榎津村(読み)えのきづむら

日本歴史地名大系 「榎津村」の解説

榎津村
えのきづむら

[現在地名]富合町榎津

北は西流する浜戸はまど川を境に西木さいぎ(現城南町)大町おおまち村、西は本札もとふだ村と接し、南は木原きはら村。水利の便に恵まれた豊かな沖積平野部にある。つぼなどの字名は条里の名残と思われる。守富もりどみ庄の成立後はその荘域となった。文永四年(一二六七)一月二〇日の尼玄海寄進状(山城万寿寺文書)に「きよ松・いまふちのミやう、えのきつにいりましハりて候ハむハ、いまよりのちハ、えのきつにつけさせ候ぬる(にカ)候」とある。三聖寺領文書惣目録(三聖寺文書)に「肥後国守富庄内榎津」、さらに「一通 関東公文奉書正和五年九月廿八日 守富榎津以下梶取職事」とあり、正和五年(一三一六)以前に北条得宗領になっていた可能性があり、浜戸川が河川交通路として利用されていた頃、河岸の津として廻船などが着岸していた。


榎津村
えのきづむら

[現在地名]新魚目町榎津郷えのきづごう丸尾郷まるおごう

うら村・くわ村の北に位置し、東は有川ありかわ(現有川町)に臨む。西にしろ山、北に門松かどまつ山がある。城山には中世城館の跡がある。江戸時代は魚目掛に属し、魚目村(魚目中)のうちとして扱われる場合がある。初め福江藩領で、寛文元年(一六六一)より富江五島領となる。これに伴い青方あおかた(現上五島町)にあった代官役所が当村に移され、堀切ほりきり(魚目村のうち)に居住していた役人らも来住、魚目掛の行政の中心となった。


榎津村
えのきづむら

[現在地名]中川区富田とみだ町榎津

西は包里かねさと村に接する。富田庄絵図(円覚寺蔵)に前島榎津とみえる。寛文一一年(一六七一)の家数四五、人数二五七(寛文覚書)。「徇行記」によれば、概高七〇七石余のうち六七八石余は藩士九人の給知。田は三五町五反三畝余、畑は八町三反六畝余。「此村地割ハ十年目毎ニスルト也、新川傍ノ群村ハ上田ツフレ、且他村ヲ承佃スルニモ川越ニナリ、渡航水主ノ費用多クナレルコトヲ愁ヘリ、然シ村人商ヒヲ営ミトスル者ハ、新川ノ運漕便利ナルニヨリ利ヲ得ルモノモ又多クアリ」とあり、長田兵庫右衛門の居城と伝えられる榎津城跡(四至約五〇間)を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android