橋口譲二(読み)はしぐちじょうじ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「橋口譲二」の意味・わかりやすい解説

橋口譲二
はしぐちじょうじ
(1949― )

写真家。鹿児島県生まれ。1968年(昭和43)19歳で上京し、東京・青山の写真専門学校に進むが中退。数年にわたる日本各地の放浪を経て、写真家としての活動を始める。81年新宿や原宿に集うアウトサイダー的な若者たちの姿や肉声を捉え問題提起したシリーズ「視線」で『太陽』賞を受賞翌年写真集『俺たち、どこにもいられない』を発表し、注目を集める。続いて83年東京と大阪で個展「視線」を開催。さらにリバプールニューヨーク、旧西ベルリンなど世界中の都市を歩きまわり、出会った人々や光景レンズを向けつづけた。そして、88年の写真展「17歳」と同年刊行された写真集『十七歳地図』は、ともに大きな衝撃をもって写真界およびマス・メディアに受け入れられた。社会的にも、地理的にも異なった背景をもつ日本全国の17歳の少年少女を訪ねてインタビュー取材したこの作品は、それぞれの環境のなかでリアルな生を撮りつづけ、次第に彼らと同世代の若者たちの共感支持を獲得した。

 直接に会ってインタビューをし、撮影をするという橋口の独自のスタンスによる写真へのアプローチは、やがて確固とした評価を得る。91年(平成3)から92年にかけては、大阪、東京、名古屋そして北海道・東川(ひがしかわ)町などで行った個展で「Die Mauer」(ドイツ語で「壁」の意)をはじめ、「Berlin」「Berlin 1981~1990」「Berlin:時の澱(よど)みに」と立て続けにベルリンを取材したシリーズを発表。一連の活動により、92年日本写真協会年度賞、同時に東川町国際写真フェスティバル国内作家賞を受賞。

 1980年代後半から橋口の活動は、国内のみならず海外でも注目されるようになる。89年南フランスで、写真家をはじめ評論家、歴史家、キュレーター、画廊のディレクター等の写真関係者たちを招いて毎年開催されているアルル国際写真フェスティバルに招待されたのである。海外の写真関係者との親交を深めた彼は、翌90年「17歳」をローマで再び発表し、93年にはチューリヒで開催されたグループ展に、さまざまなカップルの人間関係を表現したシリーズ「Couple」で参加。さらに、99年、2000年と続けてドイツ中西部のヘルテンとミュンヘンで「Couple」展を開催。このころより作品発表の場をアジアにも拡げ、ニュー・デリークアラ・ルンプール、ジャカルタへ「職1991~1995 WORK」展を巡回、また「呼吸」展をインドのベナレス(ワーラーナシ)で開催した。ここで好評を博した「職 1991~1995 WORK」展は、2001年、イギリス各地を巡回した。

 その後、写真以外にもスチル・ムービー「今を生きる人を知る旅」(1997)、「日本と日本人を知るための仕事」(1999~2001)というかたちでの作品発表に加え、直接参加者たちと触れ合い、意見交換ができる場としてのワークショップも数多く手がけている。

[中村浩美]

『『俺たち、どこにもいられない――荒れる世界の十代』(1982・草思社)』『『十七歳の地図』(1988・文芸春秋)』『『それぞれの時――都市で暮らす一人の部屋』(1989・草思社)』『『Berlin』(1992・太田出版)』『『視線』(1998・ミトローパ)』『『17歳』(1998・角川書店)』『『17歳の軌跡』(2000・文芸春秋)』『東京都写真美術館編『日本の写真 内なるかたち・外なるかたち 第3部 現代の景色 1980―95』(1996・東京都歴史文化財団)』

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「橋口譲二」の解説

橋口譲二 はしぐち-じょうじ

1949- 昭和後期-平成時代の写真家。
昭和24年3月25日生まれ。56年「視線」で太陽賞を受賞。都会や盛り場の若者たちをテーマとしたフォトエッセイストとして活躍。鹿児島県出身。青山写真専門学校卒。写真集に「十七歳の地図」「BERLIN」など。

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