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「沢村」の意味・読み・例文・類語
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さわむらさはむら【沢村】
- [ 一 ] 姓氏の一つ。
- [ 二 ] 歌舞伎俳優の姓の一つ。元祿(一六八八‐一七〇四)期の上方の名優沢村小伝次・沢村長十郎兄弟を系祖とし、享保(一七一六‐三六)期に名優沢村宗十郎が出て名声を高め、江戸に移住してのち、江戸の名家となる。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
沢村
ますざわむら
[現在地名]宮守村上鱒沢・下鱒沢
西流する猿ヶ石川流域を占め、ほぼ北流してきた小友川が同川に合流する。北西は下宮守村、北は上宮守村、猿ヶ石川上流は上綾織村(現遠野市)。仙台藩領との境にあたり、境目番所が置かれた。増沢村(寛永四年「南部利直知行宛行状」三翁昔語)・升沢村(遠野旧事記)と記される場合もある。文治五年(一一八九)源頼朝が藤原氏を滅ぼしたのち阿曾沼広綱に遠野一二郷を与えたが、うち下六郷の一郷として鱒沢があったという(阿曾沼興廃記)。
寛永四年(一六二七)当村の高七三一石余が八戸弥六郎直義(遠野南部氏)知行地となった(前掲南部利直知行宛行状)。宝永二年(一七〇五)より盛岡藩蔵入地となり、正徳二年(一七一二)再び遠野南部氏知行地に戻った(遠野古事記)。元禄十郡郷帳による〆高は田方三二八石余・畑方四六一石余。元文三年(一七三八)の給人書上によれば一千二石。
沢村
するさわむら
[現在地名]大東町摺沢
曾慶村の西方にあり、ほぼ中央を西流する曾慶川が西方で砂鉄川と合流する。東西に今泉街道が通る。村名の由来は滝尻にある芦摺滝からとったとも、宝玉を摺りみがいた所だからともいわれるが未詳。磨沢・数流沢とも記され、現在はすりさわとよばれている。元亀二年(一五七一)九月一三日の葛西晴信宛行状写(参考諸家系図)に「岩井郡摺沢村」とみえ、磐井郡一揆鎮圧の軍功により、同村内五千刈が三田刑部少輔に宛行われている。慶長六年(一六〇一)には同四年分の「する沢」の年貢として本砂金二枚二匁七分五厘・砂金六匁七分五厘の計二枚九匁五分が伊達氏へ納められた(同年「伊達政宗年貢請取黒印状」伊達家文書)。寛永一九年(一六四二)の摺沢村検地帳(県立図書館蔵)によれば、田九七町八反余・代一一〇貫五八九文、畑一八七町二反余・代四二貫九三七文、茶畑二反余・代七四七文、名請人数一一三。正保郷帳では摺沢宿とあり田一〇六貫二〇文・畑四〇貫八六六文、ほかに新田七貫五一五文がある。天和元年(一六八一)全村(一五九貫二二六文)が一関藩領となる(「田村氏知行目録」肯山公治家記録)。
沢村
ばらざわむら
[現在地名]甲西町
沢
駿信往還沿いに発達した宿村で、村域は同往還の東側は北は大師村、東は宮沢村・大師村、西側は北は古市場村、西は落合村に接する。当地南端近くで南流してきた坪川に秋山川が合流する。交通の要所として戦国期には市が立っていたとみられ、「甲斐国志」は身延ノ過去帳にみえる「西郡今市場」は当地のこととする。天正一〇年(一五八二)一一月八日の徳川家印判状写(譜牒余録)に「今宿」とみえるのも当地をさすと考えられる。「甲陽軍鑑」には天正元年のこととして「両和尚御座敷を立給ひ、御暇乞ありて帰洛なり、晴信公も西郡はら沢まで送給ふ」という記事がある(両和尚は惟高妙安・策彦周良のこと)。同二〇年二月一四日の加藤光政身延山末寺屋敷免許状(久遠寺文書)に「沢法泉寺」がみえ、屋敷四四四坪の坪銭が免除されている。
