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神道 しんとう

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

神道
しんとう

惟神道 (かんながらのみち) ともいう。日本固有の民族信仰。特定の神域に神饌を供え,音楽歌舞で神を慰め恵みを請う呪術から出発し,やがて神社を建て,そこに神を祀った。律令体制のもとに神祇官がおかれ,社格の決定,神領,封戸の献進,幣帛 (へいはく) の供進が行われ,宮廷儀式として制度化した。

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知恵蔵2015の解説

神道

神道は、古来あった神々への信仰が、仏教、道教、儒教などの影響を受けて展開してきた宗教である。神道には、最初から明確な教義があったわけではなく、長い時間をかけて神学が形成され、とりわけ近世になって体系化が進められた。また、古来の伝統的な信仰や儀礼が「神道」として認識されるようになったのは、仏教の伝来以降のことと考えられる。しかし、神道と仏教とは明確に区別されず、神仏習合呼ばれる融合した形をとった。中世になると、仏が人々を救うために神に姿を変えてこの世に現れ、神仏は本来同一であるとする本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が流布し、神仏習合がさらに複雑化した。神道と仏教とが、今日のように明確に区別されるようになったのは、両者を明確に区別することを目的とした、明治期の神仏判然令の結果である。現在では、一般に神社を中心とする信仰や儀礼が、神道として認識されている。

(岩井洋 関西国際大学教授 / 2007年)

出典|(株)朝日新聞出版発行「知恵蔵2015」
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デジタル大辞泉の解説

しん‐とう〔‐タウ〕【神道】

《「しんどう」とも》
日本民族古来の神観念に基づく宗教的態度。自然崇拝アニミズムなどを特徴とする。後世、仏教儒教道教などの影響を受けた。神社を中心とする神社神道をはじめ、教派神道・民俗神道・学派神道などに分類される。
異端の宗教。仏教に対していう。
神。神祇(じんぎ)。
墓所へ行く道。
「―に仕へて三宝を信ぜず」〈今昔・七・三〉
「末代のしるし、王法を―棄て給ふことと知るべし」〈太平記・二七〉

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監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
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百科事典マイペディアの解説

神道【しんとう】

日本固有の民族的信仰体系。その特性は現存する宮廷の伝承的神事や民俗信仰の中にみられる。非常に古くから存在し,自然崇拝と人格神をもった祖先崇拝などが中心的である。
→関連項目忌部正通荷田春満宗教教育神習教大教宣布大社教中世日本紀中臣祓保科正之民族宗教無窮会

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葬儀辞典の解説

神道

日本固有の民族信仰。古来の自然観に基づき、神への尊崇を中心に形成されています。

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世界大百科事典 第2版の解説

しんとう【神道】

日本固有の民族宗教。日本人の信仰や思想に大きな影響を与えた仏教や儒教などに対して,それらが伝えられる前からあった土着の神観念にもとづく宗教的実践と,それを支えている生活習慣を,一般に神道ということばであらわしている。日本民族の間にあった信仰は,農耕,狩猟,漁労などの生活に対応してさまざまであり,地域的にも多様な性格をもっていたと考えられるが,稲作の伝来を契機に政治的な統一が進むにつれて,水稲の栽培を中心とする農耕儀礼を核として数多くの神々をまつる現世主義的な宗教が形成された。

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大辞林 第三版の解説

しんとう【神道】

日本民族固有の伝統的な宗教的実践と,それを支えている生活態度および理念。アニミズムやシャーマニズムなどから発し,次第に祖先神・氏神・国祖神の崇拝を中心とするものになり,大和朝廷によって国家的祭祀さいしとして制度化された。外来信仰である仏教に対して形成された概念で,その後,仏教や儒教の影響を受けながら,両部神道・伊勢神道・吉田神道・垂加神道・復古神道など多くの神道理論が生まれた。明治以後,神社は国家の管理下に置かれ,伊勢神宮を頂点とする国家神道が形成されたが,第二次大戦後,神道指令により解体された。かんながらの道。
仏教に対して,鬼神を信ずる邪教。 「若くより邪見深くして-に仕へて三宝を信ぜず/今昔 7

