翻訳|map
地球表面の全部または一部の状態を、記号や文字を用い、縮小して、一般には平面上に描き表したもの。地図は、複雑に分布する土地の情報を伝える優れた手段であり、各種の調査、計画、行政、教育、レクリエーションなど、われわれの活動や日常生活に不可欠のものとなっている。
[五條英司]
地図を構成する共通の要素には、縮尺、地図投影法、図式の三つをあげることができる。
[五條英司]
実際の地上と比べて長さ(距離)が縮小されている割合を縮尺といい、普通は分子を1とする分数か比の形で示される。分数の値が大きい(分母の値が小さい)ほど、縮尺が大きいという。縮尺は、対象とする地域の大きさ、地図の利用目的などによって決まる。日本の場合、全国を総覧する地図の縮尺としては100万ないし200万分の1、東北・九州といった地方別には50万分の1前後、1府県程度の範囲に対しては20万分の1ぐらいが適している。かなり細部まで詳しく見るためには、5万分の1や2万5000分の1の縮尺が、さらにメートル単位のものまで区別して表すためには、少なくとも5000分の1の縮尺が必要になる。逆に大陸または世界の地図となれば、数千万分の1というきわめて小さい縮尺となる。このように縮尺は多岐にわたる。
[五條英司]
地図投影、地図投影法、または地図に関して投影という場合、地球表面の曲面から投影面である地図の曲面(通常は平面で、円筒、円錐(えんすい)などを仲介するものもある)上に作図する方法と、それについての数学理論をさす。個別の地図投影を図法という。地球上の子午線と平行圏を地図上で経線と緯線という。経線のうち、直線で表され、座標値による作図において縦軸になるものを中央経線または中央子午線という。地図の縮尺で距離が正しく表される緯線または経線で、図法の構成に基本的な役割を果たすものを標準緯線または標準経線という。
地球上の形状を平面の地図に表すとき、投影による投影面の伸縮に伴うひずみが生じる。その内容を地図利用における投影の性質から、長さ(距離)、面積、および方向角(角度)に分けて計量化している。
地図投影の分類で、投影の性質からは、(1)正距図法(特定の線について、長さのひずみがなく正しく表される)、(2)正積図法(任意の面積のひずみがなく正しく表される)、(3)正角図法(狭い範囲で任意の方向の角度のひずみがなく正しく表される)、(4)その他、に分けられている。
すべての図法で、地軸に対して、投影軸(円筒または円錐ではそれぞれの曲面の軸、平面ではそれに垂直な直線(法線))が直交する場合は横軸(法)または赤道(法)、斜交する場合は斜軸(法)または地平(法)と、地軸と投影軸との関係を図法名に冠している。両方の軸が一致する本来の正軸(法)または極心(法)の場合は、かならずしもこれを図法名に冠さない。
投影面からは、(1)方位図法(投影面が平面)、(2)円錐図法(投影面が円錐)、(3)円筒図法(投影面が円筒)、に分かれる。円錐図法と円筒図法は円錐または円筒を仲介し、それを展開するものとも考えられるので、あわせて展開図法という。
投影の仕方からは投射図法と便宜図法に分けられる。便宜図法のなかには、正軸の場合に緯線が同心円(方位図法)、同心円弧(円錐図法)、または平行直線(円筒図法)になることのほかに、中央経線以外の経線を直線から曲線に変更する、(1)擬方位図法、(2)擬円錐図法、(3)擬円筒図法、がある。
世界全図の外郭経線を楕円形とするのを、とくに楕円図法(または卵形図法)という。
[金澤 敬]
ユーラシア大陸の西側の古代ギリシアで、西暦紀元前5世紀にタレスが心射図法を、前240年ごろアポロニオスが正射図法を、そして前2世紀後半にヒッパルコスが平射図法をそれぞれ考案し、日時計の目盛盤または星図に用いた。アポロニオスと同時代人のエラトステネスは球としての地球の円周を測定した有名な史実のほかに、ジブラルタル海峡とロードス島を結ぶ線を横軸、ナイル川中流のシエネ(現在のアスワン)とアレクサンドリアを結ぶ線を縦軸とした座標線網に基づく地中海世界の地図作成方法を述べたことが、西暦紀元前5年ごろに執筆されたストラボンの『地理学』で伝えられている。この地図は後世の推定地図によると、正距円筒図法を用いていたと考えられている。そして緯度を表すために地域ごとの日照時間の違いに基づく気候帯の古代名であるクリマータが用いられた。
[金澤 敬]
西暦紀元1世紀にマリノスMarinus of Tyreが正距円筒図法を考案したことは、2世紀の『プトレマイオス地理学』にマリノス図法として紹介してある。また、この図法にかわるものとして、球面としての世界全体の相対的距離をより正しく表し、球面の丸みをみせるのに適切なものとして、次の2種の図法の作図方法が述べられてあった。一つは、北半球を正距接円錐図法(トレミー図法)と、赤道から南部分を折り返した形にする円錐図法類似のプトレマイオス第1図法、いま一つはボンヌ図法の原形とみなされるプトレマイオス第2図法である。そのほかに、プトレマイオス第3図法として、地球とそれを囲む天球との立体的な関係を表すための斜軸外射図法による作図法も記されてあった。地域図については、正距円筒図法(マリノス図法とも考えられる)の利用が述べられてあり、『プトレマイオス地理学』の13世紀写本(現存最古)に付けられた地図帳の地域図はその方法に基づいている。しかし15世紀写本の地域図では、等脚台形となる多面体図法と正距接円錐図法がある。
ユーラシア大陸の東側では、中国でプトレマイオスと同時代人の張衡(ちょうこう)が等間隔格子線の座標体系である方格図(正距円筒図法)を禹貢(うこう)(地籍調査)に用いた。3世紀には斐秀(はいしゅう)が禹貢地域図を作成し、その序文のなかに、方格図による官製地図作成の原則としての『制図六体』を述べた。方格図は7世紀初期からの唐時代以降には標準的に用いられ、801年に賈耽(かたん)が作成した『海内華夷図(かいだいかいず)』には方格図の方眼網が描かれていたといわれる。この地図をしのぶものとして、1137年に石刻された『禹跡図』の石碑が西安(せいあん/シーアン)に現在もある。ちなみに、同じ方眼入りの最初の日本全図は、1779年(安永8)に刊行された長久保赤水(せきすい)の『改正日本輿地路程全図(かいせいにほんよちろていせんず)』である。
なお、13世紀の写本が現存しているポルトラノ海図は、等間隔の正距または緯度が高くなるにつれて緯線間隔を広げた、円筒図法で作図された地図に方位線を表示したもので、経緯線は省かれているか、図郭にその目盛が表示されている。
[金澤 敬]
大航海時代以後、ヨーロッパにおいて地球全域の地理情報が急速に拡大し、印刷術の普及と相まって、ヨーロッパ社会で多くの世界地図と地図帳の出版活動が盛んになった。それらの世界全図には、プトレマイオス第2図法が当初は標準的に用いられた。これの表示範囲を両極地域まで広げたハート形図法は、ドイツのスタプJohann Stab(1460―1522)により考案され、1514年にウェルネルJohannes Werner(1468―1522)が発表した。その3種類の図法のうち2番目のものがスタプ‐ウェルネル図法またはウェルネル図法といわれており、1530年にアピアンPeter Apian(1495―1552。別名ビェネビッツBienewitz)が世界全図に用いた。1531年にはフランスのフィーヌOronce Fine(1494―1555)が、半球ごとにこの図法で表したものを赤道でつなげて世界全図にした。これは1538年に刊行されたオランダのメルカトルによる世界全図に用いられ、メルカトル複ハート形図法といわれている。また、この地図は北アメリカの地域名を表記した最初の地図でもある。
1569年刊行の大判世界全体海図『メルカトル世界地図』はメルカトル図法によるもので、当時懸賞問題になっていた遠距離を結ぶ任意の航程線を図上で直線に表す最初の世界全体海図となった。しかし、刊行後、彼の没後もしばらくはむしろ不評であった。メルカトル自身は図解的に作図し、その作成方法は公開しなかったが、30年後の1599年にイギリスのライトEdward Wright(1558―1615)がその作図理論と数表を発表。1646~1647年にダッドリーSir Robert Dudley(1574―1649)がこの図法による世界海図帳『海の神秘』をイタリアで刊行してからメルカトル図法とよばれるようになり、それによる海図が普及するようになった。メルカトル没直後の1595年に初版が刊行されたメルカトル地図帳『アトラス』では、横軸平射図法の半球図を並べた世界全図、極心正距方位図法の北極図が注目され好評であった。
16世紀中期以降、ヨーロッパにおける、低緯度地帯を含むほかの地域への関心と地域情報の拡大に伴い、世界各地の地域図に用いる円錐図法と、世界全図用に用いるすべての緯線を平行直線で表し、中央経線以外の経線を楕円弧で表すさまざまな楕円図法の開発が活発に行われた。16~17世紀はオランダ地図企業の黄金時代で、オルテリウスが1570年に刊行した地図帳『世界劇場』(世界の舞台、地球の舞台ともいう)の世界全図は好評であり、図法は擬円筒図法の一種である、緯線が等間隔の平行直線に作図される正距楕円図法を用いていた。同じく擬円筒図法の一種として知られるサンソン図法は、1570年フランスのコシンJean Cossinが海図型世界全図に用い、また1606年版メルカトル地図帳のアフリカ図にすでに用いられていた。しかしサンソン図法(別名サンソン‐フラムスティード図法)とよばれるようになったのは、1650年にフランスのサンソンNicholas Sanson(1600―1667)が大陸図に、そして1729年にイギリスのフラムスティードが星図にもっぱら用いてからであった。
[金澤 敬]
ボンヌ図法は、18世紀にフランスでプトレマイオス第2図法に由来する正積擬円錐図法の数学理論をボンヌRigobert Bonne(1727―1795)が完成し、1752年にフランス沿岸海図帳に用いた。またドリールJoseph Nicolas De l'Isle(1688―1768)はプトレマイオス第1図法に基づく2基本緯線正距円錐図法を考案し、もっぱら地域図に用いて、ドリール図法といわれるようになった。
統一規格の切図様式によるフランス最初の国土基本図作成は、三角測量による基準点測量から着手する現代の地形図作成のはしりであるが、17世紀中期からカッシーニCassini家4代による100年以上継続した事業となり、1793年に全土を覆う182図葉が完成した。これに用いた測量座標系は横軸正距円筒図法であり、その後カッシーニ図法とよばれている。
後の19世紀から20世紀初期にかけて行われたプロシア全土の地形図作成には、多面体図法が用いられた。これは『プトレマイオス地図帳』地域図の図法であり、20世紀前半まで世界の地形図の標準図法となった。
