新村(読み)しんむら

精選版 日本国語大辞典 「新村」の意味・読み・例文・類語

しんむら【新村】

  1. 姓氏の一つ。

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本歴史地名大系 「新村」の解説

新村
しんむら

[現在地名]御嵩町上恵土かみえど 新町しんまち

本郷ほんごう村の北東、木曾川南岸の高い段丘上にあり、南東は伏見ふしみ村。中山道が東西に通る。本郷村と同様中世は荏戸えど郷、近世初期には上江渡かみえど村に属した。正保年間(一六四四―四八)以降分村。元禄郷帳に新村とみえ「古者上江渡村」と注記される。はじめ徳野藩領、承応二年(一六五三)以降幕府領。文化七年(一八一〇)の村明細帳によれば高二二五石余、田四町一反余・畑一六町三反余。家数二八(高持一九・水呑九)・人数八二(うち山伏一・尼二)、馬二。明治二年(一八六九)の村明細帳では家数三〇・人数一一九、馬二。


新村
しむら

[現在地名]能登川町新宮しんぐう 新宮東しんぐうひがし

阿弥陀堂あみだどう村の南西にあり、北西は宮西みやにし村。文献上は志村ともみえ、戦国期、新村氏が拠点とした志村城がある。元亀二年(一五七一)八月二八日、佐和山さわやま(現彦根市)まで本拠を移した織田信長軍は一向一揆の制圧に奔走するなかで志村・小川おがわ両郷に詰寄せ、翌九月一日に一揆の立籠る「志村城」を攻撃しこれを落した(同月二日「明智光秀書状」和田頴一家文書)


新村
にいむら

[現在地名]高石市東羽衣ひがしはごろも一―七丁目

今在家いまざいけ村の東、紀州街道と熊野街道の間にある。中世は大鳥おおとり(中心は現堺市)に含まれ、応永二一年(一四一四)四月日付の大鳥庄上条地頭職田数作付注文(田代文書)に「一反 孫三郎新村」とみえる。文明一二年(一四八〇)一一月九日付の大工処売券(同文書)によると、新村の弥五郎衛門が大鳥庄上条かみじよう王子おうじ北条ほうじよう浜田はまだ三ヵ村(現堺市)の大工所を売却している。


新村
しんむら

[現在地名]鳥取市新・南吉方みなみよしかた三丁目

吉成よしなり村の東、若桜わかさ往来の西側に位置する。吉成村の出村で、七軒屋しちけんやとも新吉成しんよしなりとも称された。邑美おうみ郡のうち。天保五年(一八三四)枝郷として届出されたとされるが(藩史)、鳥取藩内では寛保二年(一七四二)にはすでに独立村として扱われている(在方諸事控)天保郷帳に村名がみえ、高二二五石余。安政五年(一八五八)の生高二二五石余、物成一〇二石余、法美郡宇倍野うべの(現稲葉山)の保護を目的とする宇倍野山役米一斗余のほか、山役米一石二斗余が課されていた(「邑美郡下札帳」太田垣家文書)


新村
あたらしむら

[現在地名]花園村新子あたらし

有田川の上流谷間の村。西は北寺きたでら村。「続風土記」は「高野山より竜神及山保田荘へ往来の岐路なり、高野山より当村まて百五十八町」とし、小名として金剛寺こんごうじ堂原どうがはらいけくぼを記す。建治元年(一二七五)六月一七日の阿河上庄百姓牛馬追捕注文案(又続宝簡集)にみえる「あたらし」を当地とする説があるが、年未詳の阿河庄上村田代綿等注文(同集)に「いたをのあたらし」とみえるから、当地ではなく板尾いたお(現有田郡清水町)とすべきである。正平一四年(一三五九)一二月一七日の花園下庄預所下知状(中南区有文書)に「(花)薗庄内新村」とみえ、高野山領花園庄のうち。

近世も高野山領で、天保郷帳には「古者大滝村之内」とみえ、村高三四石余。


新村
しんむら

[現在地名]有田町大字中部ちゆうぶ

貞享四年(一六八七)改の郷村帳では、「一、新村 戸尺村・箱場村・外尾村・大野村・境野村・戸屋村御番所有・後川内村・外尾原」とあり、「箱場」はその後「嘉古場」さらに「桑古場」と変化、現地読みは「かこば」である。また現在では「戸尺」は戸杓としやく、「戸屋」は戸矢とやと記す。天保一〇年(一八三九)写の御領内郷村帳には、「一、堺野村」の中に「戸尺村・戸屋村御番所」、「一、箱場村」の中に「後河内村・外尾村・外尾原・大野村」が記されている。したがって新村は南部の境野さかいのと北部の「かこば」から構成されていたことがわかる。