しんどう【神道】

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

神道
しんとう

総論

日本の民族信仰。日本民族の間に発生し、儒教・仏教など外来の宗教・思想などと対立しつつ、しかもその影響を受けて発達し、その精神生活の基盤となってきた民族信仰のこと、さらにその民族信仰を根底としての国民道徳、倫理、習俗までを含めていう場合もある。
 神道という語は、古代の中国でも使用されている。すなわち、『易経』の観(かん)の卦(か)の「篆伝(てんでん)」に「観天之神道、而四時不(たがわず)、聖人以神道説教、而天下服矣」とみられ、『後漢書(ごかんじょ)』中山簡王(ちゅうざんかんおう)の条に「大為修冢塋(ちょうえい)、開神道」とみられるが、前者は自然界の不変の原理を、後者は墓所への道を意味しており、いずれも日本における語意とはまったく別の用例であり、「神道」はそれとは関係なく、日本で独自に使用された語とみられる。日本における神道という語の初見は、『日本書紀』用明(ようめい)天皇の条に「天皇信仏法、尊神道」とあるそれで、続いて同書孝徳(こうとく)天皇の条に「尊仏教、軽神道」とみられる。ここでは、当時大陸から伝来した仏教に対して、日本にそれまでに独自に発達してきた信仰、またその神の力というものをさして称している。当時、このように日本民族の間に独自に発達してきた信仰・儀礼を神道というだけでなく、『古事記』で「本教」「神習」、『日本書紀』で「神教」「徳教」「大道」「古道」などとも称しているが、時代が下るとともに、神道という語だけが用いられるようになり、『続日本紀(しょくにほんぎ)』『日本後紀(にほんこうき)』『続日本後紀』『日本三代実録』などでも、この語が用いられてきた。ただし、これらの書のなかでは、日本の民族信仰というような意味だけでなく、神祇(じんぎ)、また神社信仰の意などにも用いられていて、それがまだ十分に落ち着いた概念をもった語となっていなかったこともみられる。鎌倉時代になって、伊勢(いせ)の神宮祠官(しかん)たちにより、神宮また神道についての学問的研究が始められるとともに、神道という語は伝統的な固有の民族信仰、道徳、さらに教学を意味する語として用いられるようになり、それが以後に継承された。ただし、江戸時代中期以降、国学の発達とともに、それをさらに厳密に表現する意味で、儒教・仏教などの影響のないそれを「純神道」「古神道」「皇道」「大教(たいきょう)」「本教」「神ながらの道」などとも称した。明治維新当時もそれらの語が用いられ、ことに「大教」の語が使用されることもあったが、明治中期よりしだいに神道という語に統一され、それが一般に用いられるようになったのである。現在それは「しんとう」と清音で発音されている。一方、大正時代より昭和初期の、いわゆる国家神道が盛んとなったころ、「神ながらの道」という語が神道とほぼ同義の語として使用された。それは『日本書紀』孝徳天皇大化(たいか)3年(647)4月の条に、「惟神我子応治故寄。是以、与天地之初、君臨之国也」とあるなかの「惟神」に注があり、「惟神者、謂随神道、亦謂自有神道也」と記されていることから、その「惟神」を「かんながら」とよみ、江戸時代に谷川士清(ことすが)がその著『日本書紀通証』のなかで「惟神之大道」と記したほか、国学者たちも彼らのいう「純神道」をまた「かんながらの道」と称したこともあり、この語が用いられた。1870年(明治3)1月、明治天皇により大教宣布の詔(みことのり)が出されたが、そのなかに「惟神之大道」との語があり、ことに1925年(大正14)筧克彦(かけいかつひこ)が『神ながらの道』を出版して以後、この語が盛んに用いられた。しかし、その「惟神」を「かんながら」と訓じてよいかどうか、「かんながら」の語義の如何(いかん)について論議が多く、定説もなく、一般用語としては適切な語とはいえない。
 神道という語についての説明、またその概念づけは近世以降盛んとなった。まず神儒一致の見地にたって、藤原惺窩(せいか)は「日本の神道も我が心をただしうして万民をあわれみ、慈悲をほどこすを極意(ごくい)とし、堯舜(ぎょうしゅん)の道もこれを極意とするなり。もろこしにては儒道といひ、日本にては神道といふ。名はかはり心は一つなり」(『千代茂登草(ちよもとぐさ)』)といい、同じ見地の林羅山(らざん)は「我朝ハ 神国也、神道乃(スナハチ)王道」(『林羅山文集』)と説いた。また伊勢外宮(げくう)の祠官度会延佳(わたらいのぶよし)は「神道と云(いふ)は、上(かみ)一人より下(しも)万民まで行ふ旦暮(たんぼ)の道なり。天神地祇より相伝の中極の道を根として行ふ時は、日用の間神道ならずと云事なし。さして是(これ)は神道なりと一々指南に及ぶべき道にはあらず。心を虚(きょ)にして自得したまふべし」、「日本国に生れたる人は、心に得て身に行はでかなはざる道」(『太神宮(だいじんぐう)神道或問(わくもん)』)といい、度会常彰(つねあきら)も「神道とは、神国に行はるる日用の道をいふ」(『日本国風(やまとくにぶり)』)と説いた。本居宣長(もとおりのりなが)は「此(こ)の道はいかなる道ぞと尋ぬるに、天地のおのづからなる道にもあらず、人の作れる道にもあらず、此の道はしも、可畏(かしこ)きや高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の御霊(みたま)によりて神祖伊邪那岐(かむろぎいざなぎの)大神・伊邪那美(いざなみの)大神の始めたまひて、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の受たまひたもちたまひ、伝へ賜ふ道なり。