一方、1772年にドイツのランベルトが発表した横軸正角円筒図法は球からの横メルカトル図法である。後にガウスが回転楕円体から特別な球への正角図法を考案し、その球から平面への横メルカトル図法に相当するガウス座標でハノーバーの基準点測量を行った。この方法はハノーバー測量局長シュライバーOskar Schreiberによってプロシアの基準点座標系にも用いられ、ガウス正角二重図法として、20世紀前半にいたる各国の基準点座標系の標準となった。
回転楕円体の横メルカトル図法となるTM図法またはガウス‐クリューゲル図法(単に横メルカトル図法ともいう)は、回転楕円体から地球儀の子午線帯に相当する平面上の経度帯への正角図法である。クリューゲルLouis Krügerがガウスの遺稿メモ書きを整理して遺稿ノートの形で発表してから、それを発展させて体系と数表にまとめて1912年と1919年に発表した。これが第一次世界大戦後のドイツの国土基本図に用いられ、さらに第二次世界大戦末期にはTM図法に基づくユニバーサル横メルカトル図法(UTM図法)が戦場地形図に用いられたことから、日本を含む戦後の各国で地形図の標準的図法として普及した。
[金澤 敬]
19世紀から20世紀にかけて、地図投影に対して数学者の関心が集まり、1887年にフランスのティソーNicolas Augusto Tissot(1824―1897)が、投影のひずみの図形表示の基礎となる指示楕円(ティソーの指示楕円、ティソー標形ともいう)を発表し、近代数学による地図投影の数学理論基本体系をまとめた。
世界全図の図法について、さまざまな正積楕円図法が開発され、1805年にモルワイデKarl Brandon Mollweide(1774―1825)がモルワイデ図法を、1906年にエケルトMax Eckert(1868―1938)がエケルト図法を発表した。
また、さまざまな変更、変形および合成の方法も考えられ、たとえば、1892年にハンメルErnst von Hammer(1858―1925)がエイトフ変換によるハンメル図法を発表し、合成図法では1921年にビンケルOswald Winkel(1873―1953)がビンケル図法を、1923年にグードJohn Paul Goode(1862―1932)がホモロサイン図法とさらにその変形である断裂グード図法を発表した。図法の計算式にいくつかの任意定数を組み込む変更も考えられ、とくに1942年に発表されたミラーOsborn Maitland Miller(1897―1979)の変更メルカトル図法(ミラー図法の名称で定着)が有名である。
20世紀後半には、コンピュータの支援による投影計算と作図自動化が実用化し、投影軸の変更によって、さまざまな世界全図や大陸ごとの地域図がつくられるようになった。その一つとして1948年のバーソロミュー地図帳の西経30度経線を楕円の長軸、地図の中心を北緯45度、西経30度とした斜軸モルワイデ図法でアトランティス図法と命名したものがある。
図法設計の新しい方法として、20世紀中期までの数学に基づく発想から離れて、利用者の好ましさといった感覚的なデザイン要素を具象化した成果があり、1974年にロビンソンArthur H. Robinson(1915―2004)が世界全図の新しい図法を発表した。これはその後にロビンソン図法と命名され、ナショナル・ジオグラフィック協会の公式世界全図の図法となった。
また人工衛星画像の実用化に伴い、古典的な外射図法を見直し、投影面の位置を変える一般化外射図法も開発された。人工衛星の地上における軌跡を正確に作図できる宇宙斜軸メルカトル図法は、コルボコレッセスAlden P. Colvocoresses(1918―2007)が1974年に提案し、スナイダーJohn P. Snyder(1926―1997)が1978年に完成した。これは地上における軌跡の接線曲面を投影面とした正角図法で、静止軌道の場合は斜軸メルカトル図法となる。
[金澤 敬]
地図の投影法、規格、精度、ならびに表示する事項の種類、それぞれの記号とその表示法など、地図を描く場合のいっさいの約束を図式というが、狭義には後者の記号に関する約束をさすことが多い。図式は、地図の作成に際して不可欠であるとともに、地図利用者にとっても、地図を有効、適切に利用するためによく理解しておかねばならない。
狭義の図式には、表示する対象物の種類ごとに、記号の形、大きさ、線の太さ、色や記号を表示する位置、向き、配列などが定められている。また、縮尺に応じた表示事項の取捨選択、細かく表示できないものの総描(総合描示)の仕方、図上で接着してしまう場合の転位の原則などが規定される。さらに、地名などの文字については、対象物に応じて書体、字大(じだい)、字形(直立体、傾斜体など)、文字の間隔、配列方向、名称の表示位置などが決められている。
国土地理院発行の縮尺2万5000分の1や5万分の1の地形図の場合、図式は明治以来何回も改訂されている。
図式は、地図の目的のほかに縮尺によっても異なってくる。たとえば、道路は5000分の1以上の縮尺ならば、ほとんどが実際の幅を縮尺化した幅の記号で描き分けられるが、2万5000分の1となると、実際の幅を階級区分して、それぞれを所定の(縮尺化したものよりも拡大された幅の)記号で表示するようになり、同時に取捨選択、総描、転位などの手法が必要になる。このような手法は、さらに縮尺が小さくなるほど大幅に行われるようになる。
[五條英司]
地図の種類はきわめて多様であるが、これをいろいろな観点から分類することができる。
[五條英司]
まず、地図の内容ないし利用目的から、一般図と主題図に大別できる。
[五條英司]
土地の高低、起伏、水系、植生、土地利用状況、交通路、集落や各種の工作物など、地表面の自然物、人工物のすべてのものをまんべんなく表現した地図で、多目的に広く利用される。国土地理院発行の縮尺2万5000分の1や5万分の1の地形図は基本図といわれる。また20万分の1の地勢図、50万分の1の地方図、100万分の1の国際図(日本)なども全国土をカバーしている。同院ではまた、大都市地域の1万分の1の地形図や、都市部を中心とした2500分の1や5000分の1の地形図(国土基本図)も発行している。このほか、地方公共団体などが計画用につくっている2500分の1などの地形図や、市販の地図帳の主要部分も一般図に属する。
[五條英司]
特定の主題について専門的に表した地図で、多くは同じ縮尺の一般図を土台にして作成される。国土地理院の土地利用図、土地条件図、沿岸海域土地条件図、湖沼図、ナショナル・アトラス、海上保安庁海洋情報部(旧、水路部)の海図、海の基本図、航空図、産業技術総合研究所地質調査総合センターの地質図、国土交通省土地・水資源局の地籍図、農水省の土壌図、環境省の現存植生図、気象庁の気候図、天気図などは、国の機関が作成(または管理)する主題図のおもなものである。このほか、国や地方の機関で作成される各種の計画図や、民間から発行されているレクリエーション用の地図、道路地図、住宅地図なども主題図である。
[五條英司]
地図の縮尺の面からは、日本では、1万分の1以上の縮尺を大縮尺、1万分の1から10万分の1までを中縮尺、10万分の1以下を小縮尺とよんでいる。しかし、この区分は固定したものではなく、その国の地図整備状況により、また時代によって違いがある。なお、地形図という呼称は、中縮尺および大縮尺の一般図に対して使われる。
[五條英司]
地図はまた、作成方法によって実測図と編集図に分けられる。実測図は、空中写真からの図化や地上での測量・調査によって直接作成される地図であり、これに対して編集図は、既存の地図や各種の資料から編集してつくられる。一般に、縮尺の大きい一般図は実測図であり、縮尺のより小さい一般図は編集図である。国土地理院の国土基本図や2万5000分の1の地形図は実測図であるが、5万分の1の地形図は2万5000分の1の地形図から、20万分の1の地勢図は5万分の1の地形図から編集される。一方、主題図には、統計資料などをもとに作成される編集図が多いが、地形分類図、土地条件図、地質図、土壌図、植生図、土地利用図、海図などのうち縮尺の大きい地図や、地籍図は、実測図といえる。地図の編集に際して縮尺の変更を伴うときは、投影法や図式も変更されるのが普通である。
[五條英司]
地図は、普通は1枚のシートになっているが、多くの地図を集めて本にしたアトラス(地図帳)や、教育用の掛図(かけず)、折り畳み地図などの形をとったものもある。アトラスには、一国の自然、経済、社会、文化などに関する地図を集大成したナショナル・アトラスのほか、地質、気候、道路などの主題別のアトラスや、世界地図帳、分県地図帳、社会科地図帳などがある。市販の市街図などには折り畳み式でカバーをつけたものが多い。
また、特殊な地図としては、地球儀のほか、写真図(写真地図)、レリーフ・マップ(立体地図)、触地図などがある。写真図は、空中写真像を土台にしたもの、レリーフ・マップは地表面の起伏を実際の凸凹で表したものであり、触地図は図形や文字を紙面より突出させた、視覚障害者のための地図である。
[五條英司]
一般図のうち、ここでは実測図である地形図の作成工程について述べる。地形図をつくるためには、三角測量で水平位置が決められた三角点と、水準測量で標高が決められた水準点とが骨組みになる。これらの基準点をもとにして、地表面の高低、起伏の状態や、その上にある自然物、人工物の位置を測り、地図に描き表す作業を地形測量という。地形測量の方法は、かつては平板測量のみであったが、現在では大部分が写真測量にかわった。平板測量では、三脚のついた平板上に、基準となる点数点をプロットした図紙を固定し、現地でこれを正しい方位に水平に置き、アリダードalidadeという器械を用いて目標物への方向線の交わりや、測定した距離から、次々と必要な地点の位置を図解的に求めて、地形図の原図を描いていく。高低、起伏については、普通は尾根や谷の線を測って描くとともに、その線上のおもな点の高さを求め、これらを基準として等高線の通過する点の位置を求める。平板測量は、現在は500分の1などのとくに大縮尺の地形図の作成や、小規模の測量に用いられている。
写真測量は、空中写真からの図化を主体とするもので、平板測量に比べて高価な設備を要するが、能率的に、精度の一様な地形図をつくることができる。空中写真は、普通、東西の飛行コースに沿い、東西方向に隣接する写真とは約60%、隣接コースの写真とは約30%重複するようにして連続撮影される。また、地上の基準点が空中写真上で同定(確認)できるようにするため、撮影前に基準点にあらかじめ白い板などでつくった対空標識を設置するか、撮影後に写真を現地に携行して、その上に基準点の位置を刺針する。隣り合った一対の空中写真のポジフィルムを図化機に正しくセットし、それに光線を当てると、地表面の実体模像が観察される。この模像表面の物体に沿うように視野の中の測標とよばれる点を動かすと、自動的に図が描かれる仕組みになっている。一方、人工物の種類、名称や地名、空中写真で判読できない事項などについては、現地調査が行われる。図化された素図と現地調査の結果から、地形図の原図がまとめられる。
