日本大百科全書(ニッポニカ) 「許劭」の意味・わかりやすい解説
許劭
きょしょう
生没年不詳。中国、後漢(ごかん)末の人物批評家。字(あざな)は子将(ししょう)。汝南(じょなん)郡平輿(へいよ)県(河南(かなん)省平輿県の北)の人。郭泰(かくたい)と並称された人物批評家である。後漢末において、著名な名士による人物評価を得ることは、名声を高め、名士層に参入するため、もっとも有効な手段であった。同郷の「四世三公(しせいさんこう)」(4代にわたって太尉(たいい)、司空(しくう)、司徒(しと)という後漢の最高官を出した家)の袁紹(えんしょう)も、許劭の評価を気にして言動を慎んでいる。のちに蜀(しょく)に仕えた従弟の許靖(きょせい)と、月初めに品題(人々をランクづける際の評価基準)を変えて人物評価を行ったため、「月旦評(げったんひょう)」(品定め)ということばが生まれた。また、橋玄(きょうげん)の紹介を受けて、三国魏(ぎ)の基礎を築く曹操(そうそう)を「治世の能臣(のうしん)、乱世の姦雄(かんゆう)」と評した。これにより曹操は、汝南郡を名声の場とする何顒(かぎょう)グループという名士の仲間社会に加入する。何顒のもとには、袁紹、荀彧(じゅんいく)、許攸(きょゆう)などが集まっていた。許劭の評価により、曹操は覇権のスタートラインにたつことができたのである。
[渡邉義浩]
『渡邉義浩著『「三国志」軍師34選』(PHP文庫)』