西流する
寛永四年(一六二七)当村の高七三一石余が八戸弥六郎直義(遠野南部氏)知行地となった(前掲南部利直知行宛行状)。宝永二年(一七〇五)より盛岡藩蔵入地となり、正徳二年(一七一二)再び遠野南部氏知行地に戻った(遠野古事記)。元禄十郡郷帳による〆高は田方三二八石余・畑方四六一石余。元文三年(一七三八)の給人書上によれば一千二石。
駿信往還沿いに発達した宿村で、村域は同往還の東側は北は
慶長六年(一六〇一)の沢村検地帳(県立図書館蔵)によると麦田一町二反余・上田二町二反余・中田三町九反余・下田二町四反余・下々田四町二反余、上畑九反余・中畑一町七反余・下畑二町四反余・下々畑三町四反余、田畑計二二町七反余、ほかに弾正荒五町二反余・熊蔵荒六町七反余、屋敷数は六〇、計五千九六一坪、ほかに「身延末寺御免」として
慶長古高帳では高六五二石余、ほかに神明領二石余。四冊のうち三冊が残る慶長六年(一六〇一)の検地帳(県立図書館蔵)によれば、屋敷は一町五反余、うち七反余が永荒地。貞享二年(一六八五)にも検地が行われた(「検地帳」同館蔵)。享保九年(一七二四)の村明細帳(小野宏家文書)などによれば、濁川は元来西高橋村南で笛吹川に合流していたが、同川が瀬高になるにしたがい河尻がふさがって逆流することもしばしばだった。
北を
慶長七年(一六〇二)の万千代様水戸領知行割(彰考館蔵)には「沢」とみえ、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高には「沢村」と記される。
加越山中の
慶長三年(一五九八)の太閤検地帳末尾の田畑集計部分を集めた越前丸岡領水帳写(吉沢家文書)によれば、総石高三七三・〇一石で、田方一六町六反余・畑方三町五反余で、同水帳写が作製された正保二年(一六四五)以前の再検地によって判明した一三八・五六石の土地不足も記されている。
慶長郷帳にみえる村高は五三五・四一石で幕府領(代官北見勝忠)。元和元年(一六一五)村高のうち五〇八石は郡山藩(水野勝成)領となり、同藩時代、二割半無地高増で六三五石となる。一方、村高のうち二七・四一石は元和五年津藩(藤堂高虎)領となり、廃藩置県に至るまで、郡山・津両藩の相給村であった。郡山藩領沢村は享保九年(一七二四)段別三七町九段一畝一九歩。家数一〇四(本百姓六四、水呑四〇)、人口四五九(男二三二、女二二七)、牛数六、職人三(油絞者三)、商人一二(かせ屋二、繰綿口入二、綿繰や一、酢醤油一、取酒や一、油屋一、升物口入二、不明二)などが存在した(和州御領郷鑑)。
男鹿半島の南頸部、
天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「北のうら村 たるざわ村 さんから田村」合わせて六三一石五斗五合とある。
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図には浦田村の内樽沢村とあり、高の記載はない。享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)には当高一九八石余。
延宝五年(一六七七)当村沖に塩浜二軒が瀬戸田町重右衛門によって、翌年一軒が同じく瀬戸田町弥次兵衛によって開発された。さらに天和三年(一六八三)一軒が瀬戸田町源右衛門によって、また元禄三年(一六九〇)瀬戸田町久次郎・同清三郎・同平四郎・同七三郎によって一軒ずつ計四軒が開発された(宝永二年豊田郡生口島瀬戸田町塩浜年数「日本塩業大系」所収、明治九年「塩田堤防之儀ニ付伺書」瀬戸田町教育委員会蔵)。
芦沢の初見は、天正六年(一五七八)二月の諏訪大社上社文書の上諏訪大宮同前宮造宮帳に、「蘆沢之郷」とある。天正一九年の信州伊奈青表紙之縄帳には村位は上の村となっている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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