地図の原図は、所定の図式に従って製図される。製図作業は、従来はペンや烏口(からすぐち)を使って着墨する方法であったが、現在ではスクライブ法とよばれる方法が主流となっている。この方法は、伸縮のごく少ないポリエステル・ベースに遮光膜を塗布したものの上で、焼き付けられた原図の画線に沿って特殊な針で膜を削るもので、色版別にネガの形で成果が得られる。地図の文字の版は、写真植字された薄いフィルムを透明ベースの所定位置に貼(は)って、ポジの形で作成される。また、網点で印刷される版については、網のかかる部分だけ窓をあけたマスク版を作成し、製版時に網スクリーンとよばれるネガと重ねられる。これらの製図成果から、アルミ版に製版し、地図が印刷される。
[五條英司]
製図以降の工程については地形図の場合と大差ないので、ここでは主題図の原図作成までの工程を述べる。地形分類図、地質図、土壌図、植生図、土地利用図などで実測図にあたるものについては、それぞれに必要な現地調査を行うとともに、空中写真判読を併用して地表面を区分し、ベースとなる地形図上に分類表示する。湖沼図や海図は、音響測深や採泥調査などの結果から作成される。これらの主題図はまた、より縮尺の小さい地図に編集される。一方、量的な分布を示す主題図は、統計数値などをもととして編集されるが、この場合、主題や資料の性格などによって、コロプレス地図、等値線図、ドット・マップ、流線図などの表現方法が選ばれる。
[五條英司]
地図の作成、利用の新しい分野として、本来の地図とは別に、その地理的な情報を数値化あるいは符号化して、コンピュータで処理できるように、磁気テープなどに収録することが盛んに行われている。地理的な情報には、地点の標高、公共施設の配置といった点情報、河川や道路のような線情報、それに平均標高、土地利用などの面情報がある。それらの数値化、符号化は、既存の地図からの計測で行うのが普通である。また、位置については、点情報は座標で、線情報は近似化された多くの線分の角の座標で示されるが、面情報に対しては、単位区域を設定する必要がある。このためには、通常、メッシュ(方眼)が用いられるが、全国土を連続的に覆うものとして、標準地域メッシュとそのコードが定められている(昭和48年行政管理庁告示)。このうち、2万5000分の1の地形図の縦・横を各10等分する経緯線網(1区画は約1平方キロメートル)を基準メッシュとよんでいる。
このような数値情報の代表例として、国土地理院で整備された国土数値情報がある。そこでは、標高、起伏量、地形分類、表層地質、土壌、谷密度(谷の本数)、河川、流域、行政界、開発や保全に関する指定地域、文化財、土地利用、道路、鉄道、公共施設、公示地価などの情報が、基準メッシュごとに記録され、点情報、線情報については基準メッシュと関連づけられるようになっている。総務省統計局では、基準メッシュに基づいた人口などの統計を整備している。
数値情報から、コンピュータを利用して直接に、または加工して、いわゆる数値地図を自動的に作成することができる。この場合、メッシュを単位区域とする分布図だけでなく、公共施設の分布、河川水系といった点や線の地図をつくることもできる。また、平面の地図以外に立体地図や地形断面図などの作成、行政区画や流域ごとのデータの集計、あるいはデータの組合せによる地域の解析、評価を行うことも可能である。
このほかにも、メッシュのかわりに街区あるいは等質の地域ごとに、境界線とその属性を入力して、それから地域の分析、評価のための地図を作成することもできる。一方、コロプレス地図などの分布図を作成する場合に、従来の製図工程にかわって、原図の色彩を自動的に判別し、製版用のフィルムを作成することや、多くの点情報から等値線図を自動作成することなども実用化されている。
[五條英司]
地図の歴史は、文字などのなかった人類文化の初期にさかのぼるといわれる。
[五條英司]
紀元前3000年ごろから世界で最初に文明が栄えたバビロニアでは、粘土板に刻まれた地図が発見され、現在、イギリスの大英博物館に所蔵されている。また、紀元前2400年ごろにパピルスという草からつくった紙に描かれたエジプトの金山の地図なども現存する。
古代ギリシアの初期には、世界は円盤状で、オケアノスとよばれる大洋に取り囲まれていると考えられていたが、アリストテレスは地球が球形をなすことを科学的に証明し、エラトステネスは地球の円周を初めて測定したことで知られる。また、プトレマイオスは、紀元後150年ごろ、世界中の都市の位置の経緯度を集大成した『プトレマイオス地理学』と『世界図』を完成した。これは科学的地図の源として、地図学史の第一次革命の成果といわれる。
中世のヨーロッパでは、神学がすべての学問を支配し、世界はふたたび円盤とみなされた。この考えを端的に表したのがいわゆるTO地図で、円形にオケアノスという大河に取り囲まれた陸地の上半分がアジア、下半分は地中海を境として左側がヨーロッパ、右側がアフリカとなっていた。中世の後半に入ると、十字軍の遠征を機に、地中海を中心とする交通が盛んになり、13世紀ごろから、ポルトラノ海図がつくられるようになった。これは、地図の各所に分度円を描き、その中心から目的の港への方位線を放射状に引いたものである。十字軍の失敗により教会の勢力が失墜すると、ようやくギリシア・ローマ時代の科学の成果がヨーロッパに復活し、15世紀には、『プトレマイオス地理学』と『世界図』がイタリアで印刷された。
15世紀末からの大航海時代に、世界の水陸分布の知識はしだいに正確なものになった。印刷術の進歩とともに、世界地図が多く出版されるようになり、ベルギーのオルテリウスは初めて銅版による近代的な世界地図をつくり、オランダのメルカトルは1569年の世界地図で、いわゆるメルカトル図法を採用した。18世紀後半にイギリスのクックの探検によって、南半球の大部分が海であることが判明し、ほぼ完全な世界地図が成立するに至った。
一方、オランダのスネルは、1617年、アルクマール(オランダ)とベルゲン(ノルウェー)の間で初めて三角測量を行い、科学的な測量に基づく精密な地図作成の道を開いた。フランスでは、18世紀末に、カッシーニ一族の努力によって、三角測量に基づく全土の8万6400分の1の地図が完成された。イギリス、ドイツ、デンマークなどでも、18世紀末から19世紀にかけて相次いで本格的な三角測量を始め、科学的な地図が作成されるようになった。
[五條英司]
日本における地図作成の最古の記録としては、『日本書紀』に、646年(大化2)、諸国をしておのおのその境界を調べ、これを図にして提出させたとある。684年(天武天皇13)には、朝廷から派遣された使臣らが信濃(しなの)国図をつくり、これを呈上した。さらに『続日本紀(しょくにほんぎ)』には、738年(天平10)、諸国に命じて国郡(くにこおり)の図をつくらせたという記事がある。このようにして諸国の地図ができ、他方では条里制、班田法に伴い、田図(でんず)などがつくられたと考えられる。現存する最古の地図としては、正倉院宝物のなかに、751年(天平勝宝3)の東大寺領近江(おうみ)国水沼村墾田(こんでん)図などがある。奈良時代に僧行基(ぎょうき)がつくったと伝えられ、最古の日本全図といわれる行基図は、国界のみの簡略な日本全図に対する、後世における総称である。行基図とよばれる地図と同じ形式の地図は江戸時代までつくられ、日本全図の基になっていた。この形の地図には、山城(やましろ)国(現在の京都府南部)を中心として五畿(ごき)七道の経路が表され、これに諸国の位置と名称が記された。
江戸時代の初期に、幕府は各藩に命じて国絵図(くにえず)をつくらせた。これには、正保(しょうほう)年間(1644~1648)の正保図、元禄(げんろく)年間(1688~1704)の元禄図などがあり、縮尺はいずれも1里6寸(2万1600分の1)である。建部賢弘(たけべかたひろ)はこれらの国絵図を総合して『享保日本総図』を作成、さらに水戸の長久保赤水(せきすい)は、1779年(安永8)、10里1寸(129万6000分の1)の『改正日本輿地路程全図(かいせいにほんよちろていぜんず)』を発行した。この地図は1774年の『日本輿地路程全図』を改定して出版したもので、経緯線が入っている点で画期的であった。
近代的測量に基づく日本地図の作成は、いうまでもなく伊能忠敬(いのうただたか)に始まる。忠敬は、1794年(寛政6)に家業から隠居し、翌年佐原(千葉県)から江戸に出て、天文方高橋至時(よしとき)の門に入り、暦法や測量術を学んだ。1800年まず北海道と奥州街道を実測したのち、幕命を受けて翌1801年(享和1)から1814年(文化11)までかかって、全国の沿岸および主要な街道筋の測量を完了し、さらに翌1815年には江戸府内を測量した。彼の測量は、距離と水平角の測定を主体とするいわゆる道線法が主体で、必要な地点で樹木や塔などの目標物をねらって位置を点検するための交会法(こうかいほう)を用いるものであった。忠敬は1818年(文政1)に没したが、高橋至時の子景保(かげやす)が中心となって、1821年にその成果である『大日本沿海輿地全図』を完成させた。忠敬の地図は、大図(3万6000分の1)、中図(21万6000分の1)、小図(43万2000分の1)の3種類からなり、明治に入ってからも官製地図の根拠となった。
明治になって、測量および地図作成の事業は政府機関が中心になって行うことになった。明治の初年、内務省(当初は工部省)はイギリス人やフランス人の指導で測量、地図作成を始め、続いて陸軍も測量に着手した。内務省では、全国の三角測量を開始するとともに、600分の1の地籍図(字限図(あざきりず))や5000分の1の市街図などをつくり、陸軍は1万分の1図に続いて、1880年(明治13)からいわゆる迅速2万分の1図、1885年からは正式2万分の1図の作成を始めた。また1884年に、内務省の測量事業は陸軍に吸収されて、参謀本部測量局となり、さらに1888年に参謀本部陸地測量部に改称した。陸地測量部は、1892年から1924年(大正13)までかかって、全国の5万分の1の地形図完成した。また、2万分の1にかえて整備することになった2万5000分の1の地形図は、1938年(昭和13)までに、平野部を主に、国土の約4分の1にあたる1100面余りが作成された。
海部については、1871年(明治4)に創設された海軍水路局が沿岸、港湾、近海の海図の作成を進めた。第二次世界大戦後の1948年(昭和23)以降は、陸地測量部および海軍水路局の業務を引き継いだ建設省(現、国土交通省)国土地理院、海上保安庁水路部(現、海洋情報部)を中心に、地図作成事業は主題図の分野を含めて、目覚ましい発展を示している。
[五條英司]
