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蕪村 ぶそん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

蕪村
ぶそん

「与謝蕪村 (よさぶそん)」のページをご覧ください。

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デジタル大辞泉の解説

ぶそん【蕪村】

与謝蕪村(よさぶそん)

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百科事典マイペディアの解説

蕪村【ぶそん】

江戸中期の俳人,文人,画家。摂津国の生れ。本姓は谷口,のち与謝と改める。俳号,宰鳥,落日庵,夜半亭など,画号,子漢,春星,謝寅など。江戸で早野巴人(夜半亭宋阿)に俳諧(はいかい)を学ぶ一方,文人画に精進し,巴人死後,北関東,奥州方面に10余年の流寓の生活を送った。
→関連項目大江丸祇園南海月僊蕉門十哲天明俳諧南宗画俳諧

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

蕪村 ぶそん

与謝蕪村(よさ-ぶそん)

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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

世界大百科事典 第2版の解説

ぶそん【蕪村】

1716‐83(享保1‐天明3)
江戸中期の俳人,文人,画家。姓は谷口,のち与謝(よさ)と改める。俳号は落日庵,紫狐庵,夜半亭など,画号も四明,朝滄(ちようそう),長庚,春星など数多い。摂津国東成郡毛馬村(現,大阪市)に生まれ,享保(1716‐36)の末年に江戸に下った。俳諧を学ぶが,1737年(元文2),京から江戸に戻った夜半亭宋阿(早野巴人(はじん))の内弟子となり,宰町の号で江戸俳壇に出る一方,絵画にも親しむ。また服部南郭(なんかく)の講義にも列席したらしい。

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大辞林 第三版の解説

ぶそん【蕪村】

与謝よさ蕪村

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

蕪村
ぶそん
(1716―1783)

近世中期の俳人、画家。本姓谷口氏。与謝(よさ/よざ)氏を称するのは丹後(たんご)から帰洛(きらく)以後のこと。俳号は初め宰町(さいちょう)・宰鳥、蕪村号の初出は寛保(かんぽう)4年(1744)『歳旦帖(さいたんちょう)』からである。代表的画号は謝長庚(しゃちょうこう)、謝春星(しゃしゅんせい)、1778年(安永7)以後は謝寅(しゃいん)[清水孝之]

出自と修業時代

享保(きょうほう)元年摂津国(せっつのくに)東成(ひがしなり)郡毛馬(けま)村(大阪市都島区毛馬町)の豊かな農家に生まれたらしい。少年時代に伊信(これのぶ)という画生と多少の交流があったが、享保(1716~1736)の末ごろ単身江戸へ下り書画、漢詩、俳諧(はいかい)などを学んだ。1737年(元文2)以後は京都から江戸に帰った早野巴人(はじん)(宋阿(そうあ))の夜半亭(やはんてい)に入門して江戸俳壇に知られた。1742年(寛保2)恩師宋阿没後江戸を離れ、砂岡雁宕(いさおかがんとう)を頼って結城(ゆうき)(茨城県結城市)に行き、やがて松島、象潟(きさかた)から奥羽一円に及ぶ旅行を試みた。1744年には宇都宮(うつのみや)で初の歳旦帖を刊行、初めて「蕪村」号を用いた。翌1745年(延享2)結城の早見晋我(しんが)の死を悼んで『北寿老仙をいたむ』(釈蕪村と署名)を残した。仮名詩(和詩)の流行を批判した清新な自由詩である。結城弘経寺(ぐぎょうじ)の大玄上人(しょうにん)に帰依(きえ)して剃髪(ていはつ)したと推定され、同寺に多数の襖絵(ふすまえ)を残した。英一蝶(はなぶさいっちょう)風の風俗画のみならず、精神の自由を表現しようとする新興文人画への志向が認められる。[清水孝之]

西帰

1751年(宝暦1)36歳の8月に京都に上る。宋阿の遺弟望月宋屋(もちづきそうおく)、高井几圭(たかいきけい)らがいたが、蕪村の目的は彭城百川(さかきひゃくせん)、池大雅(いけのたいが)らの活躍する新興文人画研究に存した。1754年には丹後・宮津に赴き3年半の間専心画業に精励し『八種画譜』『芥子園画伝(かいしえんがでん)』など中国版本の学習を、自然そのものに学ぶことによって修正深化し、専門画家としての実力を身につけた。和画よりもいっそう漢画風に重点を置き、山水図、神仙図などを多く描いた。帰洛後姓を与謝氏と改め、結婚して1女をもうけた。また来舶清人(しんじん)沈南蘋(しんなんぴん)の写実的画風を取り入れ、1763年には山水図、野馬図などの屏風(びょうぶ)大作を描いて京洛画壇に高く評価される。[清水孝之]

