デジタル大辞泉
「多久市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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多久市
たくし
面積:九七・一六平方キロ
県のほぼ中央に位置し、周辺の山・丘陵台地を含む多久盆地の中に、多久・西多久・北多久・南多久・東多久の五町がある。
山は北面を東から西に天山・船山(旧女山)・八幡岳(旧日鼓岳・日包岳・涅槃岳・地蔵山)とあり、南方には西から徳連岳・鬼ノ鼻山連峰・両子山と連なり、東部に鏡山・峰山がある。それらの山々は四囲に重なり合って、卵形の多久盆地を形成しているが、わずかに東南に開け、佐賀平野に続いている。また盆地中央のやや西寄りに山崎山と坊山が小高い丘のように坐っているので、平坦部は山麓伝いの細長い西部と、いくらか広域の東部平坦地帯に分れる。八幡岳・徳連岳を源流とする牛津川は中央部を西から東に向かって貫き、山々からの支流を合わせ、納所から小城郡牛津に抜け、杵島郡の六角川と合流し住ノ江港(現小城郡芦刈町)に注ぐ。
四囲の山並は急峻で、北部は花崗岩系、南部は安山岩系の土性であるため、雨季には流水が一挙に増加し、古来水害多発地帯である。ことに東多久町古賀を中心とする牛津川沿岸は感潮河川という特色もあって、満潮期にはわずかの雨量でも氾濫しやすい。また台風通過地帯であるから風による災害も加わり、夏季には旱魃による農作物の損耗もあって、自然環境からのきびしい生活への圧迫があり、数々の信仰や民俗行事を残してきた。
〔地名の起源と変遷〕
「和名抄」に小城郡内の郷として「高来」とあり、のちに刊本で「多久」と訓読される。近世における多久郷と推定され、今日の多久と解されている。「延喜式」に「高来駅」がみえ、「宇佐大鏡」に「高来別符」があり、いずれも「高来」は「多久」とみられてきた。
文永三年(一二六六)六月の肥前国検注帳案(竜造寺家文書)の裏書に「一 多久は しやうふん きりののふもと むたへ よりつかまつりはしめて候也」と記され、「多久」とみえる。正応五年(一二九二)の「惣田数注文」(河上神社文書)に「公田分」として「高来東郷」「同西郷」があって、「高来」「多久」が同地域で併用されていたのか、どちらかに包含されるものであったか、相互の関連はあいまいである。
宗像神社文書の宗像社事書第四条に正和二年(一三一三)宗像重臣の得分として「田久」がみえ、旧多久村と推定されているが(宗像神社史)、これも「高来」「多久」との領域比定が容易でないため、同地帯の同訓異字とするには確証とすべき史料がない。近世中期に編纂された「水江事略」には「多久ハ和名高来ニ作ル也」と注記があり、「高来」を「多久」の古名としているが、これもほかに傍証史料はない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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多久〔市〕
たく
佐賀県中部,筑紫山地に囲まれた六角川支流の牛津川上・中流域にある市。 1954年北多久町と東多久,南多久,多久,西多久の4村が合体して市制。早くから開けたところで,律令時代には駅路が通じていた。鎌倉時代から戦国時代まで多久氏が支配。その後龍造寺氏を経て鍋島氏に帰し,その一族が新たに多久氏を名のり所領とした。中心市街地の莇原 (あざみばる) は明治中期から唐津炭田の炭鉱町として発展。特に第2次世界大戦後は石炭産業の好況により繁栄したが,59~69年の間に閉山し,電気器具,衣料などの工場が進出。農村部では米作のほか,ミカンなどを産する。南部にある多久聖廟は重要文化財で史跡。北部は天山,西部は八幡岳の2つの県立自然公園に属する。 JR唐津線,国道 203号線,厳木多久道路が通じ,長崎自動車道のインターチェンジがある。面積 96.96km2(境界未定)。人口 1万8295(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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