慶長絵図では「曲川ノ内」として、「外尾村」「須加ノ村(現字菅野すがの菅元すがのもとか)」「古小庭(現古木場ふるこばか)」「境野」「長野」「鳥屋(現戸矢)」「大野」が記されている。


新村
しんむら

[現在地名]阪南町新町

尾崎おざき村の南西にあり、北西は大阪湾に臨む。村内を孝子きようし峠越の道が通る。村の成立はつまびらかでないが、鳥取とつとり郷の中で北湊きたみなととよばれた地という。また天正一五年(一五八七)波有手ぼうで村から分離したともいわれる(石川家文書)。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳に村名がみえ高三四一石余。延享元年(一七四四)和泉国村高記では一八六石余とあり、以後変化はない。領主の変遷は天明七年(一七八七)幕府領となるまで尾崎村と同じ。


新村
しんむら

[現在地名]日高町府中新ふちゆうしん

府市場ふいちば村の北に位置し、府中新村ともいう。村成立後天保七年(一八三六)まで出石藩領、同年幕府領となり(出石封内明細帳・「御用部屋日記」など)、幕末に至る。出石封内明細帳に高二四二石余とあり、「万治三年庚子年上石村・芝村・池上村・堀村・府市場村・土居村・松岡村右七箇村之内、悪田之分上地に仕候処、明る寛文元辛丑年検地之上、新村と小出様(出石藩主)御時代被仰付候」と寛文元年(一六六一)に村が成立したことが記されている。


新村
みむら

[現在地名]三橋町新村

吉開よしがえ村の南東、沖端おきのはた川北岸に位置し、北東は下妻しもつま富安とみやす(現筑後市)、東は同郡下妻村(現同上)。文禄四年(一五九五)の知行方目録には「三村」とみえ、中山なかやま村、瀬高せたか(現瀬高町)と一括されて高一千五二〇石余。元和七年(一六二一)の郡村帳には新村とあり、玄蕃高三五七石余、小物成は山手米一石余。万治三年(一六六〇)の忠茂公御代之分限帳(渡辺家史料)では立花杢之助ら二名の知行地があった。


新村
しんむら

[現在地名]打田町池田新いけだしん

重行しげゆき村の西南に位置し、東は勢田せいだ村。村域の南端を淡島街道が東西に通る。中世は池田庄に含まれた。

慶長検地高目録では三八五石余、小物成三斗一升八合。池田組に属し、元禄二年(一六八九)の池田組指出帳(田中家文書)には、田方三七三・九四四三石(二二町三反余)、畠方一二・七〇八七石(八反余)、家数三七、人数二〇五、馬四、牛一六とある。文化四年(一八〇七)の池田組大指出帳写(黒山家文書)では家数六九で内訳は本役二八・半役一九・無役一三・庄屋一・肝煎二・あるき一・寺五、人数二四三、村内の池として岩室いわむろ池・光松こうしよう池・ふか池など六つを記す。


新村
しんむら

[現在地名]富合町新

清藤きよふじ村の南、古閑こが村の東に位置し、もとは清藤・古閑・北田尻きたたのしり本札もとふだ四村の共有地で出作していたが、遠隔のゆえに荒地となっていたため、寛永六年(一六二九)に農民を移住させ立村したという。諸郷帳に村名はみえない。宝永三年(一七〇六)当村庄屋弥兵衛の差出(「村誌富合の里」所収)に「河江手永竹崎村・川尻外城町本町・託摩郡笛田村・飽田(ママ)中無田村・廻江手永清藤村北田尻村榎津村 右村々より入百姓、寛永六年ニ移リ申候」とあって、廻江手永以外の周辺各村からもかなりの移住者があった。


新村
しんむら

[現在地名]海南市野上新のかみしん

貴志きし川南岸に位置し、狭い河岸段丘および丘陵に集落が散在する。村域は南北に細長く、南は黒沢くろさわ(五〇九・四メートル)に達する。現海南市の東端にあたり、北は小畑しようばた(現海草郡野上町)、東は動木とどろき下佐々しもささ福井ふくい奥佐々おくささの諸村(現野上町)に尾根を隔てて対し、西は溝口みぞのくち村・九品寺くほんじ村に接する。那賀なが郡に属した。

慶長検地高目録に村名はみえない。「続風土記」は溝口村の出村であったが、藩主徳川頼宣の命によって一村となったとし、「九品寺・動木・溝口より次第に集まりし村といふ」とある。



あらおいむら

[現在地名]一宮町一宮 下村しものむら

一宮本郷いちのみやほんごう村の東にある同村枝郷で、一宮川右岸にある。一宮本郷新笈村とも称した。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高二四七石。正保国絵図でも同高。寛文四年(一六六四)の脇坂安政領知目録(寛文朱印留)に村名がみえ、信濃飯田藩領。元禄郷帳では高二五〇石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高二八一石余で家数四九、幕府領と伊勢八田藩主加納氏領。