『織田武雄著『地図の歴史』(1973・講談社)』▽『岩田豊樹著『古地図の知識100』(1977・新人物往来社)』▽『野村正七著『地図投影法』(1983・日本地図センター)』▽『A・H・ロビンソン他著、永井信夫訳『地図学の基礎』(1984・地図情報センター)』▽『海野一隆著『ちずのしわ』(1985・雄松堂出版)』▽『プトレマイオス著、中務哲郎訳『プトレマイオス地理学』(1986・東海大学出版会)』▽『高崎正義編『総観地理学講座3 地図学』(1988・朝倉書店)』▽『ジョン・ノーブル・ウィルフォード著、鈴木主税訳『地図を作った人びと――古代から現代にいたる地図製作の偉大な物語』(1988・河出書房新社)』▽『中村和郎・高橋伸夫編『地理学講座1 地理学への招待』(1988・古今書院)』▽『日本地誌研究所編『地理学辞典』改訂版(1989・二宮書店)』▽『日本測量調査技術協会編『ディジタルマッピング』(1989・鹿島出版会)』▽『日本地図センター編・刊『数値地図ユーザーズガイド』(1992)』▽『矢守一彦著『古地図への旅』(1992・朝日新聞社)』▽『沓名景義・坂戸直輝著『海図の知識』新訂版(1994・成山堂書店)』▽『マーク・モンモニア著、渡辺潤訳『地図は嘘つきである』(1995・晶文社)』▽『若林幹夫著『地図の想像力』(1995・講談社選書メチエ)』▽『J. C. Muller編、海外技術動向調査小委員会訳『現代地図学の先端』(1996・日本地図調製業協会)』▽『山と地図のフォーラム編著『パソコンで楽しむ山と地図 マルチメディアの山旅』(1997・実業之日本社)』▽『C・クーマン著、船越昭生監修、長谷川孝治訳『近代地図帳の誕生――アブラハム・オルテリウスと「世界の舞台」の歴史』(1997・臨川書店)』▽『日本国際地図学会編『地図学用語辞典』増補改訂版(1998・技報堂出版)』▽『織田武雄著『古地図の博物誌』(1998・古今書院)』▽『海野一隆著『地図に見る日本――倭国・ジパング・大日本』(1999・大修館書店)』▽『三好唯義編『図説 世界古地図コレクション』(1999・河出書房新社)』▽『田代博・星野朗編著『地図のことがわかる事典』(2000・日本実業出版社)』▽『ジェレミー・ブラック著、関口篤訳『地図の政治学』(2001・青土社)』▽『ノーマン・J・W・スロワー著、日本国際地図学会監訳『地図と文明――地図と歩んだ人びとの歴史』(2003・表現研究所)』▽『海野一隆著『地図の文化史――世界と日本』新装版(2004・八坂書房)』▽『織田武雄著『地図の歴史』日本篇・世界篇(講談社現代新書)』▽『マイルズ・ハーベイ著、島田三蔵訳『古地図に魅せられた男』(文春文庫)』▽『日本地図センター編・刊『地図ニュース』(月刊)』▽『日本国際地図学会編・刊『地図』(季刊)』▽『地図情報センター編・刊『地図情報』(季刊)』
地球表面の一部または全部を縮小して平面上に描き表したものが地図である。英語では陸の地図をマップmap,海や湖の地図をチャートchart,また狭い地域の大縮尺の地図(図面)をプランplanと区別して呼ぶが,日本では地図という用語が共通に使われている。もっとも地図という用語は明治初期以降の用語であって,江戸時代には絵図(えず)と呼ばれていた。また地球表面だけでなく,月の表面を描いた月面図,あるいは地球を球面のまま模型にした地球儀などがあり,さらにまた地球の凹凸をやや誇張して立体的に表したレリーフマップ(立体地図),地表を斜め上から俯瞰した形で描画した鳥瞰図などもあり,これらも広義には地図の応用ないし変形と考えることもできる。しかしここでは冒頭に定義したように,地球表面を平面(主として紙)上に縮小して描いた地図について説明する。
地図は文字よりも古い歴史をもつといわれている。地図は人間の生活の必要から生まれ,生活の変化に伴って変化し,進歩してきた。今日の社会では,地図は土地,地域,国土,世界と,地球上の地域の大小を問わず,情報伝達の最良の手段として欠くことができないものとなっており,地図の良否はその国の文化のバロメーターであるとさえいわれている。
地図は,地表,海洋,大気など地球上の多くの自然環境や,そこに展開される人間や動植物の生態など,いろいろなものを表示することができる。したがって,地球上のいろいろな調査が進むにつれて,また人間の活動が多様化するにつれて,地図の内容も多くなり,また種類も多岐にわたり,利用分野も広くなってくる。数多い地図を,その内容と利用分野から大別すると,一般図general mapと主題図thematic mapに分けられる。一般図は,地表や海底などの形態とそこに分布する事象を,とくにどれに重点を置くということなく全体的に描き表した地図で,ふつうに地図といえば,一般図を指すことが多い。主題図は,一般図などを基図として,特定の主題について詳しく表現した地図である。
一般図の代表的なものは,国土地理院の作成する地形図(1万分の1,2万5000分の1,5万分の1など),地勢図(20万分の1),地方図(50万分の1),日本全図(100万分の1)などであり,またこれらに準拠して他の官公庁や民間機関の作成する多くの一般図がある。すなわち県や市町村の管内図,分県図,あるいは社会科地図帳のたとえば東北地方,ヨーロッパ地方などの地方図は一般図であり,また都市計画や道路計画などの基図として用いられる大縮尺の地形図類も一般図のカテゴリーに属する。
主題図の種類はきわめて多い。国の機関などが組織的に整備し,一般に入手ないし閲覧できるおもな主題図とその作成機関をあげてみると次のようになる。
(1)自然条件に関する地図 地質図(地質調査所ほか),地形分類図(国土庁ほか),土壌図(農水省ほか),土地条件図(国土地理院),火山・地震などの地図(気象庁,国土地理院),重力・地磁気などの地図(国土地理院),海図(海上保安庁水路部),天気図・気候図(気象庁),森林図(林野庁),植生図(環境庁)など。
(2)人文条件に関する地図 地籍図(国土庁,地方自治体),行政区域図,各種指定地域図(各省庁,地方自治体),人口図(内閣統計局),各種の産業図(各省庁,地方自治体),都市機能図(建設省,地方自治体),道路図(建設省),鉄道図(運輸省,JR),郵政図(郵政省)。
(3)自然と人文との相関関係を示す地図 土地利用図(国土地理院ほか),利水現況図(国土庁,国土地理院),水害・地盤沈下・地震などに関する防災地図(建設省,地方自治体),都市計画・地域計画などの計画図(国土庁,建設省,地方自治体)。
これらのほか,民間機関で作成される道路地図(ロードマップ),観光地図なども主題図であり,また上記の地図の中でも,たとえば人口図などは人口分布図,人口密度図,人口増減図,産業別人口構成図などに細分できるので,その数はきわめて多くなる。
また上記の一般図,主題図あるいはその両者の組合せなどにより,多数の地図を書籍の形に編集したものを地図帳(アトラス)と呼んでいる。さらにまた上記の国が体系的に作成している地図の中で,他の多くの官民の地図作成の基本となるものを,国の基本図と呼んでいる。日本では国土地理院が空中写真測量によって全国を約4430面でカバーしている2万5000分の1地形図が,国の基本図として代表的なものである。しかし広義には,国の行政や国民生活に欠くことのできない地籍図,海図,地質図なども国の基本的な地図というべきであろう。
地図はまた,視点をかえれば,いろいろな角度から分類することができる。たとえば縮尺という視点に立てば,大縮尺図,中縮尺図,小縮尺図などと分類できるし,作成方法という視点に立てば実測図と編集図に区分できる。さらに地図の図法(投影法)からも分類できるし,表現法からも分類できる。
冒頭に地図を定義し,多様な地図の世界を概観したが,これらの地図に共通するものは何であろうか。第1にあげられることは,球体である地球の表面の全部ないし一部を,平面に写し取って表現するためには,なんらかのくふうと約束が必要なことである。一般に,地球表面に想定された経緯線網を,なんらかの約束に従って平面上に写し取ることを,地図の図法(投影法)と呼んでいる。縮尺の大きい地図で,1枚の図紙に描かれる範囲が小さい場合であれば,地球の球面はほとんど平面と見なすことができるので,どのような図法によっても面積や角度のひずみは問題にならない。しかし日本全図やヨーロッパ地域の地図などのように,1枚の図紙に描かれる範囲が大きくなってくると,地球の丸みを考慮しなければならず,距離,面積,角度などを地球表面の通りに表現することはできなくなってくる。まして世界地図などのように地球全体を1枚の図紙に表現する場合は,この悩みはいっそう大きくなってくる。球面を平面に投影すること,言葉を換えていえば,地球上の経緯線網を平面上に写し取る方法としては,地球の一部分をそのまま平面に投影するか,地球に円錐ないし円筒をかぶせ,これに経緯線を投影して,円錐や円筒を切り開いて平面とするなどの方法がある。しかしいずれにしても,距離,面積,角度の三つの条件をすべて満足させることはできず,いずれかの条件を犠牲にせざるをえない。
第2に,地図は,地球の表面を縮小して表現するという性格をもっている。縮小の度合を縮尺(スケールscale)と呼び,一般に5000分の1,5万分の1,100万分の1などの分数で示される。縮尺の大きい地図というのは,5000分の1などのように分母の数字の小さい地図であり,縮尺の小さい地図とは,100万分の1などのように分母の数字の大きい地図である。縮尺の大きい地図では,地表の姿をおおむねそのまま縮小して表現できるが,縮尺が小さくなるに従って,地表の姿をそのまま縮小して表現すると,混み入りすぎてわかりにくくなってくる。したがってその地図の目的,性格から考えて,重要でないものは省略し,重要なものは誇張して表現し,さらにまた全体のようすをおおづかみに表現するなどの手法が必要になってくる。またいろいろな記号(地図記号)も必要になってくる。とくに,地図上では,地表や海底の凹凸をなんらかの方法で平面上に表現しなければならない。このため,けば,ぼかし,等高線(コンターcontour),段彩などいろいろな手法が考えられ使われている。また一般に地図記号は,それを見て直ちに現地,現物を連想しやすいことが基本であり,地形図における神社の記号(),温泉の記号(♨),学校の記号(文)などはだれもが知っている。また主題図においては,たとえば天気図における不連続線や風力の記号,あるいは統計地図における円や方形などの図形も,それぞれ地図記号である。地図を文章にたとえれば,これらの地図記号は地図を読むための文字に相当する。地図の図郭外には,これらの地図記号の説明がつけられているので,これをよく理解したうえで地図を読むことがたいせつである。
地図の図法,縮尺,地図記号など地図を構成する諸要素,さらに地図作成のための測量法や調査法,あるいは準拠資料などとその適用法などを一括して,地図の図式という。地図の図式は,地図を建物にたとえればその設計書である。したがって図式の良否はそのまま地図の良否につながる。明確な図式がないと地図は本来作成できないし,また安心して利用することもできない。
