伊賀町(読み)いがちよう

日本歴史地名大系 「伊賀町」の解説

伊賀町
いがちよう

面積:五九・九三平方キロ

上野盆地(伊賀盆地)の東北に位置し、北は水口みなくち丘陵で滋賀県と、東は鈴鹿山脈の南端油日あぶらひ(六九四メートル)はた(六四九・五メートル)布引ぬのびき山地の北部れい(七六五・八メートル)で鈴鹿郡せき町および大山田おおやまだ村の一部と境する。南は大山田村、西は上野市・阿山町に接する。町東部に源を発する柘植つげ川は朝古あさこ川・ひら川・大谷おおたに川・倉部くらぶ川・上市場かみいちば川・下柘植しもつげ川・愛田あいた川・たき川などの支流を集め西流する。鈴鹿山脈と布引山地の間の鞍部は加太かぶと峠となり、国鉄関西本線・国道二五号・名阪国道はすべてここを通り、柘植川にほぼ並行して町内を横断する。関西本線柘植駅からは草津線が分岐する。東海自然歩道は霊山(室生赤目青山国定公園)余野よの園地(鈴鹿国定公園)を結び南北に延びる。

伊賀町
いがまち

[現在地名]高梁市伊賀町

秋葉あきば山の南麓、かみノ丁・頼久らいきゆう寺の南側にあった家中屋敷町。頼久寺丁の南詰から下谷しもだに(現紺屋町川)右岸を東の奥万田おくまんだへ登る道沿いに屋敷が並んでいた。正保年中(一六四四―四八)作成の松山城絵図(国立公文書館蔵)には、道の北側に侍屋敷と寺二軒が描かれており、元禄(一六八八―一七〇四)初年頃には長さ三五間の道沿いに一〇〇―二〇〇石取の家中屋敷八が置かれていた(御家内之記「水谷史」芳賀家蔵)

伊賀町
いがまち

[現在地名]宇都宮市西原にしはら一―二丁目

日光街道西裏の武家町で、東は蓬莱ほうらい町・大黒だいこく町・うたはし町・贄木にえぎ町に接し、北は代官だいかん町、西と南は西原村に囲まれる。宇都宮氏時代に芳賀伊賀守の屋敷が置かれたため地名となったという。近世には伊賀曲輪・伊賀門があり、町分とは別扱いであった。戸田氏は楡木にれぎ・栃木両街道の六道ろくどう口を警備するため徒士屋敷をここに置いたので、御歩行町ともいわれる。松平忠弘時代の城下図(東大史料編纂所蔵)によれば、北側に御歩行町が記され、その西側に郷使・御籠之者がおり、街道出口に六地蔵があり、南側は組屋敷となっている。

伊賀町
いがまち

[現在地名]桑名市伊賀町

元赤須賀もとあかすかの南にある一画で、中級藩士の屋敷地。四囲とも堀に囲まれている。「桑府名勝志」に「如法山記云、寛永十二年亥松平定綱公御入国ノ後、新屋敷外堀伊賀町内赤須賀中屋敷出来ス」とある。東南端の土堤上は築地つきじ屋敷と称し、そこに伊賀の忍者衆が居住したので町名となった。

伊賀町
いがまち

[現在地名]彦根市錦町にしきまち

外馬場そとばんば町の南にある。井伊家の三歩行のひとつ伊賀歩行の居住地で、伊賀出身の伊賀流忍術の家を祖とし、隠密役を勤めた。人員はほぼ四〇人で固定され、四〇俵三人扶持を給された(彦根市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報