,十分選繭してから上繭を袋詰めして出荷する。なお,脱繭用機械として,足踏式でペダルを踏み蔟片全体の繭を一度に押し出す収繭機が広く用いられている。
→カイコ →クワ
世界における繭の生産は,日本をはじめとして中国,インド,旧ソ連,タイ,朝鮮民主主義人民共和国およびブラジルなどおよそ50ヵ国で行われているが,上記7ヵ国で繭についてはその全生産量の95%以上が生産されている。1993年現在,世界の繭総生産量は約87万tであるが,その約7割が中国で生産されている。中国は1931年にそれまでの最高の20万tの生産を記録したことがあるが,その後戦争などの影響で減少した。解放(1949)後しだいに回復し69年には日本の生産量を凌駕(りようが)して世界第一の繭生産国となり,さらに92年には66万tの生産量を記録した。中国の主要養蚕地帯は長江(揚子江)流域の浙江省,江蘇省,四川省ならびに珠江流域の広東省で,いずれも亜熱帯圏に属し,中国の総生産量の90%近くがこれらの省で生産されている。技術的には日本より遅れているが,豊富な労働力を利用した合理的な生産が行われており,当分の間世界第一の養蚕国として推移すると思われる。世界の養蚕業の今後の動向としては,日本,朝鮮民主主義人民共和国および旧ソ連などの温帯圏の養蚕は横ばいまたは減少し,中国,インド,東南アジアおよびアフリカなど亜熱帯圏の養蚕が漸増すると考えられている。日本はこれらの国々から技術援助を求められており,今後国内問題のみでなく国際的な面から技術研究を推進する必要に迫られている。
一方,生糸の生産についてみると,80年において日本7.1万俵(1俵は60kg),中国88万俵,インド22万俵,旧ソ連6.8万俵,ブラジル4万俵,タイ2.8万俵などとなっている(世界合計は137万俵)。また生糸の消費は一国の経済成長と高い相関があるといわれており,歴史的にみても生糸の最大の消費は,ヨーロッパからアメリカを経て日本に移行している。日本は現在世界有数の生糸生産国であると同時に,世界最大の生糸消費国である。したがって,日本の生糸消費動向は,世界の養蚕国に大きな影響を与えている。
→生糸 →絹織物
執筆者:吉武 成美
中国では養蚕家の祭る神は馬頭娘伝説との関連もあって,女神とすることが多い。古く《列仙伝》にも園客とその妻が五色のガを飼って蚕が生まれ,巨大な繭を得たので,後人がこれを祭った話がある。《続斉諧記》(《太平広記》巻293引)にも,蘇州呉県の張誠之の宅の蚕室に女が出現して〈我はこの地の神なり,正月15日には膏粥を供えて我を祭れ〉といったので供えたところ,その年にはおおいに蚕を得たという。浙江省杭州では〈先蚕之神〉を祭り,また民間では〈蚕花五聖〉とも呼んだ。浙江省湖州地方では大門に1対の門神将軍の紙をはり〈青竜〉を迎える。蚕室内で蛇を見かけると青竜の降臨として供物を供えて祭る。また蚕はネズミを忌むとして家に猫を迎える習俗もあり,ネズミよけのまじないとして泥塑(でいそ)の猫を買って供えることもあった。蚕の季節になると,家人以外の者が蚕室に出入りしたり大声で呼んだりすることを忌み,門に紅紙をはって禁忌とするなど,養蚕に関する俗信や俗習は多い。
執筆者:沢田 瑞穂 日本では養蚕の守護神は蚕神(かいこがみ)と呼ばれる。記紀神話には神の死体から五穀と並んでカイコやクワが生じる記述があり,蚕を神格化する考えが古くから存在していたと思われる。養蚕にかかわる民間行事の中には,養蚕終了を祝う蚕霊あげ,初午の蚕種祝い,蚕日待ち,おしら講などがあり,カイコの霊を神として祭る信仰があったことが示されている。現在各地で蚕神とされているものは,著名な社寺の神仏が養蚕の守護神の役割も果たすという形をとっている場合が多い。養蚕の神として観音,薬師,不動,弁財天などさまざまな神仏が信仰されたが,とくに稲荷と駒形明神が人気をえた。全国各地にある蚕影山(こかげさん)信仰は,茨城県の蚕影山神社の信仰が流布したもので,この神社の縁起として,養蚕および蚕神の起源を説く金色姫の物語が中世末から近世にかけて語られていた。御伽草子《戒言(かひこ)》もその一つである。東北地方のおしら神も養蚕の神としての側面をもち,馬と人間の娘との婚姻を物語るイタコの〈おしら祭文〉も蚕神の由来,養蚕の起源を説いている。