慶長六年(一六〇一)の沢村検地帳(県立図書館蔵)によると麦田一町二反余・上田二町二反余・中田三町九反余・下田二町四反余・下々田四町二反余、上畑九反余・中畑一町七反余・下畑二町四反余・下々畑三町四反余、田畑計二二町七反余、ほかに弾正荒五町二反余・熊蔵荒六町七反余、屋敷数は六〇、計五千九六一坪、ほかに「身延末寺御免」として法泉寺(二九〇坪)、門前屋敷円明坊(八四坪)・同新右衛門(四四坪)などが記されている。慶長古高帳によると高三一八石余で幕府領。寛永一〇年(一六三三)旗本新庄与惣右衛門領、寛文元年(一六六一)甲府家領となる(延宝三年「訴願書」市川文蔵家文書)。
沢村
よもぎさわむら
[現在地名]甲府市蓬沢一丁目・蓬沢町・青葉町
西高橋村の西にあり、北から南へ濁川が貫流する。若彦路が、北から南に通り、南方で南東へ折れて同村に続く。貞治三年(一三六四)二月一五日の一蓮寺寺領目録(一蓮寺文書)には「一条郷蓬沢」とみえ、同所の田地一町七反が貞和二年(一三四六)一〇月一三日甲斐守護武田信武から一蓮寺に寄進されている。また観応二年(一三五一)二月一〇日には小笠原近江入道妻専阿から蓬沢五反の地が同寺に寄進されている(同目録)。天正一一年(一五八三)四月一九日には蓬沢のうち九七五文が石和八幡の社領として安堵された(「徳川家康印判状写」社記)。
慶長古高帳では高六五二石余、ほかに神明領二石余。四冊のうち三冊が残る慶長六年(一六〇一)の検地帳(県立図書館蔵)によれば、屋敷は一町五反余、うち七反余が永荒地。貞享二年(一六八五)にも検地が行われた(「検地帳」同館蔵)。享保九年(一七二四)の村明細帳(小野宏家文書)などによれば、濁川は元来西高橋村南で笛吹川に合流していたが、同川が瀬高になるにしたがい河尻がふさがって逆流することもしばしばだった。
沢村
くずさわむら
[現在地名]大江町本郷
月布川中流曲流部の河岸段丘上に位置する。村域は月布川の支流梵字川に沿って南北に長い。東は曲流を挟んで滝野沢村、月布川南岸はこうか原と称する河岸段丘面で塩野平村に接する。梵字川上流に枝郷軽井沢がある。最上氏領から元和八年(一六二二)幕府領となり、寛永元年(一六二四)の郷替えにより左沢藩領、同八年幕府領庄内藩預地、翌九年庄内藩領、慶安二年(一六四九)松山藩領となる。天明五年(一七八五)から三年間幕府領となり、同八年再び松山藩領となり幕末に至る。元和九年の高一六二石余(最上記)。正保郷帳では田方一一四石余・畑方三六石余。
沢村
つづらさわむら
[現在地名]足助町葛沢
巴川右岸の山と巴川右岸に注ぐ神越川の支流大見川左岸の山に挟まれた位置にある。北から東にかけて大見村、南は現下山村、西は四ッ松村・戸中村・川端村、北は安実京村・山蕨村に接する。中央を神越川に注ぐ葛沢川が北流しており、集落は谷地形の中の山麓に点在。なお若干の人家が神越川左岸の山麓にもあり、通称神尾川とよぶ。寛永一二年(一六三五)当時、成瀬伊豆守領で村高九一石余。慶安四年(一六五一)大島村に陣屋を置く旗本石川貞当の知行地となり、同家の知行が幕末まで続く。
浄土宗西山深草派水晶山宝樹院が村域ほぼ中央、南面した山麓の高台にある。
沢村
ぐみざわむら
[現在地名]戸塚区汲沢町・汲沢一―四丁目
東は戸塚宿、西は深谷村、南は原宿村、北は中田村、北東は矢部村に接する。中央に源氏山があり、東方五霊山および戸塚宿に連なる。南東は神明山に延びる。南西に二子山があり西方深谷村に延びる。南東に東海道が戸塚宿から深谷村に続き、途中に二番坂がある。八王子道が戸塚宿から中田村に通じる。西に村岡川が流れる。大丸堀は北東の字小深谷に発して南西の字御所水で村岡川に落ちる。
沢村
おとろざわむら
[現在地名]今市市
沢
北を大谷川が北東へ流れ、対岸は芹沼村。西部で大谷川から分れた大堀川が南を並行して東に流れる。集落は両川間の小丘陵麓および大堀川沿いの低地にある。東の針貝村境に名野山がある。河内郡に属する。日光山往古社領六十六郷のうちに「おと路沢郷」がある(日光山常行三昧堂新造大過去帳)。今宮祭祀録(西導寺蔵)によれば、応永一九年(一四一二)に沢郷の代官滝九郎が今宮神社(現塩谷郡氏家町)の頭役を勤めている。その後永正一四年(一五一七)・享禄四年(一五三一)・天文一三年(一五四四)・永禄一二年(一五六九)・天正一六年(一五八八)に沢郷もしくは「驚沢郷」が頭役を勤めている。
