中国、三国蜀(しょく)の王(在位221~223)。涿(たく)郡(河北省)の人。字(あざな)は玄徳(げんとく)。諡号(しごう)は昭烈帝。前漢景帝の子、中山(ちゅうざん)王劉勝の後と称する。耳が大きく、また手を垂れると膝(ひざ)の下にまで達したという。父に早く死なれ、母と蓆(むしろ)を織って生計をたてていたという。184年、黄巾(こうきん)の乱が起こると、同郷の張飛(ちょうひ)、涿に亡命していた関羽(かんう)らと立ち上がったが、最初は直接支配する領土をもたず、各地の豪族(公孫瓚(さん)、陶謙(とうけん)、曹操(そうそう)、袁紹(えんしょう))などの間を転々とするありさまであった。曹操の下にあったとき、操が「天下の英雄は君と僕」といったとき、おりから雷が鳴り、備は箸(はし)を落としたという逸話がある。
彼が最後に頼ったのは荊(けい)州の劉表であった。劉表の下にあって比較的平穏な生活を送り、髀肉(ひにく)の嘆をかこつ一面、諸葛亮(しょかつりょう)や龐統(ほうとう)といった優れた人材を招くことに成功した。とくに諸葛亮には三顧の礼をもって迎え、「自分に孔明のあるのは、魚の水あるが如(ごと)し」といい、君臣水魚の交わりを結んだ。以後亮は劉備の謀臣として、あるいは外交官として活躍をする。
208年、孫権と同盟して、南下してきた曹操を赤壁(せきへき)の戦いで破り、天下三分の基礎を築いた。戦後荊州を呉と両分し、孫権の妹を皇后に迎えるなど、密接な関係が続いたが、やがて益州(四川(しせん))の領有をめぐって対立していった。備は211年、益州牧劉璋(りゅうしょう)の招きによって蜀の地に入り、成都を攻略して益州を領有した。孫権は曹操と結んで、荊州に残っていた関羽を殺して荊州を占領し、天下は三分された。
219年漢中王となり、221年、後漢(ごかん)滅亡の知らせを得て成都で即位し、国号を漢(蜀漢)と称し、年号を章武と定めた。
彼はまず関羽の仇(あだ)を討とうとして、自ら軍を率いて出陣したが、戦局は不利となり、永安(白帝城)に退き病没した。臨終に際し、「この子(後主劉禅)助ける価値がなければ、君自ら取れ」と遺言したと伝える。陵は成都にあるが、その中に設けられた諸葛亮の武侯祠(し)のほうが有名である。
[狩野直禎]
『狩野直禎著『諸葛孔明』(1966・人物往来社)』▽『宮川尚志著『諸葛孔明』(1978・桃源社)』
中国,三国時代の蜀漢(蜀)の創建者。字は玄徳。満城漢墓で知られる前漢の中山王劉勝の子孫と称するが定かでない。涿(たく)郡涿県(河北省涿県)の地方官の家に生まれ,早く父を失い貧賤の中に育ったが,性任俠で度量ひろく,無頼の若者たちの間で頭角を現した。黄巾(こうきん)の乱が起こると,仲間の関羽,張飛らを中核に部隊を作って官軍に加わり,これを契機に各地の軍閥のもとを転々として地位を高め,徐州牧に推された。やがて曹操の勢力下に入って予州牧を与えられたが,後漢朝廷の曹操暗殺計画に関わって逃亡,河北の袁紹ついで荆州の劉表のもとに身を寄せた。諸葛孔明(亮)や土着豪族を味方につけ,孫権と結んで曹操を赤壁に破り,荆州一円を領有して牧を称した。曹操の漢中進出に対処して蜀に転進し,劉璋から益州牧の地位を奪い,さらに漢中王を称した。曹丕(そうひ)が魏朝を起こすと,221年(蜀漢の章武1)漢の継承者を標榜して漢帝の位につき,諸葛孔明を丞相とした。翌年荆州奪還を目ざして孫権を攻めたが成らず,諸葛亮に後事を託して白帝城に病没した。諡(おくりな)を昭烈皇帝という。今日の成都武侯祠近傍の恵陵(高さ12m)がその墓所と伝えられる。なお小説の《三国演義》では曹操を悪玉とし,劉備を善玉として大衆の共感を呼んでいる。
執筆者:谷川 道雄
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161~223(在位221~223)
三国の蜀漢(しょくかん)の建国者。諡は昭烈帝,字は玄徳。涿(たく)(河北省涿州市)の人。漢の後裔と称する。黄巾(こうきん)の賊を討って勢力を得,荊州(けいしゅう)で諸葛亮(しょかつりょう)を得て参謀とした。孫権(そんけん)と同盟して曹操(そうそう)を赤壁の戦いで破り(208年),蜀を平定して魏,呉とともに天下を3分した。221年後漢を継ぐと称して成都で帝位につき,漢と号した。呉に奪われた荊州回復の陣中で没した。
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… 曹操は献帝を擁して鄴(ぎよう)に移り,華北東部を制覇した。やがて長江中流域への進出を企てたが,劉備と孫権に阻止された。黄巾の乱討伐に功名を挙げた劉備は群雄の間を転々としたのち,荆州牧劉表に帰属した。…
…琅邪(ろうや)陽都(山東省沂水(ぎすい)県)の出身であるが,早く父を失い,叔父に従って湖北省襄陽に割拠していた荆州長官の劉表のもとに寄寓し,晴耕雨読の生活を送ったが,その地の社交界では〈臥竜〉との評判を得ていた。たまたま劉表を頼って荆州に来た劉備は,その評判を聞くと,207年(建安12)に孔明の庵を訪れ,3度目にやっと会見できた。いわゆる〈三顧の礼〉にこたえた孔明は,劉備のために〈天下三分の計〉を説き,華北を制圧した曹操に対抗して漢室を復興するためには,江南に割拠する孫権と連合し,みずから荆州と益州(四川省)を確保して独立すべきことを勧めた。…
…正式の国号は漢であるが,蜀すなわち四川省を中心版図とするので,普通に蜀漢とよんで他の漢国と区別する。前漢景帝の末裔と自称する涿郡(たくぐん)(河北省)出身の劉備は,後漢末黄巾の乱につづく群雄割拠の中で各地に転戦したのち,三顧の礼をもって諸葛孔明(しよかつこうめい)を幕下に迎え,その献策に従って208年(建安13),呉の孫権と同盟し,南下する曹操を赤壁に破って荆州(湖北,湖南)を確保し(赤壁の戦),天下三分の計の実現に着手する。やがて益州(四川省)に入った劉備は,その地の長官劉璋を追い,成都を占領して独立態勢を整えた。…
…明代になって范陽県の名を廃して涿州といい,中華民国以後は涿県として省に直属し今日に及んでいる。南西郊外の楼桑村(ろうそうそん)は蜀漢の劉備の生地と伝えられ,東の北台邨は宋の太祖の祖先の地といわれる。【日比野 丈夫】。…
…王莽(おうもう)のとき,この地の井戸から白竜の出るのを見,公孫述(?‐36)が漢の土徳をつぐと称して白帝を名のり,城を築いたのが始まりという。三国蜀の劉備は,呉を討つためみずから遠征したが,敗れて白帝城に退き名を永安と改め,この地で没した。近くに孔明八陣図の跡もある。…
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