梅北村(読み)うめきたむら

日本歴史地名大系 「梅北村」の解説

梅北村
うめきたむら

[現在地名]都城市梅北町

安久やすひさ村の西にあり、南から南西にかけては大隅国囎唹そお郡と境している。村域は南東の一部が鰐塚わにつか山系にかかるが、大半は都城盆地の平坦な田園地帯で、中央を大淀川支流の梅北川が北流している。

当地の古名は益貫ますのきで、島津庄みなみ郷に属していた。島津庄の開発拠点ともなったこの地の在地領主伴氏の系譜を引く梅北氏の、近世の書上である梅北庄兵衛覚(肝付文書)には、伴善男の五代孫のときに鹿児島に下向、さらにその子孫が梅北に居住したとし、梅北の古名は益貫であったが梅北と名付けたと伝える。ただしその年代は不詳。五十ごじつ町にあった時宗光明こうみよう寺の天正一三年(一五八五)の棟札銘によれば、同寺は貞和二年(一三四六)に七代遊行上人記阿が「南郷益貫」に創建したと記している(庄内地理志)。大永六年(一五二六)九月二四日の神柱宮再興勧進(旧記雑録)には、「日向州南郷益貫村神柱宮」とみえる。神柱かんばしら宮は万寿三年(一〇二六)に島津庄の寄進主である平季基が勧請した同庄惣鎮守と伝える。惣鎮守の置かれたこの地は島津庄開発領主伴氏の拠点でもあった。「三俣院記」には神柱宮は仁安二年(一一六七)伴兼景、弘安四年(一二八一)に伴兼世、応永八年(一四〇一)に島津元久ら、文明一五年(一四八三)に島津武久、永正一三年(一五一六)に新納忠武、天文四年(一五三五)に新納忠勝、天正四年に北郷時久により修造されたことがみえ、伴氏から守護島津氏、新納氏、北郷氏と当地の支配者が替わっていったことが推察できる。なお伴氏の勢力基盤であったことは、梅北の西生さいしよう寺が仁安三年三月二日に伴兼高を願主に造営されたと伝えることなどからも確認できる(「西生寺山王社仁王像胎内板銘」旧記雑録)

梅北地域は南九州の門の早期の出現地としても知られており、貞和三年六月の梅北沙弥某坪付(「庄内地理志」所収梅北文書)には宇那木田門・湯屋之前門・神応寺かんのじ門・西之薗門・的遅(的庭)門、同年同月の沙弥定阿坪付(同文書)には南之郷之内として諸麦門・田万里門・女橋おなばし門のほかに下高久田・門貫かどのきなどがみえる。なお年代未詳ながら室町期のせのくち田地注文(樺山文書)には「むめきたのめうくるしました地の事」とみえ、「せのくち」の田地として「ふちわき」「ひわたし」「ふるいわ」「くほた」「ない田」「よこまくら」「うし口」「まつかさこ」「その田」「かと田」「さかもと」に二町五反余の田がみえ、このほか六反田と合せ三町一反となっている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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