沢村
ますざわむら
[現在地名]紫波町升沢
滝名川支流の沢内川右岸の山間地と東方の平坦地を占める。東は宮手村、西は山を境に岩手郡安庭村(現雫石町)、南は土館村・上平沢村、北は上松本村・吉水村。升沢とも記された。正保国絵図に鱒沢村とみえ、高八六石余。天和二年(一六八二)の惣御代官所中高村付では蔵入高三六六石余、七ヵ年平均の免五ツ三分九厘八毛。元禄十郡郷帳による〆高は、田方三四四石余・畑方二二石余。
沢村
たるさわむら
[現在地名]浪岡町樽沢
梵珠山系の丘陵斜面に開け、浪岡村から原子村(現五所川原市)への道と銀村から常海橋村(現北津軽郡板柳町)への道が村内で交差する。南は杉村、東北は三好村、北は郷山前村に接する。
天和四年(一六八四)の白銀村庄屋市右衛門書上絵図(野沢村誌)に樽沢は上江三枚村とあり、上江三枚屋敷一九、裏屋敷四、支村屋敷一三、支村新田一五とあり、宝の溜池・三好街道・三好村・江三枚堰・高野堰・天間木・中坪・一本木・清水森などの地名がみえる。貞享元年(一六八四)の郷村帳に樽沢村は新田として高二五三・一石とある。
沢村
さわむら
[現在地名]栗源町沢
栗山川上流西部に位置し、東は荒北村・苅毛村と接し、北から西にかけては牧野となっていた。「本土寺過去帳」の二日に「文明六甲午十一月 蓮寿比丘尼東方沢ノ大方」とみえるのをはじめ、「サハ」「サワ」など六十数例がみられる。慶長四年(一五九九)の矢作縄では高七五九石余(「部冊帳」伊能家文書)。寛永二年(一六二五)当村七五九石余が旗本江原領となっている(知行宛行状)。同一〇年荒北村との間で野論が生じ、寛文六年(一六六六)にその裁許が下っている(石田家文書)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では旗本江原(二氏)領。
沢村
よもぎざわむら
[現在地名]上市町蓬沢
伊折村の北、早月川上流の山間部段丘上に位置し、同川を挟み北は折戸村。村名はヨモギの繁茂する沢があったことによるといい、小字に蓬平がある(白萩小史)。信州松代の落武者次郎右衛門(早月氏)が住み着き、村の草分になったという(上市町誌)。蓑輪村(現滑川市)から折戸村を経て当村・伊折村に至る道がある。正保郷帳では高五六石余、畑方のみで三町七反余。
沢村
さわむら
[現在地名]貝塚市沢など
見出川右岸河口部に位置する日根郡の村。村域を紀州街道が通過し、街道を挟んで集落を形成。西は海に面する。中世近木庄に属する。天正一二年(一五八四)根来衆・雑賀衆の一揆の拠点の一つに沢城(浜城とも称される)があった。同年三月一八日、豊臣秀吉の尾州出陣の虚をねらって一揆衆は蜂起したが岸和田軍によって敗戦、同二一日に積善寺城などとともに沢城も落ち、在所はことごとく放火されたが城は免れたという(宇野主水日記)。翌一三年三月二三日、秀吉の根来・雑賀征討で秀吉に直接攻められて落城、「宇野主水日記」同月二一日条には「浜ノ手ニ沢ト云城、是ハ雑賀衆ノ持タル城也」とみえる。
沢村
さわむら
[現在地名]矢板市沢
土屋村の東に位置し、東部を箒川、南部を江川が南東流する。箒川崖上の標高二四七メートルの城山に沢村城跡がある。「那須記」によれば、文治三年(一一八七)那須満隆は父より沢村を与えられ、沢村を名乗ったといい、満隆が築城と伝える。応永二一年(一四一四)八月、上杉禅秀にくみした那須資之は、足利持氏にくみした弟沢村資重の沢村城を攻撃、資重は興野(現那須郡烏山町)の館へ移る。この時、寄手で討たれた者八二・手負一千四、城内の討たれた者五〇余・手負四〇余という。資之は孫須藤五郎を城に入れ、沢村を名乗らせたという(那須記)。
沢村
さわむら
[現在地名]勝田市佐和