地図の図法(投影法)を,その投影面から分類すると,(1)方位図法,(2)円錐図法,(3)円筒図法に分けられる。(1)の方位図法は地球上の一点に接する平面に経緯線を投影する図法であり,(2)の円錐図法は地球面に接するか,またはわずかに食い込む形で円錐をかぶせ,経緯線を投影して,これを切り開いて平面とする図法であり,(3)の円筒図法は同じく地球面に接するか,またはわずかに食い込む形で円筒をかぶせ,経緯線を投影してこれを切り開いて平面とする図法である。これらの図法は,さらに投影の視点によって,地球の中心に視点をおく心射図法,反対側の地球上の一点に視点をおく平射図法,無限遠に視点をおく正射図法などと区分される。また,面積,角度,距離のいずれかの条件を正しく表示するため,古来,数々の投影法がくふうされており,それぞれ正積図法,正角図法,正距図法などと呼ばれている。またその図法を考案した人の名前を冠して,たとえばランベルト(ランバート)正角円錐図法,メルカトル図法(正角円筒図法)などと呼ぶことも多い。
正積図法の地図は,国や大陸などの面積を比較するのに都合がよく,分布図や密度図などを作成する場合の基図となる。このうち世界全図を描く場合によく用いられる図法は,サンソン図法,モルワイデ図法,ハンメル図法,エッケルト第4図法,同第6図法などである(図2)。地球の一部(大陸や日本とその周辺など)を表示する場合には,ランベルト正積円錐図法,同正積方位図法,ボンヌ図法などがよく用いられる。正角図法の地図は,地図の任意の地点で角(方位角)が正しく表示されるので,航海,航空などの目的の地図にはつごうがよい。メルカトル図法(正角円筒図法)が最も著明で航海用海図に広く用いられているだけでなく,一般の世界全図にもよく用いられている。またランベルト正角円錐図法は天気図や航空図に用いられ,正角方位図法(正射図法)も,極地方の表現などに用いられる。正距図法の地図は,特定の方向線上の距離の関係が正しく表れ,正距方位図法,正距円錐図法(トレミー図法),正距円筒図法などがある。さらにまた,たとえば,ウィンケル第3図法のように,正積,正角,正距のいずれの条件も満足させてはいないが,それぞれのひずみは少なく,全体としての調和のとれている図法もあり,これらの図法を便宜図法と呼ぶこともある。
以上説明した図法は,日本全図や大陸図,あるいは世界全図などのように,広い地域の小縮尺図の図法である。狭い地域の縮尺の比較的大きい地図では,上記のいずれの図法によっても実用上さしつかえないが,大縮尺図用の別の図法を用いるのが一般である。たとえば,国土地理院の1万分の1,2万5000分の1,5万分の1の地形図では,以前は多面体図法が用いられ,近年ではユニバーサル横メルカトル図法(UTM図法)が用いられている。多面体図法とは,図郭を構成する経緯線の四隅の点を含む平面に地表面を投影する図法である。この場合,5万分の1くらいの縮尺であれば,図郭となる経緯線は,図紙上では直線と見なしうるので,図郭線はその図葉の緯度帯に応じた台形となり,図葉内の各地点の位置(経緯度)はこの台形の経緯度を示す図郭から比例配分で決められてゆく。1図葉に含まれる範囲の地表面を平面と見なしてゆく多面体図法は,作図が容易なため以前は比較的広く用いられた。しかし,第2次大戦中,各国がまちまちの図法を使用していることに不便を感じた結果,北大西洋条約機構(NATO)に属する国々で,一定の約束のもとに,ユニーバーサル横メルカトル図法を用いることとし,これがしだいに普及して,現在では,日本を含む世界の60ヵ国以上がこの図法を用いている。ユニバーサル横メルカトル図法は,地球面を経度6°ごとの地帯(したがって60地帯)に分け,各経度帯ごとに中央経線を設定し,経度帯のなかでのひずみを少なくするため,わずかに中央経線から食い込む形の円筒を想定する横メルカトル図法である。この図法によれば,長さのひずみは1万分の4以内に抑えられる。ちなみに,5万分の1や2万5000分の1の地形図の場合,図郭線の長さの差は多面体図法の場合と比べて0.2mm以下である。
また日本では,5000分の1や2500分の1などの大縮尺の地図(国土基本図,地籍図,その他公共機関の作成する計画用の地形図など)では,国土調査法に基づく直角平面座標系(17座標系)が用いられている。これは,全国を17の座標系に分け,各座標系ごとに設けられた直角座標の方眼線を図郭線とするものであり,長さのひずみは1万分の1以内に抑えられている。
地図上の距離(長さ)と実際の距離との比率を縮尺(スケール)と呼ぶ。したがって,たとえば1kmの距離は,5000分の1の地図なら20cm,2万5000分の1の地図なら4cm,20万分の1の地図ならば5mmの長さで表示される。あまり厳密な定義ではないが,日本ではおおよそ1万分の1以上の縮尺の地図を大縮尺図,1万分の1から10万分の1くらいの地図を中縮尺図,それ以下の20万分の1や100万分の1などの地図を小縮尺図と呼んでいる。地図は縮尺によって表現方法が異なってくる。5000分の1くらいの大縮尺図であれば,100mが2cm,10mが2mmで図示できる。したがって10m幅の道路とか10m四方の建物などは,そのまま実形で縮小して表現できる。一般に2500分の1や5000分の1などの大縮尺図では,地表の実態が,ほとんど省略や誇張なしに,そのまま縮小して表現されている。また地図上のスペースが十分あり,建物や目標物などの名称がそのまま書きこめるので,地図記号も少なくてすむ。2万5000分の1や5万分の1くらいの中縮尺の地図になると,実形をそのまま縮小して表現することはできなくなってくる。たとえば5万分の1地図の場合は,100mが2mm,10mが0.2mmになる。巨大なビルなら実形で縮小表示できるが,10m幅の道路や小さな建物はそのまま縮小して図示することはむずかしい。したがって,これらの中縮尺図では,省略や誇張,あるいは全体のようすをまとめて図示するなどの方法がとられ,また記号で図示することが多くなってくる。さらに20万分の1や100万分の1の地図になると,省略や誇張がいっそう多くなってくる。地形を表示する等高線の間隔についてみると,大縮尺図では2~5mくらい,中縮尺図では10~20mくらい,小縮尺図になると100~500mくらいが一般である。また地形の表現を助ける手段として,10万~50万分の1くらいの地図では,ぼかし(シェーディングshading)がよく用いられ,100万分の1以下の地図では,高度帯ごとに色分けする段彩が用いられることが多い。
以上の地図の縮尺と表現内容との関係は,地形図などの一般図の場合であり,一般にいって縮尺が大きいほど,表現内容が豊富であり,また詳細である。主題図の場合も,地質とか土地利用などの場合には,ほぼ同じようなことがいえるが,天気図や気候図などのように,初めから観測値の数が少なかったり,境界が不明確である場合は,縮尺が大きいから詳細であるとはいえず,本来が小縮尺図で表現するにふさわしい内容なのである。同じようなことが,人口,生産,交通量などの統計地図についてもいえよう。市区町村別の人口密度という統計であれば,市区町村の区別がはっきりつく程度の地図(日本全図でいえば200万分の1くらい)以上の縮尺は必要としないわけである。
一般図,主題図を通じて,それぞれ利用目的に応じて,いろいろな方法で地図が作成される。ここではまず多くの地図の基本となる2万5000分の1地形図を中心にその作成法を述べておこう。2万5000分の1地形図の作成工程をフローチャートにすれば次のようになる。
基準点測量→対空標識設置→空中写真撮影→空中三角測量→現地調査→図化→製図→印刷・発行
基準点測量とは,三角測量や水準測量によって基準点(三角点と水準点)を設置し,その位置や高さを明らかにすることである。とくに水準点からの測量で,その高さも明らかにされている三角点は,位置と高さの両方の基準点として使える。基準点や基準点から測定された地点に,対空標識を置き,空中写真を撮影するが,2万5000分の1地形図作成の場合は,約8000m上空から,隣接する写真相互間で約60%,隣接する撮影コース間で約30%くらいのオーバーラップをさせて,縮尺が約4万分の1くらいの写真を撮影する。これらの写真を,図化機にかけ,室内でさらに基準点を増設し(空中三角測量),また写真上の映像を判読して図化素図を作成する。一方また地形図には,市区町村界や地名などを記入する必要がある。さらにまた写真上で判読困難な事象も多い。これらについては,2倍程度に引き伸ばした写真をもって現地調査をし,写真上に詳細に調査結果を記入してくる。図化素図とこれらの調査結果を合わせて原図を作成する。不備な点があれば補足調査として再び現地に行ったり資料を調べたりする。対空標識の設置からここまでの作業を一括して空中写真測量(または写真測量)と呼んでいる。空中写真測量で地形図の原図を作成するようになったのは1950年代からで,それ以前は平板測量で原図を作成した。平板測量は現地に平板を設置し,アリダードなどを使って多数の地点の位置や高さを平板上で図解的に測定し,これらの点をもとにして,等高線や道路などを描いてゆく測量である。またこれらの地形図の原図を作成する測量を,平板測量であると写真測量であるとを問わず,地形測量とも呼んでいる。測量原図ができあがると,図式規程などに決められた約束に従って製図してゆく。現在では,2万5000分の1地形図であれば3色刷りなので,等高線などの褐色の版(地形版),川や海岸などの青色の版(水版),建物その他の黒色の版(地物版)などに分けてスクライブscribeしてゆく。スクライブとは,プラスチックベースに遮光膜を塗り,これに鋼針で描画する(遮光膜を切る)手法で,1950年代からこの方法が用いられている。以前はアルミケント紙に墨で製図したが,スクライブの方が熟練を要せず,かつネガ版が直接できるので製版の工程が一部省略できる。また地名などの文字も,以前はペンで書いたが,今は写真植字により貼り込まれる。製図が完了すれば,製版され,オフセット印刷で地形図が印刷される。
2万5000分の1地形図が写真測量により完成すれば,これを4枚合わせて,図式規程に基づいて5万分の1の縮尺にふさわしい内容にかきかえて,5万分の1地形図を作成する。5万分の1地形図をもとにして20万分の1地勢図を,さらに20万分の1地勢図をもとにして50万分の1地方図をと,逐次小縮尺の一般図が作成されてゆく。このように,詳しい地図(一般には縮尺の大きい地図)をもとにし,必要なら他の資料も活用して,別の地図(一般には縮尺のより小さい地図)を作成してゆくことを地図の編集と呼んでいる。