故(か)れ、是を以(もっ)て神の道とは申すぞかし」(『直毘霊(なおびのみたま)』)といい、平田篤胤(あつたね)は「神国の神国たる御国体を知り、神の成し置き玉(たま)へる事を習ひ学びて、正しき人の道を行ひ候を、実の神道と称し候。すべて世の忠臣孝子、其(そ)の外(ほか)、人の道に外れざる者は、皆真の神道にて候」(『大道或問』)とのように神学的・規範的に説明した。このような傾向は明治以降にも継承されて、田中義能(よしとう)は「神道は、わが国民精神、即ち日本精神の精華を体有せられたる古来の神聖(かみ)の示され、又行はれたる事実そのもの」(『神道概論』)と説き、宮地直一(なおいち)は「神道はいふまでもなく我国に固有にして、神祇の祭祀(さいし)に基づきて国民全般の生活を律し、之(これ)が指導原理とせらるものなり」といい、山本信哉(しんさい)は「神道は人道の理想化されたもの」(『神道綱要』)と述べた。また河野省三(せいぞう)は「神道は日本民族の生活原理である。それは日本民族の根本的性情に根ざした本来の信念である。換言すれば日本民族の伝統的信念並びに情操が神かけて強調され、国家的活動によって訓練された力である。其の力の内容即ち神道の性質を簡潔に云ひ表はすならば、敬神の信念をもって天皇を奉戴(ほうたい)し、正しく明るい国家を建設しようとする精神である。即ち、日本国家もしくは日本民族の活動を展開するところの指導原理である」(『神道読本(とくほん)』)と説いたが、このように神道を国民道徳、倫理の根本原理とみての論も多く出た。戦後になり、客観的な立場での神道学の発展とともに、神道とは日本民族の伝統に従って神祇を祭祀(さいし)し、これに基づいて生活するところの精神的営みなどと定義づけもされたが、現在この語が非常に広範に使用されていて、その概念づけは容易ではない。それは、神道が特定の教学的伝統を中心としたものではなく、原始共同体社会における全生活の中心的行事としての祭りの場より発生したものであり、広範な精神現象、社会現象にかかわり、それは信仰、宗教の範囲のみでとらえられず、また国民の道徳・倫理の範囲のみでもとらえられない点からきている。それを、仮説的にいうならば、神道とは日本民族が祖先の遺風に従ってカミを斎(いつ)き祀(まつ)る国民信仰であり、またそれを基礎として展開させる文化現象のことをも含めていうことがあるといえるであろう。[鎌田純一]
分類
神道は内容より便宜区分して、神社神道、教派神道、国家神道、宮廷神道、学派神道などと区分してよばれる。このうち、神社神道と教派神道とは、祭祀(さいし)中心と教法中心とによる分類である。神社神道とは、鎮守(ちんじゅ)・氏神(うじがみ)など全国の神社を中心として、その祭祀儀礼を含んだ信仰組織的なものをいうのに対して、教派神道とは、明治時代以降、教義・教法をたて、教団を組織した神道教派を総称しての語である。1870年1月大教(たいきょう)宣布の詔が下され、大教(先述のごとく当時神道のことをこの語で表現)を広く国民に説くため、宣教使の制度が設置され、72年それが改められて教導職の制度となり、教導にあたったが、教義のない神導の宣布にあたって、独自の教義・教学をたて説く者もあったこともあって、82年1月、当時の神官と教導職とを分離させる処置をとり、神官には宣教の任にあたることを禁止したため、これを不服として独自の教義を布教することを目的として分派独立した人たちがあった。それ以来の伝統をもつのが教派神道で、神道大教、黒住(くろずみ)教、神道修成(しゅうせい)派、出雲大社(いずもおおやしろ)教、扶桑(ふそう)教、実行(じっこう)教、神道大成(たいせい)教、神習(しんしゅう)教、御嶽(おんたけ)教、神理(しんり)教、禊(みそぎ)教、金光(こんこう)教、天理教をとくに教派神道十三派と称している。これら教派神道は、神道は行政上宗教にあらずとされた時代にも宗教として扱われ、仏教、キリスト教などと同じく文部省宗教局の監督を受け、国家の保障・支援などを受けることはなかった。それに対して、神社神道は国家の宗祀として、内務省神社局に属し、国家の保障・支援を1945年(昭和20)まで受けてきた。その点で、神社神道と国家神道との区別があいまいとなるが、1945年12月、日本占領の連合国最高司令部(GHQ)より出されたいわゆる神道指令に、この「神社神道」「国家神道」の語が使用され、そこで神社神道とは、民間的また個人的な一般宗教的なものをさしているのに対して、国家神道とは、政府で保障・支援・保全・監督した国教的なもの、国民を統合させるための教学とでもいうべきもののもとに、国民に強制したものをさして使用していた。現在、神社神道という語は、全国神社の包括団体である宗教法人神社本庁でその庁規のなかでも使用しているが、それは、天照大神を奉斎する伊勢の神宮を本宗(ほんそう)として、全国の神社を崇敬し、その祭祀を中心として民族の道統を継承し、文化を形成する民族の精神的な営みのことをいっており、現在は国家神道は消滅している。宮廷神道とは、賢所(かしこどころ)・神殿・皇霊殿(こうれいでん)の宮中三殿、山陵・御墓などに対する皇室の祭祀を中心として称する語である。学派神道とは、古典等により神道理論・神道神学を樹立した教学を中心としたものの総称であり、中世~近世の伊勢神道、吉田神道、儒家神道、吉川(よしかわ)神道、垂加(すいか)神道、復古神道などがそれに含まれる。[鎌田純一]