新川上流に位置し、南は稲田村。鎌倉時代から南北朝時代のものとされる篠根沢の館跡(現在は破壊された)や雄外城跡、室町時代と考えられる新地館跡などの城館跡があるが、詳細は不明である。文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)には「沢村 堤村」とみえ、佐竹氏の一族東義久の知行地であった。
慶長七年(一六〇二)の万千代様水戸領知行割(彰考館蔵)には「沢」とみえ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高には「沢村」と記される。
沢村
さわむら
[現在地名]安来市沢町
利弘村の東、吉田川左岸に位置し、南に清水山がある。正保国絵図に村名がみえ、慶安四年(一六五一)の検地帳によると、上々田一一町二反余・分米一九一石余(一石七斗代)、上田一七町六反余・二八三石余(一石六斗代)、中田一二町一反余・一七〇石余(一石四斗代)、下田五町三反余・六四石余(一石二斗代)、下々田四町八反余・四八石余(一石代)、上畑一町五反余・一四石余(九斗代)、中畑三町八反余・一二石余(七斗代)、下畑二町三反余・一一石余(五斗代)、下々畑二町九反余・八石余(三斗代)、田畑計六〇町余・八〇五石余、屋敷数二二(うち御役目屋敷一八)。
沢村
さわむら
[現在地名]美作町楢原下
三海田村を挟んで倉敷村の北東にある。梶並川左岸沿いに立地し、北東は楢原下村。同村の分郷であるが(東作誌)、その時期は未詳。
慶長九年(一六〇四)の検地では高一九石余の打出となった(岡山県史)。正保郷帳では田六〇石・畑一七石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高二二石余・開高一石余、村位は上。角文書の免状・年貢皆済目録によれば、承応三年(一六五四)から万治三年(一六六〇)までは村高九五石余で、毛付高は承応三年が八五石余、万治三年が八九石余。
沢村
さわむら
[現在地名]マキノ町沢
森西村の東にある。村内に川がなく、泉が多く沢地のため村名となったという(高島郡誌)。享徳(一四五二―五五)頃と思われる旦那在所注文(熊野那智大社文書)に「さわ」とある。慶長五年(一六〇〇)佐久間安政(元和二年以降信濃飯山藩)領、寛永一五年(一六三八)幕府領、慶安四年(一六五一)徳川綱重(寛文元年以降甲斐甲府藩)領となる。宝永二年(一七〇五)幕府領となり、享保九年(一七二四)以降大和郡山藩領。
沢村
さわむら
[現在地名]金津町沢
加越山中の観音川北岸の小谷にあり、西は指中村。「越前地理指南」は枝村として「出村」を記し、「越前国名蹟考」には「谷口」が記される。現在は大沢・小沢の二垣内に分れる。永禄四年(一五六一)一一月の年貢収納帳(大乗院文書)に「さわ村」とみえる。「大乗院寺社雑事記」文明二年(一四七〇)七月一四日条に記された「河口庄郷々内村名」のなかの細呂宜郷内に「神宮寺」の記載があるが、現在神宮寺跡と称する地もあり、当村付近と推測されるが、当村とのつながりは不明。
慶長三年(一五九八)の太閤検地帳末尾の田畑集計部分を集めた越前丸岡領水帳写(吉沢家文書)によれば、総石高三七三・〇一石で、田方一六町六反余・畑方三町五反余で、同水帳写が作製された正保二年(一六四五)以前の再検地によって判明した一三八・五六石の土地不足も記されている。
沢村
つじさわむら
[現在地名]新旭町熊野本
米内村の南にあり、東は山形村。天正二年(一五七四)六月の定林坊田畠帳(饗庭文書)に辻沢・ツシサワとみえる。同一一年八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)に辻沢とみえ、高一七〇石余。寛永石高帳に高一二七石余とあり、支配者名の位置に「分部現酒井」とあるので、大溝藩から若狭小浜藩領になったと思われる。慶安高辻帳では田方一一一石余・畑方一六石余。宝暦九年(一七五九)の家数四三、文化四年(一八〇七)の家数四三・人数二一〇(高島郡誌)。古くから鍛冶が住み、剃刀鍛冶の本場という。明治一二年(一八七九)今市村・平井村と合併して熊野本村となる。