海図や海の基本図,湖沼図などの水域の地図作成の場合は,陸図と異なり写真測量の手法を用いることができない。また基準点も,沿岸部の測量を除いては利用することができない。海の地図の作成の場合は,音響測深器(エコーサウンダー)を用いて直接水深を測定する。音響測深とは,測量船から海底に音波を発射して,それが海底に届いて反射してくる時間を測定し,水温や塩分濃度などによる音波速度の補正を加えて,水深値を出してゆく測量である。また海底の地質などは,直接採取して調べることもあるが,音波地層探査器(スパーカー,ソノストレーターなど)を用いて,海面下の地層の各境界面からの反射音波を地質断面図の形で記録してゆく。またこれらの測定点の位置(船の位置)は,沿岸部であれば陸上の二つ以上の基準点を望む角度または距離を測定して決めるが,陸地の見えない海洋では,星や太陽を観測して船の位置を決めてゆく。しかし近年は,数多くの測地衛星や航海衛星が地球を回っており,これらの衛星からの電波を観測して船の位置を決めてゆく。これらの測量データに加えて,港の施設,航海上必要な標識,潮流その他必要な事項を調査して原図が作成される。製図,編集以降の手順や方法は地形図の場合と変わらない。ただし,地形図などの場合は,2万5000分の1以上の縮尺の大きい地図がおおむね実測図であり,5万分の1以下の縮尺の小さい地図はこれらからの編集図であるが,海図の場合は,太平洋などのように広い海域の測量もあるため,500万分の1ないし1000万分の1のかなりの小縮尺図でも実測図のこともある。
このほか,多くの主題図の作成に関しては,これらの陸,海の基本図類を基図(ベースマップ)にして,それぞれの主題に応じて必要な調査を進めて地図を作成してゆく。たとえば,地形分類図,土地条件図,土地利用図,植生図などの作成に関しては,空中写真判読が有力な手法である。しかし,これらの主題図を作成するにあたっても,現地でのそれぞれの主題に応じた調査や測量が必要であることはいうまでもない。また天気図や気候図などのように,いくつかの観測値あるいは観測値の平均などのデータをもとにして,等値線(等圧線,等温線,等雨量線など)を引く場合にも,山地や海洋の配置,大気移動の原則など,それぞれ気象学や気候学の知識が必要である。またわれわれがよく見たり,作ったりする統計地図にしても,その統計の性質や色彩や記号設計の原則などをよく理解しておくことが必要である。
これらの多くの地図は,それぞれ日常生活,社会・経済活動の必要から,ある目的をもって作成されたものである。多目的図とも呼ばれる一般図の中で,最も基本的な地図である2万5000分の1と5万分の1地形図は,年間700万枚くらい消費されているが,その利用分野をごくおおまかに分類すると,3分の1が官公庁などの公共的分野で,また3分の1が学校その他の教育・研究などの分野で,残り3分の1が一般市民に利用されている。公共的分野での利用は,地域計画や防災計画,あるいは道路計画や住宅団地計画,さらに各種の公共的な調査などに利用されている。また管内図や指定区域の範囲を示すなど,他の目的の地図作成の基図としても利用されている。教育・研究の分野での利用は,地理や社会科の学習に始まって,地形解析,新旧の地形図の比較による地域発展史の研究,さらに各種の調査・研究用の基図などといろいろな分野で使われている。また一般市民の利用としては,登山,ハイキング,旅行などの案内図としての利用のほか,近年は古い街道を歩いたり,社寺や石仏を訪ねたり,基準点(三角点)を見つけたりするのに幅広く利用されている。
主題図は,一般に特定の主題について,調査・解析した結果を地図に表示したもので,使用目的もおのずから明らかである。しかし,たとえば地形分類図が,地質図や土壌図を作成する場合の有力な資料であり,また土地利用図と土地条件図を比較することにより,土地利用の適否を判断するなど,2~3種類の主題図を比較することにより,新たな主題を解析できることも多い。また,土地の戸籍簿に相当する地籍図などは,公共機関でしか作成を許されない重要な地図であり,海図や航空図などのように,船舶や航空機にその利用が義務づけられている地図もある。
地図上にいろいろな記号で表示されている事象は,その位置(経緯度などの座標値),形(位置の連続的な変化),属性(山,海,道路,建物などの分類,あるいは山の高さ,海の深さ,道路や建物の種類)などの要素に分解できる。したがってこれらを数値化し,また記号化して磁気テープにインプットできる。インプットされた個々のデータは,その多様な組合せを含めて,再び地図やグラフや数表などの形でアウトプットすることができる。測量のデータや調査の記録を磁気テープに格納すれば,あとはこれらのデータの組合せによって,磁気テープから地図ができるわけである。すでに地籍図や大縮尺の地形図などの作成には,このような手法が実用化している。たくさんの地図が少数の磁気テープやフロッピーディスクなどに格納されれば,地図の収納,検索や修正も容易になってくる。現在では,たとえば5万分の1地形図の等高線のなかから必要なものを選び,曲線の形をややなだらかにして20万分の1地勢図の等高線としてゆく作業や,地図のぼかしを自動的に描画する手法など,地図の製図だけでなく編集の分野でも,コンピューターと自動図化機の連動による手法が開発されている。また人口密度や降水量などのように約束されたメッシュ(方眼)ごとに統計値や観測値を表示するシステムは,すでに広く実用化しているが,最近では行政区域,街区など任意の区域単位に,所要のデータを打ち出し,また着色コピーとして取り出すことなども容易になってきた。さらに円グラフ,棒グラフなどのグラフを所要の位置に記入する統計地図もコンピューターと図形表示器(グラフィック・ディスプレー)によって容易に作成されるようになってきている。地図に関する自動化は,作図だけでなく,読図の分野でも広く行われ,たとえば色分けされた土地利用図から色別(土地利用別)のデータを読み取り,任意の区域(たとえば市区町村ごと)の土地利用の構成比なども容易に計算できるようになっている。これらの磁気テープやフロッピーディスクなどに格納された情報は,すでに国土数値情報その他の名称で公開されつつあり,近い将来には,かなり広い分野で利用されるようになるであろう。
一方また地球探査衛星ランドサットなどの人工衛星からの情報も広く利用されつつある。人工衛星からの情報は,すでに気象衛星〈ひまわり〉などの映像が茶の間でもなじみになっているが,ランドサットは,地表から915km(4,5号は705km)の高度で,18日(16日)の周期で地球を回り,多数の波長帯で地表を観察しながらその情報を地表に送り届けてくる。この多数の波長帯別の情報を合成することにより,地形,地質,植生とその活性度,熱分布,海洋や大気の汚染度,土地利用などの情報が得られる。このように遠くから地球を観測する手法をリモートセンシングと呼び,現在ではアメリカのランドサット4号および5号が主役であるが,フランス,日本などの地球観測衛星の計画も進んでおり,すでに多くの地図ないし地図に類する画像が人工衛星の情報から作成され始めている。最近の人工衛星からの情報は,地表の辺長30~50mの物体を識別するといわれ,また多数の波長帯ごとの情報は人間の眼では識別できない情報(たとえば植物の活性度とか海水の温度など)も把握しうる。リモートセンシングの手法による土地利用図や植生図などはすでにアメリカ,カナダなどで組織的に作成されており,今後広い分野での発展が期待できる。
地図学ないし地図作成に関する国際組織は,かなり数多い。さきに触れたように,今日,世界の60ヵ国以上が,国の基本図にユニバーサル横メルカトル図法を採用するようになったのは,今日の情報社会において,国際的な地図の統一の必要からである。海図や航空図は,世界を航海し飛行する必要から作られるので,図法,図式などの国際的統一や地図作成区域の分担などが早くから実施されてきている。国際水路局(IHB),国際水路会議などは海図の国際的統一と協力のための組織であり,また国際民間航空機関(ICAO(イカオ))では100万分の1国際航空図を刊行している。日本では海上保安庁水路部がこれらの組織の一員として活躍している。また陸海の地図に関する国際的な基準点の統一や地図作成のための協力などの組織としては,国際連合の組織として,たとえばアジア太平洋地域地図会議などの組織があり,基準点から地図印刷までの広い範囲にわたり,また経済技術協力から新技術の採用などの問題も含んで,3年に1度会議をもち,いくつかの勧告などを議決している。日本では外務省が窓口となり,国土地理院はじめ地図に関連する政府機関がこの会議に出席する。
また,学術的な地図学研究の国際組織としては,1959年に発足した国際地図学協会(ICA)があり,現在では世界の60ヵ国以上がこれに加盟し,2年ごとに研究大会,研究委員会をもち,4年ごとに会の運営方針や理事などを決める総会をもっている。ICAに対しては,日本は,日本学術会議地図学研究連絡委員会が窓口となり,日本国際地図学会がその母体学会となって創立当初からのメンバー国として活躍している。
執筆者:高崎 正義
地図は人類文化の原初的段階から人々の脳裏に存在していたと考えられる。自己の生活圏内の状況を図形として記憶しておくことは,生存に不可欠の条件だったからである。大航海時代にヨーロッパ人の求めに応じてエスキモーが描いたハドソン湾岸の地図や,江戸時代後期に幕府の蝦夷地調査隊員が写し取ってきた現地人の即席地図に迫真性があるように,無文字社会の人々の地図化能力が想像以上に高い水準を示すことも,人類に永い脳裏地図の時代があったことを物語るであろう。しかしそれは既知空間の地図化に関してであり,広大な未知空間を含む世界地図の誕生には,その前提となる,かなりの具体性をもつ世界観が必要であり,それを構想できるまでに文化水準が向上するのをまたなければならなかった。したがって同じく地図とはいっても,既知空間の地図化と世界の図形化とでは,おのずから次元を異にする議論であることを知らねばならない。
現存する初期の地図としては,前3000年ころのものとされているカフカスのマイコープ古墳出土の銀製壺に彫られた狩猟地の図,前10世紀ころの北イタリア青銅器時代の氷食岩に彫られた集落図,前3000年代後期のメソポタミアの粘土板ニップール市街図,前1320年ころのパピルスに描かれたエジプト金山の図,前500年ころのバビロニアの粘土板世界図などが知られている。
平たい大地の上にドーム状の天が覆いかぶさっているとしたバビロニア人の宇宙観は,古代ギリシア人にも受け継がれ,彼らの描く世界図は環状のオケアノス(大洋)が全陸地を取り囲んでいるさまを示していた。前500年ころミレトスの僭主アリスタゴラスは,アジア進攻を説くためスパルタに赴いた際,銅板世界図を携えて行ったと,ヘロドトスはその《歴史》に書いている。年代,場所から見て,同じ土地の学者ヘカタイオスの作品であった可能性が大きい。
大地球体説の最初の提唱者は前6世紀のピタゴラスで,彼は神の創造物である大地は幾何学的に完全な形,すなわち球であらねばならないと考えた。この説は,その2世紀後アリストテレスが月食の際の大地の陰影などをもって証拠立ててから,しだいに信奉されるようになった。地図の作成においても球面座標が必要となり,天球図を描くのに使われていた投影法を借用することになった。地図に経緯線を記入した最初の人はアレクサンドリアのエラトステネス(前3世紀)とされており,著名な地点のみを通る直線の経緯線が不等間隔に引かれていたという。地図学の水準を今日と大差ないまでに引き上げたのは,後2世紀のアレクサンドリアの天文学者プトレマイオスで,正距円錐図法とプトレマイオス第2図法を考案し,約8000地点に及ぶ世界各地の経緯度数値を資料として世界図を描いた。図形の特徴としては,東方に延びるアフリカがアジア東南部と接続していること,インド半島がなく,赤道にまたがる大きな島タプロバネ(セイロン島)があることなどである。この時代アレクサンドリアはローマ帝国の領土の一部ではあったが,依然としてギリシア語,ギリシア科学が行われていたのである。したがってプトレマイオス地図学がローマ人社会に正しく受け入れられたか否かはあやしい。むしろそれは,やがて勃興したイスラム世界に引き継がれ開花することになる。
