赤壁の戦い
せきへきのたたかい
中国、後漢(ごかん)末期の208年、曹操(そうそう)と、孫権・劉備(りゅうび)の連合軍とが湖北省嘉魚(かぎょ)県の西にあたる赤壁で行った戦い。袁紹(えんしょう)を討って華北の平定に成功した曹操は、208年丞相(じょうしょう)となり、南下して劉表の領土になっていた荊州(けいしゅう)を攻めた。劉表の子は曹操に降(くだ)り、表の客分であった劉備は、いったん南に逃れたが、諸葛亮(しょかつりょう)(孔明)の活躍で孫権との同盟に成功した。孫権の部下のなかには曹操に降伏しようと説く者もあったが、周瑜(しゅうゆ)、魯肅(ろしゅく)が孫権に、劉備と同盟して荊州を占領することを勧めたのである。孫権の武将黄蓋(こうがい)は火攻めの計を案出し、鎖でつないだ曹操の軍艦に火をかけ焼き払った。そして陸に逃げた曹操の軍は関羽(かんう)の軍に破られ、さらに疫病も流行していたので曹操は北に帰り、天下三分のもとがつくられた。
[狩野直禎]
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赤壁の戦い
せきへきのたたかい
Chi-bi zhi zhan; Ch`ih-pi chih chan
中国,後漢末の建安 13 (208) 年の孫権,劉備の連合軍と曹操との戦い。華北をほぼ平定した曹操は,さらに南下しようとして孫権,劉備の連合軍と揚子江の赤壁 (湖北省嘉魚県) で対峙したが,そのとき呉将周瑜の部将黄蓋が火攻めの計で曹操の水軍を全滅させた。以後曹操は江北の経営に力を注ぐようになり,孫権の江南における地位も固まった。
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赤壁の戦い
せきへきのたたかい
三国時代の208年,蜀 (しよく) の劉備 (りゆうび) と呉の孫権 (そんけん) の連合軍が,80万と称された魏 (ぎ) の曹操 (そうそう) の水軍を大敗させた戦い
赤壁は湖北省,長江南岸の地。この結果,劉備は四川,孫権は江南,曹操は華北を確保することになり,天下3分の形勢が成立した。
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赤壁の戦い
全土統一を目指して南下した曹操軍は、長江の北岸、赤壁で周瑜率いる呉軍に阻まれ、火攻めにあって敗退した。ここから五○年余の“天下三分”期が始まる。
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デジタル大辞泉
「赤壁の戦い」の意味・読み・例文・類語
せきへき‐の‐たたかい〔‐たたかひ〕【赤壁の戦い】
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