沢村
さわむら
[現在地名]広陵町大字沢
馬見丘陵と高田川の間にあり、中近世郷箸尾の西北方にあたる。「和州旧跡幽考」は慈円の「拾玉集」の名所沢田川(広瀬川)に擬定。
慶長郷帳にみえる村高は五三五・四一石で幕府領(代官北見勝忠)。元和元年(一六一五)村高のうち五〇八石は郡山藩(水野勝成)領となり、同藩時代、二割半無地高増で六三五石となる。一方、村高のうち二七・四一石は元和五年津藩(藤堂高虎)領となり、廃藩置県に至るまで、郡山・津両藩の相給村であった。郡山藩領沢村は享保九年(一七二四)段別三七町九段一畝一九歩。家数一〇四(本百姓六四、水呑四〇)、人口四五九(男二三二、女二二七)、牛数六、職人三(油絞者三)、商人一二(かせ屋二、繰綿口入二、綿繰や一、酢醤油一、取酒や一、油屋一、升物口入二、不明二)などが存在した(和州御領郷鑑)。
沢村
たるざわむら
[現在地名]男鹿市脇本樽沢
男鹿半島の南頸部、寒風山の東山麓に位置し、東方には八郎潟の西岸にかけて平地が広がる。南北に男鹿街道が通り、南は浦田村、北は百川村と接する。
天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「北のうら村 たるざわ村 さんから田村」合わせて六三一石五斗五合とある。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には浦田村の内樽沢村とあり、高の記載はない。享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)には当高一九八石余。
沢村
さわむら
[現在地名]瀬戸田町沢
生口島の西北に突出する小半島を占め、南西は瀬戸田町、東南は鹿田原村に接し、北は海に臨む。近世初期にはまだ一村をなさず、寛永一五年(一六三八)の地詰帳(「国郡志下調書出帳」所収)には、生口福田村・鹿田原村および瀬戸田町分と一括記載される。独立村になった時期は明らかでないが、正徳二年(一七一二)の「所務役人頭庄屋郡邑受方記」には、村高一二七石四斗三升八合が記される。
延宝五年(一六七七)当村沖に塩浜二軒が瀬戸田町重右衛門によって、翌年一軒が同じく瀬戸田町弥次兵衛によって開発された。さらに天和三年(一六八三)一軒が瀬戸田町源右衛門によって、また元禄三年(一六九〇)瀬戸田町久次郎・同清三郎・同平四郎・同七三郎によって一軒ずつ計四軒が開発された(宝永二年豊田郡生口島瀬戸田町塩浜年数「日本塩業大系」所収、明治九年「塩田堤防之儀ニ付伺書」瀬戸田町教育委員会蔵)。
沢村
さわむら
[現在地名]箕輪町大字中箕輪 沢
西方より東境の天竜川へ注ぐ桑沢川のつくる扇状地上の村。桑沢川の伏流が湧水するところから沢の地名が起こったのであろう。北は羽場村(現辰野町)、西北から南は北大出村(現辰野町)から大出村に接する。伝承によると大出村から分れてできた村という。
村名の初見は元禄一五年(一七〇二)の信濃国郷帳で「一高六百拾八石四斗四升 沢村」とある。
天竜川畔に位置するため山野に遠く、採草地を西方裏山(霧沢山)に求めたが、本村をはじめ箕輪領八ヵ村が一体となり、北大出村など高遠藩六ヵ村と前後六ヵ年にわたって山論が争われた。
沢村
ひさわむら
[現在地名]黒磯市鍋掛
那須野ヶ原の北東部にあり、南・西は野間村、北は鍋掛村。奥州街道が北東へ通る。大野系図(大野一男文書)の延暦一六年(七九七)の項にヶ沼から落ちる水尻が広がり、下へ流れないでそのまま干上がることから、「ヒサワ」という村名がついたとある。天正一八年(一五九〇)大関氏が豊臣秀吉より安堵された所領のうちに「比沢」がみえ、大野室・矢組とともで一八七石四斗二升(「黒羽藩領知高書上」宇都宮大学附属図書館蔵)。
沢村
さわむら
[現在地名]小松市沢町