新村
しんむら

[現在地名]三原町市新いちしん

徳長とくなが村の南にある。阿那賀あなが街道がほぼ東西に通る。もと同村の支集落で南原みなみばらといったが、元和年中(一六一五―二四)一村として立てられたといわれる(味地草)。寛永四年(一六二七)の新村検地帳(三原町教育委員会蔵)では反別二五町八反余・高二四一石余。正保国絵図では高二三三石余。天保郷帳では高二五一石余。反別戸数取調書によると反別二八町二反余、高二五三石余、うち蔵入高二〇石余・給知高二三一石余。給人は稲田八郎右衛門ら五人。家数六二・人数二八六。水利としては湧水が多く、円座出湧えんざでゆうのほか溜池がある(味地草)


新村
しんむら

[現在地名]大分市高崎たかさき 机帳原きちようばる
 

高崎山の南東麓にあり、西は高崎村、南は宮苑みやぞの村。北東方に由原ゆすはら宮の放生ほうじよう池があり、池の南東を回って同宮への道が通る。正保郷帳に村名がみえ田高一石余・畑高七石余、笠和かさわ郷に属する。領主の変遷は小野津留おのづる村に同じで、府内藩領中郷内成組。元禄一〇年(一六九七)府内領郷帳(府内藩記録)によると高二五石余、うち六石余が新田。安政二年(一八五五)、府内藩広瀬久兵衛は高崎村庄屋佐藤弥治右衛門の協力のもと机張(机帳)原の開拓を始めた。


新村
しんむら

[現在地名]岡山市西大寺新さいだいじしん

はま村の南、吉井川の左岸沿いにあり、南は乙子おとご村。牛窓うしまど往来は当地で吉井川を渡河し、対岸西方の金岡かなおか村と結ぶ渡船場があった。飯井いい(現邑久郡長船町)に源を発する干田ほした川は吉井川の東側を南流、当地で同川へ合流する。

寛永備前国絵図では高六四六石余。「備陽記」によると田畑五三町九反余、家数七一・人数四〇〇。小猟船から六端帆まで船八。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高一千一二五石余、家臣二人の給地。田高六六四石余・四六町五反余、畑高七六石余・七町二反余、家数八〇・人数三六七、牛二五、樋一〇、橋二九、船一八、宮は春日大明神(現春日神社)、波戸一、往来飛脚賃米四斗八升余。


新村
しむら

[現在地名]八日市場市しむら

貝塚かいづか村の北東に位置する。集落の前方に水田が広がり、後方には戦国期の城跡が良好に残る。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳に村名がみえ、旗本松平領一〇七石・幕府領二石余で、米倉組に属した。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一一三石余で、旗本荒木領。以後幕末まで村高・領主とも変化ない。承応三年(一六五四)・天和元年(一六八一)・元禄一一年と時期不明の検地帳(新区有文書)が四冊あるが、内容は欠落部分が多く不明。


新村
しんむら

[現在地名]西会津町新郷笹川しんごうささがわ

樟山くぬぎやま村の北東、ささ川左岸に位置し、耶麻郡吉田組に属した。古くは新町しんまち村と称していたが、同じ耶麻郡吉田組のうちにもう一つの新町村があったため、万治三年(一六六〇)に新村と改めた(寛文五年「吉田組風土記」)じんみね峠越が通る。「吉田組風土記」では高四六石余(うち新田七石余)、免三ツ八分二厘、家数六、男二二・女一九、馬三。紙漉一がおり、綿役銀五匁一分七厘余・山役銀一匁六分六厘・川役銀八分七厘余・役漆木八四本などを負担していた。


新村
しんむら

[現在地名]熊本市池上いけのうえ

阿弥陀寺あみだじ(万日山、一二八メートル余)の西と北西、独鈷どつこ(一一八メートル余)の東と北東に位置する標高五メートル余の低地にある。「国誌」に「新地高アリ、味生ノ池ヲ埋メテ新地トス」とある。味生あじう池の項に、加藤清正の頃までは池が残っていたが、埋められて新村が置かれたと記している。宝暦一一年(一七六一)の下ケ名寄帳では池田手永に属し、惣畝数一三町八反余、うち新地は八町四反余で八三石七斗余、諸開が五町四反余で、このほか田地二四町余の「池上村本地入込」がある。


新村
つじしんむら

[現在地名]立山町辻

辻村の西、下新しもしん村の北に位置。現在の辻集落の栃津とちづ川対岸の湧水地付近にあった。明暦二年(一六五六)の村御印留、寛文一〇年(一六七〇)の村御印ともに草高六二石、免三ツ(三箇国高物成帳)。天明五年(一七八五)には田六〇石・三町六反、屋敷高二石・一反余、家数五・人数一七。