神道の歴史


古代
日本列島に人類が居住し始め、無土器文化、さらに縄文式文化を形成したころに、人々の間に原始信仰が存在していたことは、その遺物・遺跡より確かとみられるが、それは神道とはいちおう別とみられる。これについて、明治以降、現在の考古学者・歴史学者のなかに、それを神道と結び付けてみる人も多いが、別とみるのがよいであろう。神道の原初形態とみられるものは、農耕文化、稲作と大きな関係があり、弥生(やよい)式文化の時代まで進み、農耕生活が定着し始めたころに、神道の原初形態は成立したものとみられる。つまり、この国土の各地に人々が定着して共同体をつくり、農耕を始めたとき、その共同体の生活のなかで、農耕に関連してなされた祭りより神道は発したとみられるのである。その原初時代のカミ観念について、『古事記』『日本書紀』また古代祭祀(さいし)遺跡、さらに古い創建にかかる神社などを手掛りにしてみるに、まずその自然と深いかかわりをもった生活のなかで、具体的に接した日、月、海、山、川、木、また雷、風など自然物、自然現象などに、人力以上の威力、呪力(じゅりょく)、神聖性を感じ、それをカミとして畏敬(いけい)したことがみられる。すなわち自然崇拝的なカミであるが、これがいちばん多くみられる。次に鏡、剣、玉などにも霊力、神聖性をみての庶物崇拝的なカミ観念の存したこともみられる。一方、祖先崇拝が、ラフカディオ・ハーン(同著『JAPAN』)などにより、神道の根源的な信仰とみられたが、それは当たっていない。すべての祖先を畏敬の対象としたのは、実際には、すこし時代を下ってのことで、それは大陸文化の影響を受けてのことかともみられる。ただ、農耕生活中心の血縁的同族集団で、家長、氏の上に対する尊敬の念がその生存中からあり、それがその死後浄化され、カミとして尊崇されるようになったこと、また同一職業集団の祖、地域開拓の長に対する尊敬の念から、それらをカミとして崇敬したことは早くからあったものとみられる。神道におけるカミについて、その語源を尋ね解釈しようとする試みは中世以降多くなされたが、まだ決定的な論は出されていない。ただ平田篤胤(あつたね)が『古史伝』のなかで、カミの「カ」は「彼(か)の」の意、「ミ」は「霊妙なるもの」、よって「カミ」とは「あの霊妙なるもの」と語源的な解釈をし、久松潜一(せんいち)・志田延義(のぶよし)が『古代詩歌における神の概念』のなかで、「かみのかは、かぐわしと同じ意の美称、みは身」とし、「かみとはかぐわしい身」の意と説いたところが注目されている。そのような語源的解釈ではなく、その定義について本居宣長(もとおりのりなが)は、『古事記』などにみられるところよりして、『古事記伝』のなかで「尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて、可畏(かしこ)きもの」をカミとみている。これは「卓絶した、優れたありがたい働きのある、神聖なる存在」と解釈できるが、これが古代人のカミをよく定義したものとみられている。古代人は自然崇拝、庶物崇拝、祖先崇拝に入れられるカミ観念をもったが、古代人はそのすべてを祭祀対象としたのではない。カミとしてその存在を認識することと、祭祀することとは別で、祭祀の対象としたのは、そのカミが自分たちの生活に「優れた、ありがたい働き」を与えてくれると信仰しての対象であった。そのカミのタマ、モノの働きが直接その生活にかかわり、祭祀の対象としたのである。それも原初時代には、神社社殿をもってのような形式での祭祀ではなく、神祭りのときに神籬(ひもろぎ)・磐境(いわさか)などを設け、そこに神を招き祭る形式であった。そのようにして恩頼(みたまのふゆ)を受けるべく祈願、感謝して祭り、また神意を伺うべく鹿占(しかうら)・琴占(ことうら)などをし、さらに誓約(うけひ)して祭った。また、その祭りにあたって、罪(つみ)・穢(けがれ)をことに禊(みそ)ぎ祓(はら)うことをしたことがみられる。