梯川上流の郷谷川と三谷川の合流点にあり、周囲は山地で、北は金平村。地内の十二ヶ滝について、鎌倉末期頃の軽海郷百姓交名注文(金沢文庫文書)に「十二加滝分」として「き藤次」以下八名の名前を記した一通と、「又十二加滝」として六郎以下三名の名前を記した一通がある。正保郷帳では高三四五石余、田方一一町三反・畑方九町余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では高三七五石、免五ツ、小物成は山役五二三匁・もぢ川役四匁(三箇国高物成帳)。村内に近隣二五ヵ村を支配した十村石黒氏の屋敷があった。石黒家に残る史料は「加賀藩十村役石黒家文書」として三冊にまとめられている。
沢村
ひさわむら
[現在地名]川上村樋沢
川上八ヵ村中で標高は一一二〇メートルと最も低い。千曲川の河岸段丘上の集落で、耕地のほとんどは野辺山原にある。東は御所平村、西は野辺山(現南牧村)、南は甲斐国、北は広瀬村(現南牧村)。
樋沢村・西樋沢村と称していたが、慶長一一年(一六〇六)幕府の「南ひ沢村」ほか七ヵ村に対しての触書によると、西樋沢が野辺山原に移転し板橋村(現南牧村)となった(「石原昌明等触書案」丸山史料)。
正保四年(一六四七)の信濃国絵図高辻(県立長野図書館蔵)によると、皆畑として一六石六斗三升一合とある村。
沢村
あしざわむら
[現在地名]尾花沢市芦沢
野黒沢村の北西、最上川右岸に位置し、北西は名木沢村。集落は村内を縦断する羽州街道沿いに発達した。元和八年(一六二二)山形藩領、寛永一三年(一六三六)幕府領となり、安政二年(一八五五)から松前藩預地。正保郷帳では田方八九石余・畑方六〇石余。宝暦一一年(一七六一)の御巡見様御案内覚帳(二藤部文書)では高一九三石余、家数二九・人数一五〇。御林はけくら山一ヵ所で五町余、木数一〇五。地内には川除け一・土橋二・溜池一があり、宝暦九年高入れの新田高は六石余。天明八年(一七八八)の村明細帳写(柳橋文書)によれば、高二〇〇石余、家数三五・人数一八八、馬八。
沢村
さわむら
[現在地名]京北町大字下弓削 沢
弓削一一ヵ村の一。大堰川の支流弓削川の右岸にある山間集落。北は上中村、南は矢谷村、東は川を隔てて下中村、西は山を越えると赤石村。伝えによるとこの地域は、古代・中世に霊泉が湧出したことから沢の庄と称され、明治一〇年(一八七七)頃まで鶴や白鷺が飛来し脚部を暖めるのがみられたという。
慶長七年(一六〇二)幕府領、寛文四年(一六六四)以降丹波篠山藩領となる。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると、「沢・矢谷村」として高一六三石余と記される。
沢村
あしざわむら
[現在地名]伊那市大字美篶 芦沢
高遠(現上伊那郡高遠町)の鉾持除より西北に延びる山麓に発達した村。天神山(一〇八〇・五メートル)を境に笠原村に接し、用水は沢水や湧水が主である。
芦沢の初見は、天正六年(一五七八)二月の諏訪大社上社文書の上諏訪大宮同前宮造宮帳に、「蘆沢之郷」とある。天正一九年の信州伊奈青表紙之縄帳には村位は上の村となっている。
沢村
とずらさわむら
[現在地名]清水市葛沢
茂野島村の北西、興津川の上流左岸に位置し、南は同川を隔てて土村。永禄一二年(一五六九)五月一六日の穴山信君知行書立(加瀬沢文書)に楠木田がみえ、同地の二貫文の地を含めた興津方一五貫二〇〇文の地を今川家旧臣加瀬沢助九郎に与えている。楠木田は地内の字名から当地に比定される。江戸時代の領主の変遷は但沼村に同じ。
沢村
さわむら
[現在地名]榛原町大字沢
伊那佐山南麓、芳野川東方の谷間村落。慶長郷帳の村高三一七・〇七一石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領。元禄八年(一六九五)以降幕府領。元禄検地で村高四三四・二八二石と増石。「宇陀郡史料」所収の元禄八年の「覚」によると家数四三(高持三八、無高三、寺二)、寺は金剛寺・常念寺、人数二一五、牛一〇、馬一、威鉄砲一からなっていた。
