日本大百科全書(ニッポニカ) 「梅村騒動」の意味・わかりやすい解説
梅村騒動
うめむらそうどう
1869年(明治2)2~3月に高山(たかやま)県(現岐阜県)で起こった新政反対一揆(いっき)。知事梅村速水(はやみ)(1842―70、水戸藩出身)は、「皇化愛民」を掲げて、勧農商、租税、教育、兵事などにわたる新政策を強引に打ち出した。この諸政策は、豪農商の特権の侵害、農民の負担の増大をもたらした。その不満の累積が2月29日ついに爆発し、高山町(現高山市)で数千人が結集して激しい打毀(うちこわし)、焼打ちとなり、さらに飛騨(ひだ)一帯に波及した。3月2日にいったん鎮静したが、3月10日にはふたたび爆発し、益田(ました)郡萩原(はぎわら)村(現下呂(げろ)市萩原町)で梅村の宿舎の焼打ちを含む激しい戦闘が展開され、12日にようやく鎮圧された。この間、約400軒が焼打ち、打毀の被害を受けた。政府は梅村らを罷免してその責任を追及する一方、一揆側の首謀者の処分を行って、一件は落着した。この騒動は、新政反対一揆としては早期に属し、その先駆をなすものである。
[近藤哲生]
『土屋喬雄・小野道雄編著『明治初年農民騒擾録』(1953・勁草書房)』▽『『岐阜県史 通史編 近代 下』(1972・岐阜県)』▽『佐々木潤之介編『日本民衆の歴史5 世直し』(1974・三省堂)』