種村(読み)たねむら

日本歴史地名大系 「種村」の解説

種村
たねむら

[現在地名]能登川町種

いま村の東、愛知えち川左岸にあり、南は神郷じんごう村。「東大寺三綱記」に善教ぜんきよう寺なる寺院が「神崎郡神主郷種村」に所在したことを記すが、「和名抄」にも載る神主かむぬし郷の遺称地を神郷とすれば、この種村は当地と考えられる。中世小幡おばた(現五個荘町)に種村が存在したが、当地に比定しうる。永享四年(一四三二)には神崎郡小幡郷内の閤村・種村をめぐって相論があった(五個荘町の→小幡郷・小幡位田。なお「雑事要録」文明一〇年(一四七八)の条に「南郡種村番米事刑部卿殿御自筆御奉書」とあるのは当地か。永禄五年(一五六二)一月蒲生定秀が種村三河守が居城する八仏手やぶて城を攻め、同氏を降しているが(蒲生文武記)、これは種村城と思われる。城主とされる種村氏は、守護六角久頼の三男高成が当地に一城を構え種村氏を称した。永禄六年の観音寺騒動の際は建部氏とともに参戦するが六角氏に攻略された。のち母方の大橋姓を名乗り、同氏と和解。六代隆重は徳永寿昌に仕えて関ヶ原の戦に、七代重成は池田輝政に従い大坂の陣に参加した。八代目・九代目も小堀遠州に仕えるなどしたが、元禄期(一六八八―一七〇四)に帰農したという(「種村氏系図」大橋家蔵)


種村
たねむら

[現在地名]二ッ井町種

梅内うめない沢の入口にあたり、羽州街道を切石きりいし渡で米代川の北岸に渡った所にある。西は飛根とびね村、東は荷上場にあげば村・比井野ひいの村・薄井うすい村、南は切石村、北は梅内村、矢坂やさか(現藤里町)に接する。種梅たねうめ川の下流と米代川沿岸のわずかな平地に支郷が点在するが、村の大部分は山地で、周辺村々の草飼・薪入会地として利用された。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に、「四百廿六石壱斗三升八合 種村 梅田村」とあり、正保四年(一六四七)の出羽一国絵図では梅内のうち種とある。支郷に樋口ひのくち村・外面そとおもて村があり、外面村は寛永年間(一六二四―四四)に開かれたが、米代川沿いで洪水の影響を受けやすく、元禄年間(一六八八―一七〇四)に潰れ、享保六年(一七二一)に起返りとして再生した(秋田風土記)


種村
たねむら

[現在地名]湯原町種

見明戸みあけど村の北、旭川支流粟谷あわだに川中流域の小盆地に位置し、同川支流沿いの大谷おおたにかなはら柳谷やないだにに集落が散在する。東は小童谷ひじや村、西は鉄山かねやま(現美甘村)正保郷帳によれば田高二二八石余・畑高四八石、元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳によれば改出高一七七石余・開高六四石余。元禄初頭の家数六一・人数二七四、枝村の桑瀬くわぜ村は家数五・人数二二(作陽誌)。領主の交替は仲間なかま村に同じ。鉄山村の続きで当村も古くからタタラによる鉄の産地であり、その跡を残している。寛文―延宝期(一六六一―八一)に当村の本名清左衛門が備前・伯耆へ鉄を出荷した記録(断片、「二川村史」)が残る。また勝山藩が奨励した葉煙草(いわゆる山中煙草)の産地でもあった。


種村
たねむら

[現在地名]津幡町種・平野ひらの

能瀬のせ川上流両岸、段丘上に位置。正保郷帳では高三〇四石余、田方一三町三反・畑方六町九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高三五〇石、免五ツ六歩、小物成は山役二四三匁・野役九匁・蝋役二匁(三箇国高物成帳)。寛文年間の百姓数二八(高免付給人帳)。天明八年(一七八八)山崩れ・川筋石入りなどの変地御償米代として一ツ六歩引免、以後引免は上下したが、享和二年(一八〇二)三ヵ年六歩引免、同年の高二八二石(「河北郡引免根帳」林文書)


種村
たねむら

[現在地名]菊間町種

種子村とも書く。高縄たかなわ半島の北西岸に位置しいつき灘に面する。傾斜地が多く、平地は種川に沿ってわずかに延び、集落は旧今治いまばり道に沿っている。南部の高仙こうぜ山麓からは弥生式土器が出土し、山頂には戦国期の城砦高仙城があり池原氏の居城であった。村名は中世の種郷に由来する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)野間のま郡の項に「種子村 日損所、林少有、芝山有、小川有」とみえ、村高は七七八石九斗八升三合である。貞享(一六八四―八八)頃の代官矢野五郎右衛門源太は、八幡山を開削して種川の水路をまっすぐに海に注がせる改修工事を行っている。「野間郡手鑑」によると、享保末年から元文(一七三六―四一)頃の村は田六三町六反余、畑三五町三反、新田畑一町余、家数一七〇軒、人数七六九人の大村である。


種村
たねむら

[現在地名]芳井町種

花滝はなだき村の西にあり、北は二箇にか(現川上郡川上町)、西は池谷いけだに村。標高四〇〇メートルほどの高原に位置。「日本書紀」安閑天皇二年五月九日条にみえる「多禰たね屯倉」を当地に所在比定する説もある(「備中誌」など)。「大日本地名辞書」も同様に比定するが、「山中の僻地とす、往時官家を定めらるべき沃土通邑にあらず」と疑問視もしている。慶長一一年(一六〇六)の徳川家康朱印状(高山公実録)後月郡のうちとして村名がみえ、高六一六石余、伊予の藤堂高虎に加賜されている。元和元年(一六一五)以降摂津麻田藩領となり、幕末に至ったと思われる(「寛政重修諸家譜」など)


種村
たねむら

[現在地名]津山市種

北東は横山よこやま村、東は荒神山こうじんやま村、西はさら村、南は越尾こよお(現久米郡中央町)に接する。元禄一四年(一七〇一)から宝永六年(一七〇九)まで甲斐甲府藩徳川綱豊領、その後幕府領となり、延享二年(一七四五)から宝暦一三年(一七六三)まで播磨国三日月藩預、同年以後下総国古河藩領となる(美作国郷村支配記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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