桐野村(読み)きりのむら

日本歴史地名大系 「桐野村」の解説

桐野村
きりのむら

[現在地名]各務原市那加桐野町なかきりのちよう那加芦原町なかあわらちよう那加柄山町なかからやまちよう那加土山町なかどやまちよう那加琴が岡町なかことがおかちよう尾崎西町おざきにしまち

現各務原市域の北西端、東西に並列する三峰みつみね山・権現ごんげん山の西麓に位置し、村内をとどろき川が南流する。各務かかみ郡に属し、北は日野ひの(現岐阜市)、西は野一色のいつしき(現同上)、東は西市場にしいちば村・更木さらき八ヵ村入会地などに接する。中世には現市域北西部は弓削田ゆげた佐良木さらき郷の郷域であったとみられ、当村および岩地いわち・西市場・山後やまうしろ長塚ながつか新加納しんかのう前野まえの北洞きたぼらの八ヵ村に比定される。元禄郷帳に西市場村枝郷として村名がみえ旗本徳山領、高二一三石余。元禄郡高寄帳に新村と記される。明治二年(一八六九)の村明細帳によれば高二一三石余、田八町二反余・畑屋敷六町九反余、家数六二(うち医師一)・人数二六九、馬一〇。秣場一・山二があり、更木八ヵ村入会地の小物成九斗余、用水は上郷日野村の用水溝に依存

前掲八ヵ村が保有する更木八ヵ村入会地は、当村東にあたる現在の那加大洞なかおおぼら尾崎北おざききた町・尾崎南町・尾崎西町・那加新加納外六なかしんかのうほかろつ所大字入会地しよおおあざにゆうかいち・那加柄山町などの地域(かつて丘陵地帯であったが、現在は尾崎団地を中心とする地域)と、各務原台地西半にあたる現在の航空自衛隊岐阜基地の西部の地域および那加不動丘なかふどうがおか那加幸なかさいわい町・那加太平なかたいへい町・那加西野なかにしの町・那加新那加町・那加西那加町・那加楽天地なからくてんち町・那加本なかほん町・那加東那加町・那加日之出なかひので町・那加元なかもと町・那加吾妻なかあづま町・那加東亜なかとうあ町・那加北栄なかきたさかえ町・那加南栄なかみなみさかえ町・那加門前なかもんぜん町・那加楠なかくすのき町・那加大東なかだいとう町・那加桜なかさくら町・那加雲雀なかひばり町・那加栄町・那加雄飛なかゆうひおか町・入会にゆうかい町・那加昭南なかしようなん町・那加織田なかおだ町・那加東新なかとうしん町・那加信長なかのぶなが町・那加住吉なかすみよし町・三井東みいひがし町など。


桐野村
きりのむら

[現在地名]出石町桐野

日野辺ひのべ村の東にあり、出石川左岸東床尾ひがしとこのお(八三九メートル)の北麓を占める。文明一〇年(一四七八)八月吉日付で広峯ひろみね神社(現姫路市)の御師林五郎左衛門家長が、但馬国の同神社檀那(信者)居住の村々や先達名を記した注文(肥塚文書)のなかに「一きりの」とみえる。正保(一六四四―四八)頃成立の国絵図に村名がみえ、高三一三石余。出石封内明細帳によると拝領高三〇一石余・改出高三二石余、そのほかを合せ村高は三三九石余、この内訳は屋敷一〇石余・麻畑四石余・田方二一一石余・畑方一一三石余、ほかに古新発高七石余・新発高二石余、家数一〇七・人数四七五。


桐野村
きりのむら

[現在地名]多久市南多久町下多久みなみたくまちしもだく 桐野

桐野山の山麓一帯にある集落。背景の桐野山中腹には妙覚みようかく寺があり、その参道の南側には階段状に家屋が並んでいる。前方は扇状に田畑が広がる。正保絵図に村名がみえる。

丹邱邑誌」の享保一二年(一七二七)の「邑内郷村書出」には、牟田辺むたべ村に含まれているが、同書の弘化期(一八四四―四八)の「郷村」では「上・中・下・観音馬場」と四つの集落名をあげている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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