桃生郡(読み)ものうぐん

日本歴史地名大系 「桃生郡」の解説

桃生郡
ものうぐん

面積:四四八・一五平方キロ
鳴瀬なるせ町・矢本やもと町・河南かなん町・河北かほく町・桃生ものう町・北上きたかみ町・雄勝おがつ

県の北東部に位置し、東部は北上山地、西部は旧北上川によって広く開析された沖積平野で、東西に帯状となっている。北は本吉もとよし郡・登米とめ郡、西は遠田とおだ郡・宮城郡、南は石巻いしのまき湾・石巻市・牡鹿おしか郡、東は追波おつぱ湾・雄勝湾で太平洋に面する。郡域を新旧二本の北上川と鳴瀬川などが流れる。追波湾に注ぐ北上川(新北上川・追波川)登米郡を南流し、河北町で東流、北上町と雄勝町の境界を流れ海に注ぐ。石巻湾に注ぐ旧北上川は本吉郡津山つやま柳津やないづから桃生町の西端、河南町の東端を南曲流して石巻市に入り海に注ぐ。また郡南西部、鳴瀬町のほぼ中央を鳴瀬川・吉田よしだ川が流れる。ほか江合えあい川・はさま川・じよう川なども含め当郡の河川との関係は密接である。交通は東部は道路に依存するのみで、国道三九八号(リアスブルーライン)が南北に貫通するほか、県道釜谷かまや大須おおす―雄勝線が通る。西部は国道四五号・一〇八号などのほか鉄道として石巻線・仙石せんせき線・気仙沼けせんぬま線が通り、交通事情は比較的良好である。

郡の成立時期は明らかでないが、もとは牡鹿郡に含まれたと考えられている。「続日本紀」天平宝字元年(七五七)四月四日条に「陸奥国桃生」とみえる。郡としての初見は同書宝亀二年(七七一)一一月一一日条で、「陸奥国桃生郡人外従七位下牡鹿連猪手賜姓道嶋宿祢」とある。「和名抄」郡部によれば「毛牟乃不」と訓じる。

〔原始〕

遺跡の分布は東部は北上川流域の丘陵先端・入江奥部、西部は南北に横たわる低い旭山あさひやま丘陵上と旧北上川および定川・鳴瀬川・吉田川流域の段丘上に分布。当郡は直線で約五〇キロと東西に範囲が広いため、遺跡の性格も地域によって異なっている。旧石器時代の遺跡は現在発見されていない。縄文時代では北上川流域、旧北上川西岸の丘陵部、西方旭山丘陵周辺に貝塚が分布。宮戸みやと(現鳴瀬町)には縄文期だけでなく奈良・平安期の貝塚も集中して分布する。桃生町東北部には県内最古の人骨を出土した早期の樫崎かしざき貝塚や十所とどころ貝塚の一部がかかる。北上川流域の北上町・雄勝町には、中・後期の天雄寺てんゆうじ貝塚に代表されるように三陸貝塚の特徴である岩礁性の貝が多く、堆積は顕著でない。河北町はその中間地域であり、石巻市南境みなみざかい貝塚は河北町南端の北境きたざかいにまで広がり、ハマグリアサリの貝層が厚く堆積し、外洋性から内湾性貝類への変化がみられる。河南町では旭山丘陵周辺に分布し開運かいうん山上のたからみね遺跡があり、後・晩期の膨大な出土資料のうち後期中葉の土器は「宝ヶ峯式」と命名され、編年基準資料となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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