朝日日本歴史人物事典 「正親町三条公積」の解説
正親町三条公積
生年:享保6.9.3(1721.10.23)
江戸中期の公家。宝暦事件の中心人物のひとり。正親町三条実彦の長男。宝暦4(1754)年2月19日権大納言に任じられ,また議奏となる。同6年従二位。このころ京都で塾を開き,垂加神道や儒学を講じていた竹内式部に学ぶ。この塾には大納言烏丸光胤,中納言坊城俊逸,少納言西洞院時名,右中将高野隆古,左中弁勘解由小路資望のほか桃園天皇の侍読伏原宣条,近習高倉永秀,西大路隆共,中院通維,町尻兼望,岩倉恒具,今出川公言,裏松光世ら堂上グループが集まった。公積はその中心人物で,桃園天皇への垂加神道進講に尽力した。同7年6月4日彼ら近臣による若い天皇への垂加流の『日本書紀』進講が始まったが,そこでの尊王論が江戸幕府を刺激することを恐れた前関白一条道香,関白近衛内前が天皇に受講中止を申し入れ,公積らの行動を規制した。しかし,天皇が受講の意思を変えなかったため,ついに関白らは天皇側近からの式部門下排除を決め,同8年,公積は烏丸光胤,坊城俊逸,西洞院時名,高野隆古ほかとともに免官の上,永蟄居処分となり,翌9年竹内も処罰された(宝暦事件)。公積はさらに明和1(1764)年落飾を命じられた。<参考文献>辻達也「幕藩体制の変質と朝幕関係」(『日本の近世』2巻)
(藤田恒春)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報