 この古代において、大陸との交通もなされ、道教、陰陽道(おんみょうどう)、儒教、仏教などが流入してきたが、その道教、陰陽道の呪術的な面は早く受け入れられたものとみられるものの、儒教、仏教は初めはまったく異質のものとして、受け入れられなかった。しかし、さらにその大陸をまねての国家政治機構がしだいに整備され、聖徳太子の仏教奨励策のあと、仏教寺院が本格的に造営されたころより、その影響もあって、神道も従来の神籬・磐境での祭祀でなく、神社建築がなされ、そこで祭られるようになったものとみられ、やがて中国の影響で天神地祇(ちぎ)の区別も認識され、神祇制度も整えられてきた。その神祇制度が本格的に整備され始めたのは、天武(てんむ)天皇のころとみられる。すなわち、推古(すいこ)天皇のときの聖徳太子の政策、孝徳(こうとく)天皇の大化改新、天智(てんじ)天皇の近江(おうみ)大津京での治政など大陸文化を積極的に取り入れての治政に対しての反省とみられる天武天皇の治政のなかに、それがみられるのであり、伊勢(いせ)の神宮の式年遷宮制の設定、斎王(さいおう)の復活と斎宮寮の整備、そのほか諸社の祭礼の定例化、国家行事化もされて、神祇制度の基礎が確立したとみられるのである。神道の歴史をみる場合、この天武天皇の時代が国家とのかかわりで大きな一つの時期となる。この天武天皇のときに、帝紀・旧辞の誤りを正して、『日本書紀』また『古事記』の撰修(せんしゅう)が始められたのであり、神話伝承も文章化されることとなったのである。[鎌田純一]
上代
701年(大宝1)に制定された大宝令(たいほうりょう)に、最高の国政機関として、太政官(だいじょうかん)・神祇官が置かれ、その神祇官の長官の伯(はく)が神祇祭祀、また祝部(はふりべ)・神戸(かんべ)の戸籍を管理し、神祇行政の大綱を総攬(そうらん)した。また、この大宝令で、天皇御代(みよ)始めの大嘗祭(おおにえのまつり)を大祀、祈年(としごい)・月次(つきなみ)・神嘗(かんなめ)・新嘗(にいなめ)祭は中祀、その他はすべて小祀というように祭祀の区分をし、全国神社にも等差をつけ、なかの有力社を神祇官が保管する官社帳に登録し、祈年・新嘗祭に奉幣することなどを定めた。この大宝令にみられる神祇制度の基礎は、天武天皇の飛鳥浄御原(あすかきよみはら)令にすでに定められていたものとみられるが、このように律令体制の整備とともに、神祇制度も整備され、神社祭祀もしだいに定例化、国家化され、神社が国家と結び付くようになった。また一方で、8世紀には仏教が興隆するとともに、それと調和することも生じた。仏教全盛の聖武(しょうむ)天皇のとき、国ごとに国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(にじ)が建立され、都には東大寺に大仏が鋳造されることとなったが、その大仏鋳造は容易のことではなかった。そのとき宇佐八幡(うさはちまん)の「我天神地祇を率いいざないて必ず成し奉(まつら)む」と託宣があったことが『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記されているように、仏像鋳造に神が協力との信仰も生じていたのである。また各地神社に神宮寺が建立されたのも、そのころである。その理由について、『藤原家伝』武智麻呂(むちまろ)伝のなかに、気比神(けひのかみ)が武智麻呂の夢のなかに現れ、「わがために寺を造り、わが願いを助けなせ。われ宿業(しゅくごう)により神たることもとより久し。今仏道に帰依(きえ)し、福業を修行せんと欲すれども、因縁を得ず、故(ゆえ)に来りこれを告ぐ」とある。