→おしら信仰
執筆者:小松 和彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
栽培したクワでカイコを飼育し、繭を生産すること。
[吉武成美]
中国の元の王楨(おうてい)が書いた『農書』(1313)の巻6に、「淮南王(わいなんおう)蚕経にいう 黄帝元妃西陵氏始めて蚕す」の文章が載せられていて、これが養蚕の起源として広く引用されている。系譜上での黄帝は、中国最古の王朝といわれる夏(か)の祖先の禹(う)のさらに祖先にあたり、現在歴史学的にはその実在性が否定的である。しかし、このようなことから中国では非常に古くから養蚕が行われていたということが想像できる。
一方、考古学的遺物から、殷(いん)代(前17世紀~前11世紀なかば)には養蚕が行われていたと思われる。すなわち、殷墟(いんきょ)から発掘された甲骨文のなかに、蚕、桑、糸、帛(はく)などの文字があること、さらに青銅の斧(おの)や壺(つぼ)に付着していた布が絹織物であることなどから、殷代の黄河流域で、世界で初めて養蚕が始められたのであろうと考えられている。
[吉武成美]
絹製品が中国から国外へ出るようになったのは紀元前2世紀ごろで、シルク・ロードを通って西部アジアに渡り、その後ヨーロッパ地域へ入った。紀元後1世紀の中ごろ、西域(せいいき)のホータン(于闐(うてん))国王に嫁した中国女性が、当時国外搬出が禁止されていた桑種子と蚕種を、綿帽子の中に隠してひそかに持ち出したのが、養蚕が中国国外へ伝播(でんぱ)した最初であるといわれている。ヨーロッパには5、6世紀ごろ伝播し、8世紀のイスラム帝国時代には、養蚕は東はペルシア、カフカスから、西はスペインまで広く行われるようになった。10世紀の初めに南部イタリアで養蚕が盛んになり、その後北部へも広がった。フランスの養蚕は13世紀のルイ9世のころ始まり、しだいに盛んになった。
わが国の養蚕は、『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)の記載から、3世紀中ごろ朝鮮半島を経て中国から伝えられたと考えられていた。しかし、北九州の弥生(やよい)時代中期の遺跡(立岩(たていわ)遺跡、春日(かすが)市門田(かどた)貝塚、須玖(すぐ)遺跡など)から、素朴な絹の平織が発見されたことから、中国からの養蚕の伝播はさらに200年さかのぼり、1世紀ごろである可能性がある。
[吉武成美]
わが国の養蚕は、1~3世紀ごろ中国からの渡来人によって始められた。当時すでに養蚕はもとより、製糸、機(はた)織りまで行われており、技術も相当高かったと考えられている。その後、大化改新(645)を経て、大宝律令(たいほうりつりょう)が制定(701)され、政府は公民に対して租税を負担させるために一定の口分田(くぶんでん)を与え、各戸にクワやウルシなどを植えさせて、調物としては原則として絹を貢がせた。その結果、養蚕は奈良時代に近畿より関東、東北地方まで伸び、平安時代にはほとんど全国に広がった。しかし、中世に入ると、治安の不良、荘園(しょうえん)制度の崩壊ならびに貨幣の流通などの影響を受けて、養蚕は著しく衰えた。