画俳併行時代

明和(めいわ)年間(1764~1772)に入ると画業に脂がのり、屏風講によって続々と大作が制作された。その間1766~1768年(明和3~5)に讃岐(さぬき)(香川県)へ渡り優れた墨彩に気韻生動を会得し、やがて1771年池大雅とともに『十便十宜画冊(じゅうべんじゅうぎがさつ)』を競作し近世南画大成者の一人として活躍する。三宅嘯山(みやけしょうざん)編『俳諧古選』(1763)に炭太祇(たんたいぎ)とともに江戸下りの俳人として期待された蕪村は、讃岐から帰京すると三菓社の発句会(ほっくかい)に熱意を傾け、
 鮎(あゆ)くれてよらで過行く夜半(よは)の門(もん)
 鳥羽殿(とばどの)へ五六騎いそぐ野分哉(のわきかな)
など、詩画一致の新風を続々と歌い出した。それらは内外の古典を踏まえて印象的把握と絵画的構成を方法としている。以後は漢詩境の俳諧化を軸に多面的な変化を示す。漢詩人でもあった門人黒柳召波(くろやなぎしょうは)に「俳諧は俗語を用ひて俗を離るるを尚(たふと)ぶ。俗を離れて俗を用ゆ、離俗の法最もかたし」(『春泥句集(しゅんでいくしゅう)』序)と説き、「詩を語るべし」と勧め、多読による「書巻之気」の上昇を教えた。美意識の向上のもとに理想美を描き出そうという浪漫(ろうまん)的俳諧観も明和初年には確立されていた。
 1770年3月、先輩几圭の息几董(きとう)を後継者とすることを条件に夜半亭2世を継承、翌年『明和辛卯春(しんぼうのはる)』を刊行する。温厚忠実な弟子几董は安永(1772~1781)以後、夜半亭の煩雑な事務を的確に処理してゆく。『其雪影(そのゆきかげ)』(1772)を手始めに『あけ烏』(1773)、『続明鴉(あけがらす)』(1776)両集は蕪村一派の貞享蕉風(じょうきょうしょうふう)による復古運動の成果を天下に示した。夜半翁が後見者の立場で撰集(せんしゅう)を几董任せにしたのは、弟子の自立性を促す意図であり、蕪村自身は南宗画人としての意識が優先していた。俳壇的には金沢の麦水(ばくすい)・闌更(らんこう)、伊勢(いせ)の樗良(ちょら)、名古屋の暁台(きょうたい)、大坂の旧国(ふるくに)(大江丸)・二柳(じりゅう)らとの交渉が目だち、諸国の中興俳人たちが蕪村・几董師弟を目ざして上洛するという盛況であった。とくに樗良・暁台・麦水との交流は重要である。画業も京都の門人たちのみでなく、俳諧関係の知友らを通じて地方へも販路を広げていった。[清水孝之]

画俳融合時代

1776年(安永5)樋口道立(ひぐちどうりゅう)の首唱により洛東金福寺(こんぷくじ)を会場とする、年2回の写経社の結成と一連の芭蕉(ばしょう)顕彰事業も、隠逸を理想とする一派の復古運動を象徴する。1779年の檀林会(だんりんかい)は連句修業の俳諧学校、そこから几董との両吟歌仙『もゝすもゝ』が実を結ぶが、晩年の最高潮期は1777年である。前年末ひとり娘を嫁がせた彼は『夜半楽(やはんらく)』を編集して郷愁の連作詩「春風馬堤曲(しゅんぷうばていのきょく)」を発表し文学史上不朽の業績を残した。ついで4月8日から亡母追善の夏行(げぎょう)として毎日10句ほどの夏発句(げほっく)を始めるが、娘の離縁問題によって中絶する。それらの句は写実ではなく、理想美を追求する作風の特色をよく示している。
 方百里雨雲よせぬぼたむ哉
 三井寺や日は午(ご)にせまる若楓(わかかへで)
 中絶後の空白を、修業時代の回想談によって埋めた独自の俳文とともに句文の二重奏が没後刊行された『新花(しんはな)つみ』(1797)である。
 1777年を頂点として蕪村の文学活動は下降する。1783年(天明3)の維駒(これこま)編召波十三回忌集『五車反古(ごしゃほうご)』においても作風に変化をみせることはない。画業では1776年几董あて書簡に「はいかい物の草画」を誇負し、1777~1779年には『野ざらし紀行図巻』『奥の細道図巻』や芭蕉翁像を多く制作して画俳の融合を試みる。1778年からの「謝寅」号やさらに「日本東成(とうせい)」を加えた落款は、日本的風土に根ざした独自の南画の創造とかかわる。1782年の『四季山水図』『農家飼馬図』には池大雅とは異質の風土性と俳諧味が著しく、年次不明の『竹渓訪隠図』『夜色楼台図』などの傑作は蕪村以外の誰人も描けない独自性と完成度を示している。[清水孝之]