沢城主で興福寺国民の沢氏は戦国期には北畠氏被官として活動したが、沢氏の伊賀移転後入城した高山右近は切支丹大名として知られる。
沢村
さわむら
[現在地名]豊郷町沢
愛知郡に属し、宇曾川東岸、南は下枝村。慶長高辻帳に高七三九石余とある。元禄郷帳では高二〇〇石の下枝村を分村し、高五三九石余。元禄八年大洞弁天寄進帳によれば男一四五・女一五六、寺社方男一・女一。田より畑が少なく、用水は金田池より引き、流末は宇曾川に落ちる(中山道宿村大概帳)。年代不詳の村絵図(滋賀大学経済学部付属史料館蔵)によれば、中山道の西側に一三戸の家、反対側に松並木が描かれる。
沢村
さわむら
[現在地名]狭山市沢
入間川村の枝村で、同村北東にある。西は田中村、東は加佐志村、北は上奥富村。元禄年間(一六八八―一七〇四)に枝村として分村したと伝え、元禄郷帳に村名がみえ、高四四石余。幕末まで旗本小笠原領(国立史料館本元禄郷帳など)。化政期の家数二(風土記稿)。幕末の戸数一五(慶応二年「村方議定連印帳」山崎家文書)。幕末から明治初年に本村に吸収されたとみられる。南部にある曹洞宗天岑寺は文禄三年(一五九四)に天海盛呑により開かれたと伝え、再興開基は小笠原安勝。
沢村
ならさわむら
[現在地名]小国町楢沢
上岩田村の北。渋海川の支流楢沢川の両岸に迫る丘陵が開ける付近にある。北に上谷内新田・新町村が続く。小国東組に属する。近世初めは高田藩領、天和元年(一六八一)から幕府領、文久二年(一八六二)から長岡藩領。正保国絵図に高一二六石余。天和三年の検地帳(楢沢区有文書)では田一三町四反余・畑屋敷七町一反余・山一八町二反余・青苧畑二畝余。
沢村
さわむら
[現在地名]朝来町沢
伊由市場村の北東、円山川の右岸、伊由谷川の合流点にある。村高は寛永一六年(一六三九)の知高帳によると七八石余、宝暦七年(一七五七)の但馬国高一紙では八四石余。「朝来志」によると宝暦三年の家数六八・人数三三五。
沢村
さわむら
[現在地名]武生市沢町
府中町の西南にある孤立丘陵、茶臼山の東側にある。福井藩領。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では村高から推定して南仲条郡の「五ケ村千福村」(高一五一九・九二八石)に含まれていたと思われる。正保郷帳に村名がみえるが丹生北郡に属し、南仲条郡中の飛地的村になった。
沢村
さわむら
[現在地名]大野町瀬古
瀬古村の西に位置する。天正年間(一五七三―九二)には西の清水村(現揖斐川町)の内であったという(濃陽志略)。慶長郷帳にみえる深村が当村と考えられ、高一四六石余。慶長一五年(一六一〇)の徳川家康朱印状写(徳川林政史研究所蔵)に沢村一四六石余とあり、石河光忠(石河氏はのち尾張藩家老)の所領となっている。
沢村
ひのさわむら
[現在地名]茎崎村樋沢・牧園
小野川右岸の台地上にあり、南は大井村。元禄郷帳には樋沢新田村とあり、村高は五三石余。天保郷帳には樋沢村と記される。幕末は谷田部藩領五三石余(各村旧高簿)。
沢村
さわむら
[現在地名]磐田市鎌田
鍬影村のうち、鎌田神明宮領一〇〇石が分村して成立した。山名郡に属する。天保二年(一八三一)の天竜川通東縁村々水防組合議定(磐田市教育委員会蔵)に鍬影村とともに名を連ねていることから、分村は天保期頃とみられる。
沢村
さわむら
[現在地名]鯖江市沢町
尾花村の東南に位置し、集落は西流する河和田川の谷あいにある。正保郷帳では河内村に含まれ、元禄郷帳から村名がみえる。同郷帳によれば二〇八・三一石、天保郷帳では一一五・〇四九石と減石する。
沢村
いばらさわむら
[現在地名]上越市茨沢
市之口新田の南に位置し戸野目川が流れる。正保国絵図によると高六六石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報