梅内村(読み)うめないむら

日本歴史地名大系 「梅内村」の解説

梅内村
うめないむら

[現在地名]二ッ井町梅内

米代川の北岸にある。米代川の支流種梅たねうめ川をさかのぼり、たね村を過ぎて当村に至る。切石きりいし村の渡しから約一里。種梅川に沿って北に延びる細長い山村で、留山の多い秋田杉の産地。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に、「四百廿六石壱斗三升八合 種村 梅田村」とあり、「梅田村」は当村であろう。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に一二七石とあり、その後は他村からの移住による支郷の開発が多い。寛文年間(一六六一―七三)岩坂いわさか村が秋田郡比内ひない(現北秋田郡・大館市)からの移住で開発され、大野おおの村も寛文年間に開発された。ただ大野村は貞享年間(一六八四―八八)に潰れている。延宝年間(一六七三―八一)柾山沢まさやまざわ村、宝永三年(一七〇六)柾山沢口まさやまさわぐち村、同年に小滝こだき村が粕毛かすげ(現藤里町)からの移住によって開発され、正徳元年(一七一一)には村(のち馬子岱ばつこだい村)、享保五年(一七二〇)田野沢たのさわ村が開発されている。


梅内村
うめないむら

[現在地名]三戸町梅内

馬淵まべち川と熊原くまはら川の合流点の南に位置し、東は八戸藩領名久井なくい(現名川町)、西は三戸村豊川とよかわ村、南は目時めとき村、北は川守田かわもりた村・泉山いずみやま村に接する。永正(一五〇四―二一)の頃の糠部九箇部馬焼印図(古今要覧稿)の「三ノ部」の項に「むへない印雀并百姓ほり祖印、すぐれたる馬少々注之」とあるのが当村とみられる。戦国時代より三戸南部氏の支配下に入る。集落の東のたてに梅内館跡があり、北氏の一族梅内氏の居館というが、詳細は不明。

当村の北西端にある二日ふつか町・八日ようか町・同心どうしん町・在府小路ざいふこうじは天正一八年(一五九〇)三戸が城下町と定められると、当村から分離して城下に編入されたとみられる。のち城下が移転すると町場は再び当村に編入された模様であるが、あるいは三戸町(三戸村)ともよばれた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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