ギリシア科学を吸収することに熱心であったイスラム世界の指導者たちの奨励によって,プトレマイオス地図学も9世紀には翻訳の段階を経て,しだいに新たな経緯度観測値を加えている。バグダードで活躍した数学者・天文学者フワーリズミーの経緯度集《大地の形態》(830ころ)によると,アフリカとアジア東南部との連続否定をはじめ,プトレマイオス数値の修正がなされている。イスラム地図学の完成期を代表する学者は,シチリアのノルマン宮廷に仕えていたイドリーシーで,その世界図はカスピ海,アラビア半島の形状においてプトレマイオスをはるかに凌いでいる。しかしなぜかインド半島の欠如は修正されていない。一般にイスラム世界での地図は南を上にして描かれるが,これは四方のうち南を正面と考えることに起因するのであろう。1267年にはイスラム世界の天地両球儀が元代の中国に伝来しているが,中世イスラム世界の地球儀はまだ発見されていないので,球面上に7対3の割合で緑色の海洋と白色の陸地とが示されていたとする《元史》天文志の記事は貴重である。
さて再びローマ時代に戻ると,ローマ社会では実用主義的傾向が強く,地図も経緯度観測を行わない道路図に人気があったらしく,前20年に作られた将軍アグリッパによるローマ帝国全図も道路網に重点を置いたものであったといわれる。こうした系譜につながる地図として知られるのが,500年ころの作品と推定される〈ポイティンゲル図Tabula Peutingeriana〉で,旧蔵者の名をとって呼ばれるこの道路図は,イベリアからインドまでを30cm+700cmという横長の紙面に収めている。
中世キリスト教世界では,地球全体への関心が低く,同時代のイスラム世界の地図が経緯度に基づいて描かれたのとは対照的である。現存する世界図は円の内部をT字形に区分する模式的な〈TO図〉か,神話や聖書の絵解きを主眼とする〈車輪地図〉であり,いずれもキリスト教の東方崇拝を反映して,東を上にして描かれている。しかし小地域図には宗教的色彩はなく,実用性は十分に考慮されている。
歴史時代を通じて海図は陸図に比して精度が高いが,13世紀ころから地中海の船乗りたちの間でポルトラノportolanoと呼ばれる海図が用いられ,大航海時代にも及んだ。方位線網が図面を覆っているのが特色で,羅針盤の登場がこの海図の誕生を促したといわれる。投影法不在のポルトラノが4世紀以上もの生命を保ったのは,距離と方角だけで描けるという作図の簡便さと等角航路が直線で求められるという利点があったからである。
13世紀後半になるとキリスト教世界でもプトレマイオス系のイスラム地図学に注目する者が現れ,コンスタンティノープル陥落(1453)後は,ギリシア語のプトレマイオス地理書が直接イタリアへ持ち込まれて,イタリアにおいてはプトレマイオス地図学が復興した。地図学のルネサンスである。以後プトレマイオス地図帳に含まれていなかった地域の図を追加してゆくことが先決の問題で,追加図は〈現代図〉または〈新図〉と呼ばれた。投影法にしてもプトレマイオス使用のものから容易に脱却できず,大航海で知られるようになった地球の裏側をも同時に描示する適当な投影法が出現するのは16世紀後半のことである。すなわち1569年刊のメルカトル世界図は,世界の各部分を見やすい形で示す正角円筒図法(メルカトル図法)によって描かれ,また等角航路が直線で表れるという画期的なものであった。ここにおいて陸図としてのプトレマイオス図と海図としてのポルトラノが融合を見たのである。しかし作図法の単純でないメルカトル図法は,すぐさま海図に用いられることはなく,この図法による海図集が初めて刊行されたのは17世紀半ばであった(ダッドゥリ《海の神秘》)。メルカトルを生んだフランドル地方は,16世紀半ばから17世紀半ばに至る間,地図学の中心として多くのすぐれた地図作成者を輩出させた。なかでもメルカトルと同時代のオルテリウスは1570年世界の各地域をほぼ均等に扱った斬新な内容の地図帳《世界の舞台》を刊行し,以後約1世紀にわたる〈地図帳時代〉の幕を開けた。
17世紀後半になると,地図学の中心はパリに移り,王室地理学者サンソンN.Sansonは1658年均整のとれた正弦正積図法(サンソン図法)を駆使した地図帳を刊行した。1669年パリ天文台長としてイタリアから招かれた天文学者G.D.カッシニとその子孫の測地学・地図学への貢献は大きく,1793年に完成した8万6400分の1フランス全域図(全182葉)は,三角測量による精密な地形図で,その後の先進諸国の官製地図に大きな影響を及ぼし,現在に続く〈大縮尺図時代〉を到来させることとなった。
アジアにおいて早くまとまりのある世界像を構想したのはインド人で,バラモン教の説くところによれば,世界の中央にジャンブトゥビーパ(贍部洲(せんぶしゆう))と呼ばれる円形の大陸があり,その中心にそびえる巨大なメール山は,その上空を回る太陽の光を遮って地上に昼夜をつくり,この山の南北にはそれぞれ3条の東西方向の山脈があって,最南の山脈がヒマラヤ(雪の蔵)だとされている。インド(バーラタバルシャ)は当然ヒマラヤ山脈の南方ということになるが,南に弧をもつ弦月形の部分をインドとするのは,デカン半島の輪郭を知っていたからであろう。仏教の世界像(〈宇宙〉の項目の〈仏教の宇宙観〉参照)は,こうした構想を基盤として成立したが,インドのある贍部洲を世界の中心のメール山(須弥山(しゆみせん))のはるか南方の大海中に置く点で,バラモン教とは大きく異なる。大海中にはほかに3大陸があるとするが,バラモン教の円形大陸を四分して須弥山の四方に配したものといえよう。仏教の贍部洲の形は逆三角形に近いものであるが,これもデカン半島から着想されたものにちがいない。インドばかりでなく,仏教を受容した国々ではヨーロッパの世界図に接する以前,こうした世界像に基づく地図がほぼ唯一の世界図であった。
一方,黄河文明を生み出した漢民族においては,中央(中華)と周辺(四海)とを区分する程度で,具体的な世界像を構想することには熱心でなかった。しかし地図は行政・軍事に必要なものとして早くから作られていた。漢字の図の旧字〈図〉は田舎を意味する〈鄙〉の字画構成からも連想されるように,本来,農耕地の図を意味した。戸籍を意味する〈版〉と組み合わされている〈版図〉という語も《周礼》にみえ,村落の戸口とその疆域を示すものであった。現存する初期の地図としては,近年出土した前4世紀の中山王墓の青銅版の〈兆窆(ちようへん)図〉および前2世紀の馬王堆漢墓から出土したいわゆる《西漢初期長沙侯国南部地図》(絹布)があり,前者は陵墓の平面設計図,後者は山川を模式的ながら平面的にとらえた河川流路の正確な地図である。中国全図としては,1121年(宣和3)刻石の《皇朝九域守令図》(四川省博物館),1136年(劉予政権の阜昌7年,南宋の紹興6年)刻石の《禹跡図》《華夷図》(西安碑林),1142年刻石の《禹迹図》(鎮江博物館)が現存する初期のもので,両禹跡(迹)図には一目を100里とする方格が記入されている。大地を平面と考えていた漢民族は,球面座標,すなわち経緯線の代りに単なる東西・南北の直線を図面に記入して図形のゆがみを防いだ。3世紀すでに裴秀(はいしゆう)は測量・製図の基本的事項として分率(縮尺),準望(遠方の高所を望んだときの方位角),道里(測量距離),高下・方邪・迂直(起伏,屈曲を地図化する方法)の六つを挙げている(《晋書》裴秀伝)。彼は理論ばかりでなく,実際に《禹貢地域図》およびその縮小図《方丈図》を作っているが,後者の縮尺は〈一寸百里〉(180万分の1)であったという。上記の両禹跡図から見て,一目が1寸の方格を備えていたことは疑いない。元代の朱思本(しゆしほん)の《輿地図(よちず)》(1320),それを分割増補して地図帳とした明の羅洪先(らこうせん)の《広輿図》(1561年と66年の二つの序がある)にも方格法は正しく受け継がれている。
元代にはイスラムの大地球体説や地球儀や世界地図が伝来し,ヨーロッパやアフリカが地図上に登場することになったが,それらは在来の中国全図の西方に小さく描かれるにすぎなかった。実例としてはやや後の作品であるが,《大明混一図》(北京故宮蔵),《混一疆理歴代国都之図》(竜谷大学蔵)を挙げることができる。イスラム地図学の影響は漢人社会には強く及ばず,上述の朱思本の地図も伝統的手法に終始している。
ほんとうの意味で東西両洋の地図学が交流を見せるのは16世紀後半以降であり,ポルトガルの史家J.deバロスの手もとには1552年以前に地図を載せる便覧的な中国地誌が,60年ころには中国全図がもたらされている。ヨーロッパ地図学の中国社会への紹介は,82年に中国に来たマテオ・リッチ(利瑪竇(りまとう))により先鞭がつけられたが,彼はたびたび漢字表記の地球儀や世界地図を作った。砂漠を散点記号で地図上に表現することは,リッチが中国での流儀をまねてからヨーロッパに広まったものである。ヨーロッパの地球説や世界地図に対して一部の知識人は好意的な反応を示したが,大勢としては無関心であり,その地理知識を地図上に採用する場合にも,中国の周囲に小さく世界の諸大陸を描くという程度であった。ヨーロッパ式の中国全域図が初めて作られたのは清朝の康煕(こうき)帝のときで,イエズス会士の指導により1718年(康煕57)に完成した《皇輿全覧図》(または《康煕内府図》)と呼ばれる図がそれである。北京を経度0°とし,梯形図法で描かれている。ヨーロッパにおける中国図の内容を一新したJ.B.B.ダンビルの地図(1735)は,これを翻訳したものにすぎない。
ヨーロッパとの接触以前における地図学の状況は〈絵図〉の項で触れたので,ここではそれ以後について述べる。1549年(天文18)に来日したフランシスコ・ザビエルが大地球体説をはじめとするヨーロッパの天文・地理知識を伝えたことは彼の書簡によって知られるが,地球儀や世界図をもたらしたか否かは明らかでない。いずれにせよ,80年(天正8)には織田信長の手もとに地球儀が,その翌81年には世界地図があったことだけは確かである。現存する初期のヨーロッパ系世界図は,図中に文禄の役(1592)により初めて知られるようになった朝鮮東北方の地名〈オランカイ〉を記入しているので,これ以後の作品であることは明白である。キリシタン時代の世界図(南蛮系)のほとんどは屛風に仕立てられていて,しかも華麗に彩られているので,それらが地理的情報源であるよりは室内の装飾的調度品であったことは想像に難くない。実用品として珍重された地図は,当時〈カルタ〉と呼ばれたポルトラノであり,東南アジア貿易に従事する船舶にとっては必備の品であったであろう。西洋人から譲り受けたインド洋以東のポルトラノを改訂しながら関係のない部分を除いて,最終的にはマレー,ジャワ以東の図に落ち着く過程が現存資料の比較から浮かび上がってくる。〈カルタ〉にまつわる一連の技術は鎖国時代においても測量家の間で継承されており,測量術習得の証明として南洋,日本両〈カルタ〉が使われているほどであり,その風習は幕末に及んでいる。要するに日本に定着した洋式測量術は,ポルトガル人から教わった南蛮流航海術に端を発するものといえよう。