晩年

最後の俳壇的活動は、1783年春義仲寺(ぎちゅうじ)と東山を舞台にした暁台主催の芭蕉百回忌取越興行(とりこしこうぎょう)(実は九十回忌)を、江戸の蓼太(りょうた)とともに後援したことである。このとき蕪村の示した情熱は、彼の生涯にわたる俳諧活動が、蕉風復古運動そのものの歴史的意義にかかわることを明示する。1783年初冬より病に倒れ12月25日未明68歳の完結した生涯を終わった。終命のありさまは追善集『から檜葉(ひば)』(1784)巻頭の几董筆「夜半翁終焉記(しゅうえんき)」に詳しい。
 しら梅に明る夜ばかりとなりにけり
が辞世句であった。遺命に従って金福寺(京都市左京区一乗寺才形町)芭蕉庵(あん)のほとりに葬られ、残された妻と娘も几董、月渓(げっけい)、梅亭や裕福な商人田福(でんぷく)や百池(ひゃくち)らの援助を受けた。なお「几董著」とある『蕪村句集』(1784)は従来几董編集と解されてきたが、晩年の「蕪村自筆句帳」(本間美術館蔵)の出現によって、蕪村最晩年の自撰句集であることが判明した。師意を受けた几董は原本を忠実に清書して世に著(あらわ)したのである。[清水孝之]
『大谷篤蔵他編『古典俳文学大系12 蕪村集』(1972・集英社) ▽尾形仂編著『蕪村自筆句帳』(1974・筑摩書房) ▽『蕪村と門人』(『潁原退蔵著作集13』1979・中央公論社) ▽清水孝之校注『新潮日本古典文学 与謝蕪村集』(1979・新潮社) ▽吉沢忠解説『日本美術絵画全集19 与謝蕪村』(1980・集英社) ▽村松友次著『鑑賞日本の古典17 蕪村集』(1981・尚学図書) ▽清水孝之著『与謝蕪村の鑑賞と批評』(1983・明治書院) ▽栗山理一他校注・訳『完訳日本の古典 蕪村集・一茶集』(1983・小学館)』

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世界大百科事典内の蕪村の言及

【十便十宜図】より

…日本文人画の大成者といわれる池大雅,与謝蕪村の合作。清初の文人李漁の別荘であった伊園での生活の良さ,便利さを賞賛した詩《十便十二宜詩》の詩意をくんで描いたもので,十便を大雅が,十二宜のうちの十宜を蕪村が描いている。…

【春風馬堤曲】より

…俳体詩。与謝蕪村作。1777年(安永6)春刊の《夜半楽(やはんらく)》に発表。…

【召波】より

…京都の人。はじめ江戸に出て服部南郭に漢詩を学び,そこで同門の蕪村と知り合い,俳諧に興味をもった。のち京都に帰り,竜草廬に漢詩文を学び,漢詩人柳宏として世に知られた。…

【新花摘】より

…俳諧句文集。与謝蕪村著。1797年(寛政9)刊。…

【天明俳諧】より

…芭蕉復興を唱えての行脚や出版が活発化するのも1760年(宝暦10)ごろからで,ことに伊勢の樗良(ちよら),加賀の麦水・二柳(じりゆう)(のち大坂)・既白・闌更(のち京),信濃の白雄(しらお)(のち江戸),播磨の青蘿の積極的な活動は刺激を与えた。運動は安永年間(1772‐81)に入ると頂点に達し,京の蕪村・几董(きとう),名古屋の暁台(きようたい)以下それぞれ佳品を生み,諸家の交流も花やかだったが,百回忌(1793)をもって一応終息する。蕉風創始者としての芭蕉の絶対的位置づけは,これを神格化する行き過ぎも生んだが,全俳壇の統一の要として働いて,貞門・談林派に至るまで蕉風化の勢いに巻き込み,それまで混然としていた雑俳が切り離され,俳諧はもっぱら文芸性を追求するようになる。…

【俳画】より

…〈軽み〉をきわめようとした芭蕉は,その句風にふさわしく,機知や諧謔味に富んだものというよりは,平明で気取らず,偽らぬ真摯な実感そのままを淡々と絵筆に託した。 芭蕉の平明な描写をそのまま受け継いだのは杉風や也有であったが,芭蕉への回帰を大きな目的としていた蕪村は,俳画の歴史の中ではその頂上をきわめた人物である。俳人でもあるが,他方,万人の認める画家でもあった蕪村は,俳諧の歴史がたどってきた要素,すなわち機知や諧謔味,即興性や日常的平明さ,軽さといったもののすべてを兼ね備えた描写を完成したが,加えて専門画家としての洗練された描線や技巧的表現,構図感覚などが,蕪村の俳画をそれ以前のものと大きく峻別させる要因となった。…

【文人画】より

…その意味では士大夫的性格をもった文人と考えてもなんら矛盾するところはなく,この日本における文人の系譜は,浦上玉堂,田能村竹田,渡辺崋山,といった画家達の血の中にも脈々と流れていたと考えられる。他方,同じく初期文人画家の一人である彭城百川(さかきひやくせん)や,日本における文人画の大成者といわれる池大雅,与謝蕪村などは,その生れや環境からして士大夫的といえるものではなかった。たとえば百川は名古屋の薬種商の生れであるし,大雅は京都銀座役人中村家の手代の子であった可能性が大きく,蕪村は大坂の淀川堤に近い毛馬村の地主の息子であったようである。…

【離俗】より

…俳諧用語。蕪村は門弟召波の《春泥句集》(1777)に寄せた序文の中で,〈俳諧は俗語を用ひて俗を離るるを尚ぶ。俗を離れて俗を用ゆ。…

※「蕪村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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