楯岡村(読み)たておかむら

日本歴史地名大系 「楯岡村」の解説

楯岡村
たておかむら

[現在地名]村山市楯岡・楯岡新町たておかしんまち一―三丁目・楯岡俵町たておかたわらまち楯岡五日町たておかいつかまち楯岡十日町たておかとおかまち楯岡中町たておかなかまち中央ちゆうおう一―二丁目・楯岡新高田たておかしんたかだ楯岡晦日町たておかみそかまち楯岡二日町たておかふつかまち楯岡鶴たておかつるちよう一―二丁目・楯岡北町たておかきたまち一―二丁目・楯岡湯沢たておかゆざわ楯岡楯たておかたて楯岡馬場たておかばば楯岡大沢川たておかおおさわがわ楯岡笛田たておかふえだ一―四丁目・楯岡荒町たておかあらまち一―二丁目・楯岡東沢たておかひがしさわ

山形盆地北東部、こしき(一〇一五・六メートル)の西麓、大沢川の小扇状地に位置する。中世期には前森氏、次いで本城氏の居城があったと伝えるが、つまびらかでない。応永一三年(一四〇六)最上満国が入部して楯岡氏を称した。文安二年(一四四五)四月一五日の祥雲しよううん寺の六角膳銘に「出羽国村山郡湯之沢村(鷲)霊峰 仏法龍門山祥雲寺楯岡城主為 菩提納之 伊(予)守満国公」とあり、楯岡氏二代満正が満国の菩提を弔うため奉納したものである。天正二〇年(一五九二)二月二八日の二通の楯岡聖王丸充行状写(石川文書、近津家所蔵「鮎貝氏系図」所収文書)によれば、最上義光の四男満茂が楯岡城主で、「楯岡ニ南谷地田之内、知明堰ニ壱万苅之所」を石川与三右兵衛尉に、「楯岡之内、谷地田并知明堰ニ壱万五千苅之所」を鮎貝摂津守忠宗に宛行っている。


楯岡村
たておかむら

[現在地名]伊賀町楯岡

下柘植しもつげ村の北西に位置し、村の北部は丘陵で樹枝状谷が発達、丘陵の南に集落がある。元禄二年(一六八九)新検を改めている。本高三七五・七七石、平高五二〇・四石。大部分が藤堂監物ら四名の給地。寛延(一七四八―五一)頃の戸数四七、人口一八四、馬九。神社は神明天王・天満天神、寺は浄林じようりん寺である(宗国史)。天満天神(菅原神社)は明治二五年(一八九二)神明神社に合祀、さらに神明神社は同四一年新堂しんどうの神明神社へ合祀された。浄林寺は浄土宗。寛永一三年(一六三六)の伊賀付差出帳(上野市沖森直三郎氏蔵)に記載する忍の衆二〇人のうちの一人として楯岡道順の名がみえる。

浄林寺の北西丘陵端に大井おおい城跡がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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