キリシタン時代の日本図は,その大部分が世界図(屛風)と対(つい)になっていて,当時いかに世界の中の日本という意識が強かったかを示している。その図形は単調だった行基図の海岸線を詳細にした程度であるが,九州の輪郭はかなり現実的であり,ヨーロッパ側の資料が参照された可能性もある。
キリシタン時代の世界図には,ヨーロッパ製地図を直接の資料とした〈南蛮系〉のほかに,地名をすべて漢字表記にし,太平洋を図の中央に置くマテオ・リッチ図の系統がある。1605年(慶長10)すでに京都のアカデミアにはリッチ図が届いている。日本最初の刊行世界図は,図形をリッチ図に,地名を直接ヨーロッパ製地図に仰いだ作者不詳の《万国総図》(1645)であり,長崎で刊行されている。リッチ系世界図は18世紀以降地名をかな書きとして刊行され,民衆の世界像を古めかしいものに固定することとなった。同じ時期オランダ舶載の地球儀や地図の翻訳も始まり,1737年(元文2)ころ長崎の天文学者北島見信と通詞西善三郎とが協力してファルク作地球儀から展開した世界図(大阪府立中之島図書館蔵)を作っている。刊行された初期の蘭学系世界図としては,1792年(寛政4)の司馬江漢の作品(銅版),96年の橋本宗吉の作品(木版)がよく知られている。蘭学系世界図の大きな特色は,東西両半球をそれぞれ円形として描く点であった。これらの中で1810年(文化7)に一応の完成を見,16年に銅版印刷に付された官版の《新訂万国全図》は,翻訳の域を脱した独自性あふれる作品である。幕命により高橋景保(かげやす)らの浅草天文台職員が事に当たったもので,東西両半球の名称・配置を西洋流とは逆にして日本がほぼ中央にくるようにし,京都中心の半球図を副図として掲げるなど苦心の跡が見られる。用いられる投影法は蘭学系世界図に用例の多い平射図法であるが,参考資料として重きをなしたという《アロースミス図》はメルカトル図法によるものであった。1846年(弘化3)永井青崖(せいがい)の《銅版万国輿地方図》が刊行されてからは,しだいにメルカトル図法の世界図が増加している。
さて行政用の国土の基本図の作成は豊臣政権のとき1回(1591発令),徳川時代には4回実施されている。これらの事業は主として国家財政の基盤をなす土地生産力の調査の一環であるところに特色がある。1591年(天正19)の際は郡単位,江戸時代の場合はすべて国単位で地図が作られている。江戸幕府によるその第1回は1605年(慶長10),第2回は1644年(正保1),第3回は1697年(元禄10),第4回は1835年(天保6)にそれぞれ命令が発せられている。第1回については詳細が不明であるが,第2回以降は〈六寸一里〉(2万1600分の1)の縮尺,朱線による道路の表現をはじめとする各種規格の統一がなされている。第2回の際には藩庁所在地の図〈城絵図〉や東海道に沿う城郭の立体模型をも同時に作らせている。こうした国土の基本図(国絵図)を資料とする日本全図の編集も第4回を除いて行われていて,それらが民間の地図に与えた影響は大きい。というよりはいつの時代でも広域の地図の源流は官撰図にあったのである。1666年(寛文6)刊の《日本分形図》や87年(貞享4)版に始まる浮世絵師石川流宣(とものぶ)の作品(流宣(りゆうせん)図)は,慶長日本総図を資料とするもので,関祖衡(せきそこう)の《日本分域指掌図》(1698)や長久保赤水の作品(1779)は,正保日本総図に基づいたものである。数多く刊行された海陸道中図,町図のたぐいにしても,幕府撰の精細な図がもとになっていることはいうまでもない。印刷術の進歩と庶民の知識欲の向上に支えられて,江戸時代はまさに空前の地図大衆化時代であった。伝統的な地図学では球面座標が考慮されることはなかったが,19世紀に入るに及んでようやく経緯度測定に基づく国土全図が誕生するにいたった。世に〈伊能図〉と称されるものがそれである。1800年(寛政12)に始まる伊能忠敬の全国海岸線の測量成果は,高橋景保を責任者とする天文台職員の手によって地図化され,忠敬没後の21年(文政4)縮尺を異にする大図(3万6000分の1,全214枚),中図(21万6000分の1,全8枚),小図(43万2000分の1,全3枚)の3種から成る《大日本沿海輿地全図》として実を結んだ。日本の海岸線を正確にとらえるのが目的であり,測量コースの沿道を除いて陸地内部は空白のまま残されている。明治初期の国土の基本図作成に貢献した精度の高い図ではあったが,三角測量によるものではなく,東洋古来の北極出地(緯度)の測定および交会法(準望),道線法(距離と方角)を丹念に実施した結果にほかならない。ただし,当時における理念,技術,儀器の進歩が誤差を最小限に食い止めるのにあずかって力があった。
執筆者:海野 一隆 明治政府は新しい制度を組織して,国の基本図の整備に着手したが,明治20年ころまでは制度や業務の移動,変遷が激しかった。
1869年(明治2)には民部省に戸籍地図掛が設けられたが,この組織は,その翌年7月民部省内に新設された地理司に移された。地理司では測量,図籍,戸籍の各掛が置かれ,地籍図の作成,地誌の調査とその編集に当たった。しかし71年には民部省は廃止となり,この業務は大蔵省租税寮地理課へ移管され,さらに74年に発足した内務省に設けられた地理寮に引き継がれた。地理寮(1877年地理局となる)には,その後工部省の測量司も移管されて,以後91年に廃止されるまで地籍図や地形図の作成,地誌の調査と編集などでかなりの成果をあげた。1871年工部省に置かれた測量司では,C.A.マクウェンをはじめ10人のイギリス人技術者を招へいして,東京府下の三角測量,大縮尺図作成などを実施した。74年に測量司を併合した地理寮では,関八州大三角測量(1875開始),それに伴う那須西原基線および経緯度測量,日本最初の精密水準測量である東京~塩釜間の水準測量(1876-77),ドイツ式の図式に基づく大縮尺図用の《測絵図譜》の刊行(1878)などの成果をあげた。また,地理寮内の土石課,山林課では地質調査や土性調査が行われていたが,78年には地質課が設けられ,この組織は80年には勧農局へ,さらに農商務省に引き継がれ,82年には地質調査所へと発展し,地質図,土性図,その基図となる地形図を作成・刊行するなど,今日の工業技術院地質調査所の基礎がつくられた。
一方,1871年兵部省に陸軍参謀局が置かれ,地図政誌の編集ならびに間諜隊による地理測量探偵が行われた。78年参謀局は参謀本部となり,その中の地図・測量部門は89年には陸地測量部へと発展した。この間,フランス陸軍大尉ジョルダンらの指導による図式《地図彩式》の刊行(1872)をはじめ,行軍測絵図や里程図などを刊行し,また伊能図の模写も行っている。この陸軍における測量,地図作成事業は西南戦争を経て,その重要性が認識され,いっそう組織的に発展し,78-79年には伊能中図を基図に天保国絵図,土木局や各府県などの地図を参照して軍管図が作成された。軍管図は京都を経緯度起点とし,フランス式の表現がとられ,後の〈輯製20万分の1図〉の先駆をなすものであった。さらに陸地測量部では80年から2万分の1迅速測図作成の全国測量事業を開始し,東京周辺より着手した。しかし,図解図根測量法による欠陥のため,全国を覆うことはできず,関東852面,近畿94面の作成にとどまった。全国を覆う基本図の作成には,まず全国の基準点の整備が必要であり,このため当時進行中であった内務省地理局の大三角測量の下に,全国の三角測量を行うこととし,82年に全国測量計画のための基線を初めて相模野に置いた。さらに84年には,内務省地理局測量課の大三角測量事業をはじめ,人材,資材すべての移管を受けて測量局を組織し,これ以降統一的な全国の基本図作成事業は陸軍の傘下で行われることになった。一方,地理局は,その後観象編暦事務,地誌編纂および地図調製を文部省に移管し,気象業務を中央気象台として独立させて,91年8月には廃止となった。
陸地測量部における全国の基本図作成事業は,初代部長小菅知淵の指導の下で,当初全国を2万分の1地形図で,また要塞地域や都市地域を5000分の1ないし1万分の1地形図で覆う方針で開始されたが,経費や所要年月の関係から,1890年,基本図の縮尺を5万分の1と改め,95年ころから本格的に事業を進め,1924年に全国約37万7000km2の測量を完了している。この間2万5000分の1地形図(1910年ころ開始),1万分の1地形図(1892年ころ開始)などの測量も,一部主要地域について作成されたが,あまり進展することなく,陸地測量部の事業は外地の5万分の1測量などに重点が置かれた。ちなみに,1945年陸地測量部が解体し,その事業が内務省地理調査所(後に建設省国土地理院)に引き継がれるまでに,陸地測量部が作成した5万分の1地形図の測量範囲は,台湾,朝鮮半島,樺太(サハリン)などを含み,約67万3000km2に及んでいる。
このように,第2次世界大戦前の測量,地図作成事業はもっぱら陸軍の手によって進められ,他の官公庁や民間,大学などでは測量,地図に関する組織は育たず,地図学,測地学の研究,またこれに関する研究者や技術者の養成も,すべて陸地測量部が行ってきたというべきであろう。
なお海図に関しては,幕末より外国軍艦が水路測量を行っており,1871年兵部省に水路局が設置され,本格的に測量が始められ,86年には海軍水路部として独立官庁となり,今日の基礎をつくった。また北海道においては,1869年開拓使が置かれ,勇払基線の測量や河川,沿海部,開拓のための農地の測量などが行われ,各種の地図が作成されている。
→地形図
執筆者:高崎 正義
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…19世紀(明治前期)以前の日本での普通の地図に対する呼称。そもそもは条里制施行時代,農地の状態を表した図に〈田図〉〈文図〉があったが,条里名称などを注記した方格のみの〈田図〉を〈白図〉と呼び,方格のほか山川,湖海,道路,家屋など地形・地物を記入した〈田図〉を,〈白図〉と区別して〈絵図〉と呼んだようである。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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