リバプール(読み)りばぷーる(英語表記)Liverpool

翻訳|Liverpool

日本大百科全書(ニッポニカ) 「リバプール」の意味・わかりやすい解説

リバプール(イギリス)
りばぷーる
Liverpool

イギリス、イングランド北西部、マージーサイド大都市県の県都で、港湾・工業都市。マージー川河口部右岸に発達する。人口43万9476(2001)。石油類を除く貨物取扱量ではロンドン港に次ぐ港をもち、海運業が最大の雇用源である。また、電気機器、精密機械ジェットエンジンなどの近代工業が発達する。対岸のバーケンヘッドとは2本の河底道路トンネルと1本の鉄道トンネルで結ばれ、マージーサイド工業地域を形成している。13世紀以来港湾都市として発達し、17、18世紀にはアメリカ大陸との貿易で栄え、人口は19世紀に急増、20世紀初頭に80万人を超えた。しかし、第二次世界大戦後は海運業の斜陽化が進み、市当局も工業団地建設などの不況対策を講じたが、人口は減少を続けており、1980年代には政府が旧市街地の再開発をはじめとする諸施策を打ち出した。市街地は河口部から約5キロメートル上流部の中心業務地区を取り巻いて半円状に広がり、河岸に港湾施設や工場などが並ぶ。市内には1754年建設の市庁舎をはじめ、19世紀当時の各種公共建築物、20世紀のイギリス国教会およびカトリックの大聖堂等々、建築史上重要な建物が残る。また、海洋科学、熱帯医学研究で知られるリバプール大学、各種の公共・私立図書館、美術館、博物館などの文化施設も多い。

[井内 昇]

歴史

町の名が初めて史料に現れるのは12世紀のことで、ジョン王のもとで特権都市となった(1207)。その後アイルランドに出兵するための基地(港)として発展し、ヘンリー3世によって商人ギルドの結成を認められた。しかし14世紀の中葉にはペストで大きな被害を受け、その後の成長はかならずしも目覚ましいものではなかった。17世紀のピューリタン革命では議会派の拠点として王党派ルパートによる攻囲を受けたが、世紀後半に入ると、近郊ランカシャー南部の産業発展と大西洋貿易の拡大を背景に成長を開始した。18世紀初頭には港湾の整備が行われ、同じころに西アフリカと北アメリカとを結ぶ奴隷貿易に参加し、その中継港となったことがリバプールの大発展のもととなり、19世紀の初頭にはリバプールの船が1年に5万人もの奴隷を運んでいた。奴隷貿易の廃止(1807)後もアメリカ貿易は発展を続け、蒸気船時代に入ってからも繁栄を維持した。産業革命の一大中心地マンチェスターが後背地として存在し、マンチェスターとの間は運河や鉄道で結ばれていた。リバプール・マンチェスター鉄道は1830年に開通し、世界最初の本格的な鉄道であった。人口は1830年代初頭で20万を超え、都市問題が生じつつあったが、1835年の都市自治体法で市政の改革が行われたのち、公衆衛生などの面でも改善が進んだ。1888年、特別市となった。19世紀の政治家グラッドストーンの生誕地。

[青木 康]

世界遺産の登録

2004年、ユネスコ国連教育科学文化機関)により「リバプール:海商都市」として世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)に登録された。しかし都市再開発計画の懸念により、2012年に危機遺産リスト入りし、2021年には登録が抹消された。

[編集部 2022年1月21日]


リバプール(プロサッカークラブ)
りばぷーる
Liverpool FC

イングランドのプロサッカークラブ。ホームスタジアムはリバプールのアンフィールド(収容人員4万5400)。1892年創設。イングランドリーグ、プレミアリーグ優勝18回。また、UEFAチャンピオンズ・リーグ優勝5回はイングランドでは最多である(2010年現在)。1960年代に監督ビル・シャンクリーBill Shankly(1913―1981)の下で、強豪チームへの道を歩み始める。ケビン・キーガンKevin Keegan(1951― )、ケニー・ダルグリッシュKenny Dalglish(1951― )、イアン・ラッシュIan Rush(1961― )といったスタープレーヤーを次々に輩出し、攻撃的なスタイルでヨーロッパの名門クラブにのし上がっていった。五度目のヨーロッパチャンピオンをねらった1985年のヨーロッパ・チャンピオンズ・カップ(現、UEFAチャンピオンズ・リーグ)決勝では、フーリガンが対戦相手ユベントス(イタリア)のサポーターと衝突し、多数の死者まで出した「ヘイゼルの悲劇」を起こしてしまった。このため、イングランドのクラブは国際試合への出場を一時禁じられることになった。1990年代に入ると、マンチェスター・ユナイテッド、アーセナルの台頭によって、イングランド・ナンバーワンの座を追われたが、2000年にフランス人の監督ジェラール・ウリエGérard Houllier(1947―2020)が就任すると、FAカップ、リーグカップ、UEFAカップに優勝。プレミアリーグの優勝こそ逃したが、カップ戦にすべて勝つ快挙を成し遂げた。

[西部謙司]