近世初期の農業は自給自足的で、生産性も低かった。しかし、戦乱がなかったことと、領主と農民との力関係の変化などによって、農家はしだいに余剰生産に精力を注げるようになり、米麦中心の農業から特産物生産も可能となった。一方、江戸幕府は財政的な逼迫(ひっぱく)をあがなうために養蚕を奨励した。その結果、蚕種、繭、生糸、真綿ならびに絹織物の需要が増加した。このように商品化が容易になるにしたがって、それら個々の生産に専念するものが現れ、蚕種製造、養蚕、製糸および機織りが個々の生産業として分化していった。
江戸時代の末期になると、経済不振による絹消費の減少や社会不安によって、養蚕業は衰微の方向へ傾いていった。しかし、横浜開港(1859)ならびにヨーロッパにおける、カイコの伝染病である微粒子病の蔓延(まんえん)による繭、絹生産の低下によって、わが国の蚕種と生糸は一躍にして輸出品の花形となったのである。1880年(明治13)ごろまでの日本生糸の主要輸出先はヨーロッパであったが、1897年以降アメリカが支配的市場となった。第一次世界大戦(1914~18)は、ヨーロッパの養蚕業に壊滅的な打撃を与えたが、アメリカおよび日本には逆に経済発展をもたらした。その結果、1920年(大正9)ごろには生糸輸出量中アメリカ向けが95%まで達した。
明治以来、生糸により外貨獲得を行い、富国強兵を図ろうとした政府は、国際信用を確保し養蚕業を発展させるために、各種の法律を施行するとともに、研究・教育機関の設立を行った。また、民間においても大正初期に片倉組(現片倉工業)、郡是(ぐんぜ)製糸(現グンゼ)の研究所がつくられ、技術向上の体制が整えられた。
1930年(昭和5)わが国の産繭量は史上最高の40万トンに達したが、その前年秋に始まった世界恐慌によって、アメリカ絹産業は決定的打撃を受けた。それによって、当時8億円近かった生糸輸出額は、31年には半減した。37年に始まった日中戦争は、日本経済を戦時体制に追い込み、その結果生糸の輸出は減少し、日本の養蚕業はしだいに縮小し、第二次世界大戦によって壊滅的状態になり、戦後の47年(昭和22)の産繭量は大正以来最低の5.3万トンまで低下した。
1950年朝鮮戦争の勃発(ぼっぱつ)を契機にして経済復興が進み、戦後の食用作物を中心につくられた時代は終わり、養蚕業がふたたび重要視されるようになった。しかし、その後の生糸輸出不振に加えて内需の伸び悩みにより、繭価は低下した。そのため、58年桑園20%減反の行政措置がとられた。60年以降は高度経済成長に支えられ、絹織物の内需が急増し養蚕業は一時安定化した。66年には繭糸価格安定のため日本蚕糸事業団(現農畜産業振興事業団)が設立された。この時期は、日本の蚕糸業が輸出産業から内需産業へ転換したときである。すなわち、65年以降生糸消費量は国内生産量を超過し、中国や韓国などから生糸を輸入し、72年にはついに16.8万俵にも達した。これは生糸総需要量の34%にあたり、日本は世界第一の生糸消費国に変容するに至ったのである。
[吉武成美]
明治期以来のわが国の養蚕業を技術的観点からみると、第二次世界大戦を境にして二つの時期に分けることができる。前半は品種改良ならびに飼育回数を増やすことによって、土地生産性を向上させた時代であり、後半は機械化などによって労働生産性を向上させた時代である。
1900年ごろと1980年ごろの生産性を比較してみると、桑園10アール当り収繭量は約2倍、箱(蚕種10グラム・カイコ2万頭)当り収繭量は約3.5倍、生糸量歩合は2.8倍、そして10アール当り生糸生産量は実に5.4倍になっている。このような生産性の向上は、蚕桑の品種改良、一代雑種の利用、人工孵化(ふか)法および防疫など土地生産性向上技術と、年間条桑育(1枚1枚桑葉を与えるのではなく、枝ごと与える飼育の方法)、稚蚕共同飼育、育蚕・栽桑の機械化および上蔟(じょうぞく)法(糸を吐き始めたカイコを繭をつくらせるために蔟(まぶし)に入れること)の改良など労働生産性向上技術に負うところが大きい。
