デジタル大辞泉
「桐生市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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桐生市
きりゆうし
面積:一三一・九三平方キロ
県の東端に位置し、東は栃木県安蘇郡田沼町・足利市、西は山田郡大間々町、南は新田郡笠懸村・藪塚本町、太田市、北は勢多郡東村。東方根本山丘陵と北方鳴神山丘陵の間を流れる桐生川の開析によって形成された扇状地上および渡良瀬川の開析によって形成された大間々扇状地の東部に立地。市南部の渡良瀬川右岸には八王子丘陵が孤立し、桐生川はその東麓で渡良瀬川と合流。また市西部を山田川が南流する。現市域は近世には桐生川左岸の三村(小友村・上菱村・下菱村)が下野国足利郡であったほかは上野国山田郡に属した。主要交通網は国道五〇号が市域南部を通り、足利市・笠懸村・佐波郡赤堀町・前橋市とを、国道一二二号は大間々町・太田市などとを結ぶ。鉄道は国道一二二号に沿って桐生―間藤(現栃木県上都賀郡足尾町)間を結ぶ国鉄足尾線や明治二二年(一八八九)全線開通した現国鉄両毛線、大正二年(一九一三)太田―相老間が結ばれた東武桐生線、昭和三年(一九二八)前橋市の中央前橋駅と西桐生駅を結ぶ上毛電鉄線が通る。
「吾妻鏡」養和元年(一一八一)閏二月二五日条に足利氏の郎党として「桐生六郎」がみえ、桐生氏は当地方の武士とされる。「きり」は開墾地、「う」は峡谷の意で地形から地名が付けられたという説がある。市名は当地方の中心であった近世の桐生新町、近代の桐生町に由来。
〔原始・古代〕
先土器時代の遺跡に桐生川上流の不動穴遺跡などがあり、縄文時代の遺跡は山間部の段丘上東側、南側斜面に多く分布し、前期のものが多い。晩期の遺跡に千網谷戸遺跡が渡良瀬川左岸の段丘上にあり、東北地方の晩期最終末の土器と関連が深い千網式が設定され有名なほか、集落跡も確認されている。付近には中期を主体とする三島台遺跡や川内天王塚などがある。桐生川左岸には縄文早期を主体とする普門寺遺跡がある。弥生時代の遺跡は縄文遺跡と複合して発見され、古墳は前出の川内天王塚古墳、境野加茂神社塚が代表的なもので、ともに六世紀後半の築造と推定されている。現市域はほぼ「和名抄」の山田郡に属し、郡内四郷のうち大野郷・園田郷を当地域に比定する説もある。「延喜式」神名帳山田郡二座の賀茂神社と美和神社は市内の同名社にそれぞれ比定され、両社とも延暦一五年(七九六)に官社となり(日本後紀)、元慶四年(八八〇)には正五位下に進階している(三代実録)。
〔中世〕
園田御厨・須永御厨・広沢郷(御厨)があった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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桐生〔市〕
きりゅう
群馬県東部,栃木県との県境にある市。渡良瀬川と桐生川の合流点に位置し,赤城山の東南斜面に飛び地がある。 1921年市制。 1933年境野村,1937年広沢村,1954年相生村,梅田村の2村と川内村の一部,1959年栃木県菱村をそれぞれ編入。 2005年新里村と黒保根村を編入して飛び地とした。中心市街地の桐生は谷口集落として発達した市場町。周辺の養蚕地域を背後にもち,古くから仁田山絹の産地として知られた。天正 19 (1591) 年桐生領 54ヵ村の住民を移して桐生新町がつくられ,慶長5 (1600) 年関ヶ原の戦いの際に旗絹 2410疋を上納したのを契機に江戸幕府の保護を受けて著しく発展した。その後糸染織物が始められ,技術,織法の改良により桐生絹の名は全国に広まった。明治に輸出用絹織物の生産が始まり,工場での機械製織が増加し,周辺に多数の賃機農家と少数の機屋と小工場が点在する広い機業圏を構成した。第2次世界大戦後,機械,金属の工場が増加したが,繊維工業は事業所数の半分以上を占め,北関東屈指の機業都市としての地位を保つ。近年は国内向けの紋織御召,帯地,服地などを中心に輸出用の絹織物も生産される。川内に縄文時代の集落跡の上野千網谷戸遺跡 (こうずけちあみがいどいせき) があり,出土品の一部は国の重要文化財に指定されている。 JR両毛線,東武鉄道桐生線が通り,上毛電気鉄道,わたらせ溪谷鐡道の起点。国道 50号線,122号線,353号線が通る。面積 274.45km2。人口 10万6445(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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