橋玄(読み)きょうげん

日本大百科全書(ニッポニカ) 「橋玄」の意味・わかりやすい解説

橋玄
きょうげん
(109―183)

中国、後漢(ごかん)の官僚。字(あざな)は公祖(こうそ)。梁(りょう)国睢陽(すいよう)県(河南(かなん)省商丘(しょうきゅう)県)の人。曹騰(そうとう)(曹操(そうそう)の祖父)が高く評した种暠(ちゅうこう)に推挙されて太尉(たいい)に至る。その厳格な政治は、曹操の政治の模範となった。まだ無名の曹操を高く評価し、「君には名声がまだない。許劭(きょしょう)とつきあうとよいであろう」と許劭の人物評価を受けさせ、曹操の名声を全国的なものとした。20歳にも満たない曹操が出会ったころ、橋玄は60歳を過ぎており、三公(さんこう)(後漢の最高行政官)を歴任していた。曹操を引き立てたのは、自分の師である种暠が曹騰の世話になったことへの恩返しである。『三国志演義』では、大喬(だいきょう)、小喬(しょうきょう)の父とされ、喬国老(きょうこくろう)として劉備(りゅうび)と孫権(そんけん)の妹の婚姻を進めるが、すべて虚構である。大喬、小喬が橋玄の娘であれば、赤壁(せきへき)の戦いの際には、すでに50歳を超えており、演義の設定には無理がある。

[渡邉義浩]

『渡邉義浩著『「三国志」武将34選』(PHP文庫)』

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