翻訳|New Delhi
インド北部,デリーの南南西に接する中央政府機関所在地。独自の市政管轄区域(43km2)をもつ。人口29万4783(2001)。1911年のカルカッタからデリーへの遷都宣言により,英領インドの新首都として建設が開始され,31年に完成した。大統領(旧総督)官邸,総合庁舎,議事堂からなる壮大な官庁複合体を西におき,そこから3km東のインド門(旧,第1次大戦記念門)に向けて幅350mのラージ・パトゥ(〈王の道〉の意。旧,キングズウェー)通りが走り,同道路を底辺としてその両端から北に向け内角60度の道路を延ばし,その交点に大円形広場コンノート・プレースと,それを取り巻く高級商店街を配している。官庁複合体,インド門,コンノート・プレースを核に道路が放射状に延び,所々に小円形広場を配するという基本構想をもつ。諸道路のまわりには豊かな樹陰に囲まれた高級官僚の官舎などが広がっている。
執筆者:応地 利明
ラージ・パトゥ通りと直交するジャン・パトゥ通り(〈民の道〉の意)に面したニューデリー国立博物館は先史時代以来の各時代,各地域の美術品を網羅的に所蔵している。1階にはインダス文明の遺品から各時代の彫刻,2階には細密画や文書,M.A.スタイン将来の中央アジアや敦煌の遺品(壁画のみは南隣のインド考古調査局にある),3階には貨幣その他を陳列する。国立現代美術館は細密画と19世紀後期以後の絵画,彫刻を展示する。ほかに市内には工芸博物館,ラリト・カラー・アカデミー,チベット・ハウス,ガンディー記念博物館,ネルー記念博物館などがある。
執筆者:肥塚 隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
インド北部、中央政府直轄地区デリーの中央政府官庁が集中する行政区。人口29万4783(2001)。面積は約43平方キロメートルで、周囲をデリー市に取り囲まれている。1911年イギリス植民地インド政府が、首都をカルカッタ(現コルカタ)から遷都し、12年ごろからデリー市の南郊に、ニュー・デリーと名づけた新しい中央政庁地区の建設を始め、30年ごろに現在の形を完成した。市街は放射状道路を基本に、アメリカ合衆国のワシントンをモデルにしたとされ、大統領官邸から東にインド門まで伸びる幅約200メートルのラージ・パート通り(王様の道)と、これに直交して南北に伸びるジャン・パート通り(民衆の道)を中心に、緑と空間を広くとった市街地である。商業中心地のコンノート・プレイス(広場)は、ジャン・パート通りの北端にある。街の成立以来、政治の中心をニュー・デリーが、経済の中心を北隣のデリー市が担っていたが、70年代に入り、経済機能もコンノート・プレイス付近に集まり始め、高層ビルも増えつつある。いまやニュー・デリーとデリーの両市街地は一体となり、61年以来、政府も首都をデリーとよぶことにした。大統領官邸やインド門、さらに国立博物館などが有名で、訪れる観光客も多い。
[中山修一]
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インドの首都であるデリーの一部で,行政の中心地。1911年にイギリス国王ジョージ5世が,カルカッタからデリーへの遷都を宣言したのを受けて,オールドデリーの南方に建設された計画都市。31年に完成。インド独立後も首都デリーのなかの中心部をなし,政治,経済,文化活動の施設が集中している。近年,人口増加に伴って郊外の開発が進み,交通問題や環境問題が深刻化している。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
「デリー連邦直轄地」のページをご覧ください。
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