その後の動き

2004~2005年シーズンでは、スティーブン・ジェラードSteven Gerrard(1980ー )らの活躍でUEFAチャンピオンズ・リーグで優勝し、UEFAチャンピオンズ・カップ・UEFAチャンピオンズ・リーグの合計優勝回数が5回となり、優勝カップの永久保持が認められた。2006年はFAカップで優勝している。

[編集部]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リバプール」の意味・わかりやすい解説

リバプール
Liverpool

イギリスイングランド中北部西寄り,歴史的なランカシャー地方の一部をなすマージーサイド大都市カウンティ metropolitan county(あるいは都市州)の中心都市。ロンドンの北西約 300km,アイリッシュ海から数km湾奥のマージー川河口北岸に位置する。1207年イングランド王ジョンより勅許状が与えられ,沿岸部やアイルランドと交易を行なうようになったが,中世までは小さな港町にすぎなかった。18世紀に入り,アメリカ大陸や西インド諸島との貿易が盛んになり,ロンドンに次ぐイギリス第二の港となった。貿易のおもな形態は三角貿易で,後背地のマンチェスターやマージー川流域で生産される綿織物などの製品とアフリカ大陸の奴隷が交換され,さらに奴隷たちは西インド諸島産の砂糖,糖蜜,香辛料などのプランテーション作物と交換された(→奴隷貿易)。港湾の最初のドックは 1715年に完成し,18世紀末までにさらに四つのドックが建造され,総面積でロンドンを上回った。1830年リバプール・アンド・マンチェスター鉄道が開通し,マージー川対岸のウィラルとは蒸気船で結ばれるようになった。経済発展に伴って多くの移民が流入し,特に 1845~49年のアイルランドでのジャガイモ飢饉ではアイルランド人が急増した。20世紀初頭には,北はホーンビー・ドック(1884)から南はヘルクラネウム・ドック(1866)までマージー川沿い約 11kmにわたってドックが点在するようになった。第2次世界大戦後,後背地の在来産業や貿易が衰退し,港湾への設備投資の減少が失業者の増大を招いたが,市民の経済生活を支える都市機能およびその役割は維持した。その後,港湾は一般貨物のほかコンテナ貨物も取り扱うようになり発展,2012年にはクルーズ客船のターミナルとなった。2004年大英帝国の発展を支えた歴史ある海洋商都として,ドック群と歴史的市街地が世界遺産の文化遺産に登録されたが,港湾の再開発により景観などが不可逆的な損失を被ったとして2021年に登録を抹消された。1960年代に世界的なロックグループ,ビートルズを生み出した街としてゆかりの地を訪れる観光開発が注目されている。歴史的建造物として,18世紀の市庁舎,チャールズ・ロバート・コカレル設計の 1854年開館のセント・ジョージズ・ホール,ネオ・ゴシック様式のリバプール大聖堂(1904~78),フレデリック・ギバード設計のモダンなデザインが印象的なカトリックのメトロポリタン大聖堂(1962~67)がある。文化・教育施設としては,テート・リバプール(テート・ギャラリーの分館)のほか,海事博物館や国際奴隷博物館,ウォーカー・アートギャラリーなど七つの施設を包含するリバプール国立博物館,リバプール大学(1881創立)などがある。ロイヤル・リバプール・フィルハーモニー管弦楽団,世界的に有名なプロサッカーチームのエバートンとリバプールFCの本拠地でもある。マージー川対岸のバーケンヘッドとはフェリーのほか,1886年完成の地下鉄道トンネル,1934年運用開始の地下自動車トンネルで結ばれている。面積 112km2,人口 46万6415(2011)。

リバプール(伯)
リバプール[はく]
Liverpool, Robert Banks Jenkinson, 2nd Earl of

[生]1770.6.7. ロンドン
[没]1828.12.4. ロンドン
イギリスの政治家。 C.ジェンキンソンの長男。 1790年下院議員。ピット (小) を支持。議会改革,カトリック教徒解放に反対した。 1801年 H.アディントン内閣の外相。 03年男爵となり上院に移る。 04年第2次ピット内閣で内相をつとめたが,06年 W.グレンビル内閣成立に際して下野。 07年ポートランド内閣成立に貢献し,内相に就任。 08年父の爵位を継いで2代リバプール伯となった。 09年 S.パーシバル内閣の陸軍・植民相。 12年首相。以後健康を害して 27年首相を辞任するまでの 15年間,ナポレオン戦争の終結と戦後のきびしい社会情勢を乗切って,トーリー党内閣を維持した。しかしナポレオン戦争後,軍需産業の転換,動員解除,失業者の激増が原因で,社会的騒乱は一層深刻化するとともに,民衆の急進主義運動が復活したため,19年急進派を押える六法を通過させて弾圧策をとった。また農産物価格の暴落を防ぐため,15年に穀物法を定めたが,26年には穀物法緩和の必要性を認めた。 22年に外相がカスルレー (子)から G.カニングに代って以後,リバプール内閣の性格は自由主義化した。

リバプール(伯)
リバプール[はく]

「ジェンキンソン」のページをご覧ください。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

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