日本歴史地名大系 「東川」の解説
東川
ひがしがわ
香美郡東南半一帯を荘域とした
永仁二年(一二九四)二月一〇日付の専当新左衛門尉等起請文(同文書)に「東川四所之宮」、文保二年(一三一八)二月一〇日の大忍庄政所下知状(同文書)に「大忍庄東川分年貢銭相積之間」とみえ、鎌倉時代後期には大忍庄内で東川の呼称が用いられていたことが知られる。この東川には、前記永仁二年の起請文や文和四年(一三五五)三月一一日付東川村田地斗代減免状案(同文書)に「東川村専当百姓等中」とみえることにうかがわれるが、大忍庄在地支配の末端をになう荘官の専当が置かれていた。永和五年(一三七九)二月二五日の沙弥道本国弘名譲状案(同文書)には「譲与大里庄東川専当職国弘名事」とみえ、東川一帯の専当職を国弘名の名主藤兵衛入道道本がもっており、買得した田畠・山林・荒野を女姫犬に譲っている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報