年間条桑育が確立した結果、葉摘みで室内で棚飼いであった従来の集約的養蚕が、条桑で屋外飼育されるようになり、養蚕のイメージが一新した。さらに桑葉を用いずに羊かん状の人工飼料による稚蚕人工飼料が普及した。このような技術革新によって、1950年以降30年間で、上繭1キログラム当り労働時間を4分の1にすることができた。
[吉武成美]
世界における繭および生糸の生産は、日本のほか、中国、インド、ウズベキスタン、タイ、ブラジル、ベトナム、北朝鮮などおよそ50か国で行われているが、上記8か国で全生産量の98%以上が生産されている。1999年現在世界の総繭生産量は約64万トンであるが、そのうち70%が中国で生産されている。中国の主要養蚕地帯は、四川(しせん/スーチョワン)省、浙江(せっこう/チョーチヤン)省、江蘇(こうそ/チヤンスー)省、広東(カントン)省および山東(さんとう/シャントン)省などで、技術的にはわが国より遅れているが、豊富な労働力を利用して集約的な養蚕が行われている。
日本は1950年以降、約25年間10万トン台の繭生産量を維持してきたが、75年に10万トンの大台を割って以来減産が続いた。94年(平成6)の繭生産量は1万トンを割って7724トン、2000年には1244トンとなった。1975年には24万8400戸あった養蚕農家は2000年現在では3280戸である。これは海外から安い生糸や絹製品が入ってきたこと、国内の絹需要の減少、生糸価格の低下や収益性の低下により農家の養蚕離れが進んだことなどが原因と考えられる。わが国は世界の4分の1を消費する絹消費国でもあるが、その大半を輸入に頼っている。
わが国の養蚕業は全国に分布しているが、その主産地は南東北、北関東、東中部および南九州で、主要養蚕県は群馬、福島、埼玉、栃木、長野、宮城、茨城、岩手、山梨および鹿児島県などである。
[吉武成美]
『有賀久雄著『新編養蚕学大要』(1963・養賢堂)』▽『福田紀文監修『総合蚕糸学』(1979・日本蚕糸新聞社)』▽『日本蚕糸学会編『蚕糸学入門』(1992・日本蚕糸新聞社)』▽『小野直達著『現代蚕糸業と養蚕経営――日本養蚕は活き残れるか』(1996・農林統計協会)』▽『荒木幹雄著『日本蚕糸業発達とその基盤』(1996・ミネルヴァ書房)』
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出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…絹糸には養殖蚕の家蚕糸(かさんし),野蚕の柞蚕糸(さくさんし)や天蚕糸(てんさんし),さらに紡績絹糸や紬糸(つむぎいと)などがあり,それぞれに特色のある絹織物をつくる。生糸絹養蚕
【特性と種類】
光沢に富み,軽くしなやかで染色性に優れ,幅広い染織美の表現を可能とする。強度,耐摩擦などの点では他の天然繊維に劣らないが,アルカリおよび日光に弱く,毛や綿織物に比べ多少保温性に欠ける。…
…唐の都長安には多くの外国人が逗留し,長安は異国趣味にあふれた国際的都市としての様相を呈した。一方,このルートを通って,すでに6世紀の中葉には中国の養蚕術が東ローマに伝えられ,また中国の製紙法も,有名なタラス川の戦(751)を契機としてやがて西アジア,ヨーロッパへと伝えられた(紙)。また6~7世紀における突厥(とつくつ)の勃興に伴って,天山北麓よりアラル海,カスピ海の北岸地帯を経て東ローマに至る〈草原の道〉も,〈オアシスの道〉と並んで再び脚光をあびるに至った。…
※「養蚕」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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