これよりすると、8世紀末から9世紀ころにかけて、仏は神よりはるか優位に位置し、神は人よりは上位に位置するが、なお人と同様に煩悩(ぼんのう)に悩む衆生(しゅじょう)の一つであり、その苦悩を脱せんがため、神は仏道修行を求めているのであり、そのため人は神の願いをいれ、神の仏道修行のための神宮寺を造立(ぞうりゅう)すべきであるとの考え方が出てきていたのであり、そのため神前読経(どきょう)のこともなされたのであった。しかし、そのあと神・仏の関係観は変化し、10世紀には神と仏とは本来同一であり、本地(ほんじ)(本身)はインドの仏であるが、衆生済度(さいど)のため神となって迹(あと)を日本に垂(た)れるという本地垂迹(すいじゃく)説が仏教側から唱えられるようになった。また一方、桓武(かんむ)天皇のころより中国流の郊祀(こうし)(郊野に円壇丘を築いて天子が上帝を祀(まつ)りその祖を天に配祀すること)のなされたこと、すなわち漢神信仰の取り入れられたことがあり、さらに仏教的な罪・罰の観念、祟(たた)りの信仰と結び付いての怨霊(おんりょう)信仰、御霊(ごりょう)信仰が流行していたこともみられる。これとは別に神祇行政についてみると、『新抄格勅符抄』に806年(大同1)の牒(ちょう)がみられるが、そこに神封(じんふう)4870戸がみられ、全国神社の経済的な基盤を国家がかなり保障していたことが知られ、927年(延長5)に撰(せん)せられた『延喜式(えんぎしき)』に神祇制度の完成した様相をみることができる。四時祭、臨時祭の詳細な規定、伊勢大神宮、その斎宮寮、賀茂(かも)の斎院司、践祚(せんそ)大嘗祭についての規定から、祝詞(のりと)、さらに祈年祭の頒幣(はんぺい)にあずかる全国2861所3132座の神社が定められていたことが知られる。また8世紀より9世紀に神に位階を奉り、神社修理のため正税をあてることもなされていた。このように、神祇制度が整備され、全国の有力神社を国家が管理した時代であったが、それは一面その宗教的な発展をはばむことともなっていた。
 10世紀後半、律令体制が緩むとともに、神祇制度も乱れ、幣帛(へいはく)も滞り、都周辺のわずかの社にのみ奉幣されることとなった。それも、始めはその社が一定していなかったが、1081年(永保1)以降、伊勢・石清水(いわしみず)以下の22社となり、「二十二社」の制が定まり、室町中期まで続いた。また12世紀になり、各国ごとに「一宮(いちのみや)」が定められた。これは朝廷また国司が正式に定めたものではなく、一般でその国ごとに由緒正しく、多くの信仰を集め、経済的基盤の確たる社を定めていったものとみられる。また、国ごとに、その国内諸社を一所に勧請(かんじょう)した「総社(そうしゃ)」の成立したのもそのころであり、その一宮、総社が一般の信仰を多く集めることとなった。この時代末、神仏習合説は発展し、真言(しんごん)宗と結び付いての真言神道で、金剛界(こんごうかい)・胎蔵(たいぞう)界を神道にあて、いわゆる両部(りょうぶ)神道が説かれ、一方、天台宗と結び付いての天台神道、またの名山王(さんのう)神道も説かれ、さらには院政期に末法(まっぽう)思想の流行とともに、浄土信仰・観音(かんのん)信仰と結び付いた熊野本宮・新宮・那智(なち)の三山が熊野信仰を生み出した。[鎌田純一]
中世
前代、律令体制のもと神祇制度が整備され、神道、神社が尊重されたが、律令制の崩壊とともに、神祇制度も崩れ、神社の経済的基盤も公的な神領・神戸(かんべ)より荘園(しょうえん)的社領によらざるをえなくなってきていた。その神社社領が幕府の手により安堵(あんど)されるとともに、庶民が自分を自覚し、それなりの信仰を取り戻したのが中世である。その初め、源頼朝(よりとも)は1180年(治承4)挙兵以後、鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)、伊豆(いず)・箱根権現(はこねごんげん)、三嶋(みしま)大社を崇敬するとともに、伊勢の神宮にも特別の崇敬心をみせた。