新村
あたらしむら

[現在地名]日吉町字田原たわら

片野かたの村の北、田原川西岸にある村で、北は和田わだ村、東と西は山を越えて下稗生しもひよ(生畑村)上野うえの(保野田村)。村内を若狭街道が通る。園部藩領。村高は元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳に七二石余、天保郷帳では一八六石余となる。


新村
しんむら

[現在地名]神崎町新

武田たけだ村の東に位置する。武田村の枝郷で、寛永八年(一六三一)の分村という(香取郡誌)。武田新村・武田新田などとも記され、承応二年(一六五三)の神崎庄武田新村検地帳写(新区有文書)では田畑屋敷一八町九反余のうち畑屋敷六町二反余で、高二三一石余。元禄一一年(一六九八)旗本斎藤領から旗本天方領となり、武田村と入会の地頭林一七町八反余の三分の一を分割された(武田区有文書)


新村
しむら

[現在地名]丸岡町安田新やすたしん

下安田しもやすた村の東にある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では安田村に含まれていた。村名は正保郷帳にみえ、田方四四六石余・畠方二一石余。正保二年(一六四五)より松岡藩領、享保六年(一七二一)再び福井藩領となった。

安永二年(一七七三)福井藩金津領村鏡(高橋家文書)によれば、高四六一・三八七石、田一七町二反、畑四反二畝。


新村
しんむら

[現在地名]掛川市大池おおいけ

さか川と倉真くらみ川の合流点付近にあり、北・東・南は大池村に接する。寛永一〇年(一六三三)大池村の百姓志村四郎兵衛は罪科によって田地を掛川藩に収公され、この地が一村となって同一六年に再検地が行われたという(掛川誌稿)。ただし正保郷帳では依然として大池村に含まれている。掛川藩領として幕末に至る。


新村
しむら

[現在地名]小俣町新村

小俣村の西にあり、集落は東新村ひがししむら・西新村に分れる。元禄郷帳には近世は世古せこ(現玉城町)の枝郷として村名がみえるが、天保郷帳では同村に含まれ、独立した行政村ではなかった。その後立村し、明治二年(一八六九)の大指出帳(徳川林政史蔵)によれば家数二七、人数一四九、馬一六。


新村
しんむら

明治維新後廃村となり、伝承もなく所在は明確ではないが、慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では今南東郡に「新村」高一七九・五石とみえ、正保の越前国絵図には、杉尾すぎお村と長五ちようご村の中間に新村が描かれている。現鯖江市新町の福岡家に慶長三年(一五九八)七月付の越前国今南東郡下新庄内新村御検地帳が伝来し、郡名と村高一七九・九五石から当村の検地帳であることが判明した。


新村
しんむら

[現在地名]西区玉津町丸塚たまつちようまるづか

櫨谷はせたに川が明石川に合流する地点の櫨谷川右岸に位置し、同川を挟んで南は今津いまづ村。古くは丸塚村と称した。長さ一三間・横一〇間の丸塚があったことによるという(明石記)慶長国絵図に丸塚村とみえる。正保郷帳も同様で田方二〇九石余・畑方一八石余、小松山あり。


新村
しんむら

[現在地名]大津町新

苦竹にがたけ村の南に立地。慶長二年(一五九七)頃苦竹の町立てのために強制移住させられた農民が還住して形成した村という。元禄国絵図に「町村之内新村」とみえるが、「国誌」には村名がみえない。合志郡大津手永に属し、寛政七年(一七九五)写の大津手永手鑑に高四〇九石五斗余、田九町三反八畝余・畑三二町八畝余、人数二七一、牛馬三五とある。


新村
いばらしんむら

[現在地名]白根市茨曾根いばらそね

茨曾根村内の一集落で単に新村しんむらとも称したが、延宝六年(一六七八)分離独立という(清水沿革誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の新村の言及

【ソウル】より

…江北の旧城外地域は住宅街の中に大学や高校などの教育機関が散在する文教地区となっている。その代表的な文教地区である西大門城外の新村には延世大学校梨花女子大学校などが集中しているが,地下鉄の開通(1983)とともに,商業地としても脚光をあびている。江北の住宅はおおむね一戸建てで,江南の漢江辺の高層アパート群と対照を見せている。…

【馬渡島】より

…江戸時代には唐津藩の馬や鹿の放牧場があった。台地上に散村形態をなす新村(しんむら)は農業を主体とするカトリック教徒の集落で,寛政年間(1789‐1801)隠れキリシタンが弾圧を逃れて来住したことに始まるという。教会,修道院などがある。…

※「新村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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