桐生新町(読み)きりゆうしんまち

日本歴史地名大系 「桐生新町」の解説

桐生新町
きりゆうしんまち

[現在地名]桐生市本町ほんちよう一―六丁目・横山町よこやまちよう西久方町にしひさかたちよう一丁目・天神町てんじんちよう一丁目・宮本町みやもとちよう

桐生川の開析によって形成された扇状地上に位置し、東は今泉いまいずみ村、西は本宿もとじゆく村、北は下久方しもひさかた村、南はしん川を隔てて新宿しんしゆく村。江戸と桐生を結ぶ桐生道は北端天満宮終点であった。当町の成立については、天正一一年(一五八三)に「荒戸原へ新町を割り、六丁目欠下舟渡場にて新田への往還なり」(桐生故事)、同一九年に「町並みを作りて御陣屋を建つ、円満寺の北なり」(天正遺事「桐生市史」所収)、慶長一一年(一六〇六)「新町開けし時に、周田喜右衛門一番に小間物見世を張る」(「今泉村見聞録」木村文書)などとあり、一様ではない。慶長三年の桐生領惣永辻改(桐生市史)には荒戸新町あらとしんまちとある。寛文郷帳では新町村とみえ、高三〇六石余、畑方のみで館林藩領。天和二年(一六八二)の分郷配当帳では旗本神尾領。元禄郷帳では荒戸村のうち新町と記す。荒戸村の高二千七七八石余、旗本河野・大久保領など九給。近世後期の御改革組合村高帳では高三二一石余、出羽松山藩領、家数七六七で、上仁田山かみにたやま村などほか二四ヵ村の寄場が置かれていた。

慶長初年町立ての説をとれば、幕府代官大久保長安の手代大野尊吉が、桐生領五四ヵ村の親郷として、梅原うめばら天神(現桐生天満宮)を下久方村の赤城あかぎノ森へ移しそこを北端として新たに在郷町を建設したのであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の桐生新町の言及

【桐生[市]】より

…南北朝の初期,桐生国綱が市街地北方の檜杓(ひしやく)山に桐生城を築いたが,城下の繁栄はみられなかった。近世初期には桐生天満宮の社前から南方へ桐生新町が計画的に造成され,17世紀初めには絹市が開かれて桐生織物の基礎が確立した。染色,洗浄に適した桐生川の水や,周辺の養蚕・製糸地帯をひかえ,北関東機業地域の中心地となり,明治・大正から昭和の初めにかけて著しく繁栄した。…

※「桐生新町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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