頼朝の崇敬は単に心意的なものだけでなく、その社領の確保安堵を図り、社殿修復また造営に心がけ、祭儀が式目(しきもく)どおりに行われることを願い、その実践に努めたが、これが鎌倉幕府の神社対策の根本となり、1232年(貞永1)制定の御成敗(ごせいばい)式目でも、その第一条に「神社を修理し、祭祀を専(もっぱ)らにすべきこと」と掲げられた。かくて、この中世前半、鎌倉幕府の時代には諸社はおよそ安定し、庶民もよく崇敬した。そのようななかで、伊勢の神宮祠官(しかん)は、神仏習合説ではなく、仏教は仏教として認めながら、それとは別の立場で、宇宙の根源、天照大神(あまてらすおおみかみ)・豊受(とようけ)大神の出現とその性格、国家の成立、神宮の鎮座、さらに神宮祠官として守るべき道について説くことから始め、そこに度会行忠(わたらいゆきただ)・常昌(つねよし)・家行らが出てより、さらに神宮・神道についての教学を深め、伊勢神道思想を大成するとともに、伊勢信仰を庶民に広めることもした。その思想はやがて南朝の北畠親房(きたばたけちかふさ)以下に大きな影響を与えたが、南朝の衰退とともに衰えた。室町幕府も鎌倉幕府の神祇行政を踏襲し、その初め社領安堵(あんど)に努めた。庶民はまた神仏習合的な信仰、さらに二重、三重の重層信仰をもって寺社にあたった。また、この期に絵巻物を中心としての縁起(えんぎ)神道が説かれた。しかし、室町幕府は鎌倉幕府ほどの威令をもたず、やがて戦国の争乱とともに、各神社社領も略奪され、疲弊する諸社が多かった。かかるなかで卜部兼倶(うらべかねとも)により吉田神道が樹立された。兼倶は伊勢神道の影響を受けながらも、それを元本宗源唯一(そうげんゆいいつ)の神道説と唱え、神祇行政の乱れに乗じて、しだいに全国の神社・神職をその支配下に置いたのである。[鎌田純一]
近世
戦国の争乱のあと、織田信長・豊臣(とよとみ)秀吉、ともに神社の復興にあたり、徳川家康もそれを継承した。この期は幕府の文治政策、諸藩の学問奨励政策もあり、また泰平(たいへい)の世で神道研究も盛んになされ、吉田神道のほかに儒家神道、吉川(よしかわ)神道が出現、伊勢神道が復興した一方で、垂加(すいか)神道、復古神道が生じ、これが通俗平易な語で一般の教化にあたった。各神社も幕府・諸藩によりその神領は寄進という形で安堵されたが、上代・中世に比べるときわめて狭小となっており、やむをえず庶民に近づき、庶民もよくその崇敬社を信仰し、支えたのである。[鎌田純一]
近代
大政奉還、王政復古とともに、明治新政府はその政治理念を復古神道思想に置いて、祭政一致の精神で事にあたろうとした。1869年(明治2)神祇官を復興し、翌年1月天神地祇、八神および皇霊を神祇官に祭り、新しく任命した宣教使をして大教(たいきょう)を宣布させることとし、その10月には官社以下の制を定めることをした。1871年、神社は国家の宗祀とし、社家制度を廃止したが、このころ一方に世界の大勢に順応していこうとする動きの活発となるとともに、神祇官は廃され、その職務は神祇省に、さらに翌年教部省に移され、神官・国学者をもっぱら登用任命していた宣教使の制が廃されて教導職が置かれ、神官・僧侶(そうりょ)ともに任用されることとなったが、これも1882年に廃された。1889年大日本帝国憲法が制定されるとともに、神道は国家の宗祀として、一般宗教とは別の扱いとし、宗教ではなく道徳として扱った。かくて一般神社は内務省管下とされ、1940年(昭和15)内務省神社局にかわり、神祇院が設けられたが、45年(昭和20)太平洋戦争の敗戦とともに、国家機関としての神祇院は廃止され、翌年2月、全国神社の包括団体として神社本庁が、政府の手を離れて組織され、現在大半の神社がその包括下にある。[鎌田純一]

日本文化と神道


神道におけるカミ
神道は日本人の生活の根底、日本人的思考の根底にあるものともいえる。日本文化の根底にあるものともいえる。神道でいうカミに、自然崇拝、庶物崇拝、祖先崇拝などに属すそれの多いことから劣等自然教との見方もあるが、そのカミは卓絶した神秘な能力をもつ存在、それは単なる存在でなく、信仰上の対象であり、それが信仰上の対象となるのは、そのカミの力、タマの働きが自分自身にかかわるからである。そのかかわりは、自分自身を本来の姿にさせてくれることである。神道ではヒトも本来神聖なものとしてとらえる。カミにより生命を授けられた存在、この世になんらかの使命を与えられて生まれさせられた存在とみる。その本来の使命を果たすべく、マコトを実行させてくれるのがカミである。神道でみるカミ、それは生活的であり、現実生活の神世化、それをさせてくれる存在である。[鎌田純一]
共同体の神世化と統合化
自然崇拝・祖先崇拝、それは自然と血族への情操、自然本性的な愛着と賛美帰一に基づくもの、その自然また始祖の祭祀(さいし)が、地縁的・血縁的共同体の生活の神世化・統合化の役割を果たしたのである。神道においては、自己の住む世界に即してカミを認めたのであり、その世界は生命体・生活体であり、その世界宇宙の万象をすべて神霊の表現ともみるために、多神教とみられるが、そこに、さらに大きな統合をみているのである。[鎌田純一]
『河野省三著『神道の研究』(1944・森江書店) ▽小野祖教著『神道の基礎知識と基礎問題』(1963・神社新報社) ▽宮地直一著『神道史』全4巻(1957~63・理想社)』

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世界大百科事典内の神道の言及

【神】より

…【左近 淑】
【日本のカミ】
 カミは,人知を超える霊的な力の総体を示す存在であり,日本の民俗宗教の基本的観念の一つである。カミは,一般に神と表記されるが,神は,文化体系としての神道の表徴であり,カミを神と表記するについては,神道の成立が対応している。そこでカミは,神道における神観念の基礎にあたる部分といえるだろう。…

【国家神道】より

…近代天皇制国家がつくりだした一種の国教制度。国家神道の思想的源流は,仏教と民俗信仰を抑圧して,記紀神話と皇室崇拝にかかわる神々を崇敬することで宗教生活の統合をはかろうとした,江戸時代後期の水戸学や国学系の復古神道説や国体思想にある。明治維新にさいして,こうした立場の国学者や神道家が宗教政策の担当者として登用され,古代の律令制にならって神祇官が設けられて,祭政一致が維新政府のイデオロギーとなった。…

【道教】より

… 洞真部の道教経典は,《雲笈七籤》巻六に引く唐初に成立の《業報因縁経》に〈元始天尊は亦た天宝君とも名づけ,洞真経十二部を説く〉とあり,道教三尊,すなわち太上老君太上道君元始天尊,のうち出現が最も遅く,6世紀半ば以後と推定される元始天尊(〈天尊〉の語は漢訳仏典から始まる)の教誡を経典化したものであるが,この洞真部経典群の内容的な特色は,その代表的な経典《元始無量度人経》や《无上(むじよう)内秘真蔵経》などが最も良く示しているように,用語と思想とに仏教的な色彩の濃厚なことである。もちろん経典内容の基底部をなすものは,祝禱,禁呪,符醮などの天師道教団的な呪術宗教,いわゆる〈鬼道〉であり,儒教の〈神道〉の易学や祭礼の宗教哲学,また老荘道家の〈〉と〈真〉と〈元気〉の哲学,いわゆる〈真道〉の神学教理もまたその主要な部分を占めるが,これらの神学教理が仏教の思想哲学と結びつけられ折衷されて,しばしば聖道の教もしくは聖教,聖学とよばれているところに,この経典群の大きな特徴が見られる。 つぎに洞玄部の経典群は,漢・魏のころから曹丕(そうひ)の《典論》などに各剣宝刀をよぶ言葉として見え初める〈霊宝〉の2字を結びつけた〈洞玄霊宝〉の4字を経典名の中に含むことが多く,《雲笈七籤》では《玉緯》(唐の玄宗の開元年間(713‐741)に作られた道教の経典目録)を引いて〈洞玄は是れ霊宝君の出だす所〉といい,上引の《道教宗源》の〈凡例〉では,〈洞玄部は則ち三界の医王・太上道君の出だす所〉という。…

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