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竹内式部 たけのうちしきぶ

美術人名辞典の解説

竹内式部

勤王家。越後生。名は敬持。幕府の忌諱に触れ、明和四年八丈島に流されたが、船中病を発し、三宅島に歿す、54才。明治24年贈正四位。

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百科事典マイペディアの解説

竹内式部【たけのうちしきぶ】

江戸中期の国学者,神道家,尊王論者。越後の生れ。上洛して山崎闇斎垂加神道を学び,公卿(くぎよう)たちに日本書紀儒書を講じていた。しかし宝暦事件の際にこのことを問題とされ,所司代から重追放に処せられる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

竹内式部 たけのうち-しきぶ

1712-1768* 江戸時代中期の神道家。
正徳(しょうとく)2年生まれ。京都で儒学,垂加(すいか)神道をまなび塾をひらく。尊王論を主張し,門下の公卿(くぎょう)が桃園天皇に「日本書紀」神代巻を進講したことから,宝暦9年重追放となった(宝暦事件)。また明和事件に連座して八丈島に流される途中,明和4年12月5日三宅(みやけ)島で病没した。56歳。越後(えちご)(新潟県)出身。名は敬持。号は羞斎(しゅうさい),周斎,正庵。著作に「奉公心得書」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

竹内式部

没年:明和4.12.5(1768.1.24)
生年:正徳2(1712)
江戸中期の尊王思想家,垂加神道家。越後国(新潟県)新潟生まれ。医者竹内宗詮の子。名は敬持。通称は一学,式部。号は羞斎,正庵,周庵,周斎。京都,伊勢国(三重県)度会郡において活動する。享保13(1728)年,上京して徳大寺家に仕える。その間,山崎闇斎を学祖とする崎門学派で垂加神道を学び,また軍学も修めた。家塾を開いて公卿徳大寺公城,正親町三条公積,烏丸光胤らにその学を授けた。ところが,神祇権大副吉田兼雄が,垂加神道の浸透を不快に思い,宝暦4(1754)年,時の関白一条兼香に訴えたので,兼香は京都所司代にこれを告げた。ただちに式部は取り調べられた。これより先に桃園天皇は『日本書紀』神代巻を徳大寺らに進講させていたが,その内容は式部より学んだものであった。このため式部は再度所司代の調べを受け,同9年京都追放となった(宝暦事件)。その後,伊勢に身を寄せていたが,明和3(1766)年に尊王論者の山県大弐らの逮捕(明和事件)により,無関係の式部も捕らえられ,八丈島流刑となり,その護送中三宅島で病死した。<著作>『奉公心得書』(日本学叢書7巻)<参考文献>星野恒『竹内式部君事迹考』,大久保次夫『竹内式部』

(白山芳太郎)

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世界大百科事典 第2版の解説

たけのうちしきぶ【竹内式部】

1712‐67(正徳2‐明和4)
江戸中期の国学者,神道家。越後の人。名は敬持,号は正庵。式部は通称。垂加神道を学んで公卿に神書・儒書を講じていたが,式部に教えを受けた公卿が神書(日本書紀)を,桃園天皇に進講したので,関白近衛内前らは式部の追放をはかり,所司代に告訴し,1759年(宝暦9)式部は重追放となった(宝暦事件)。公卿間の対立が原因であろう。式部は67年(明和4)の明和事件のとき,関係はないとされながら,禁を犯して京都に立ち入ったとの理由で遠島となった。

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大辞林 第三版の解説

たけのうちしきぶ【竹内式部】

1712~1767) 江戸中期の神道家。越後の人。名は敬持、号は正庵。式部は通称。上洛して垂加神道・儒学を学び、公卿らに神書・儒書を講じた。宝暦事件で重追放、明和事件で流罪。 → 宝暦事件明和事件

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

竹内式部
たけのうちしきぶ

[生]正徳2(1712).越後
[没]明和4(1767).12.5. 三宅島
江戸時代中期の国学者,神道家。名は敬持。号は羞庵,周斎など。京都に出て徳大寺家に仕えて垂加神道を学んだ。のち家塾を開き,正親町三条公積,烏丸光胤,久我 (こが) 敏通,徳大寺公城らに神典,儒書を講じた。宝暦事件で京都所司代の審理を受け,宝暦9 (1759) 年重追放に処され伊勢に閑居。のち山県大弐の明和事件に連座して八丈島流罪となり,護送の途中病死。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

竹内式部
たけのうちしきぶ
(1712―1767)

江戸中期の儒者、神道(しんとう)家。名は敬持、通称は式部。号は羞斎(しゅうさい)(羞庵は誤伝)、のち正庵(父祖代々の名)または周斎。正徳(しょうとく)2年越後(えちご)国新潟に竹内宗詮の子に生まれる。生家は代々の町医者。1728、1729年(享保13、14)ごろ上洛(じょうらく)し、徳大寺家に仕え、儒学を松岡仲良(まつおかちゅうりょう)(1701―1783)、沢田一斎(さわだいっさい)(1701―1782)に学び、のち玉木葦斎(たまきいさい)(1671―1736)について垂加(すいか)神道を学び、さらに若林強斎(わかばやしきょうさい)の最晩年の弟子となった。京都に開いた塾の門下には旧主徳大寺公城(とくだいじきみき)(1729―1782)、久我敏通(こがとしみち)(1735―1756)をはじめ700~800人の堂上(とうしょう)・地下(じげ)がおり、式部の説く儒書、神書の講義は現状に不満な少壮公卿(くぎょう)に大きな影響を及ぼした。とくに式部の『日本書紀』神代巻の講義の主張が近習(きんじゅ)の公卿を通じて若い桃園(ももぞの)天皇に進講されると、これを案じた前関白一条道香(いちじょうみちか)(1722―1769)は1758年(宝暦8)公家(くげ)らを処罰(宝暦(ほうれき)事件)する一方で、所司代松平輝高(1725―1781)に事態を伝えて、翌1759年5月、式部を追放に処せしめた。ついで1767年(明和4)明和(めいわ)事件が起こると、竹内式部はこれに関係なしとされながらも遠島に処せられ、八丈(はちじょう)島へ流される途次、同年12月5日三宅(みやけ)島で病死した。[山田忠雄]
『星野恒著『竹内式部君事蹟考』(1899・冨山房/『越佐叢書6』所収・1934・同叢書刊行会/1974・野島出版) ▽徳富猪一郎著『近世日本国民史22 宝暦明和篇』(1926・民友社) ▽藤田福太郎著『竹内式部先生』(1936・新潟市教育会)』

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世界大百科事典内の竹内式部の言及

【宝暦事件】より

…〈ほうりゃくじけん〉とも読む。江戸中期に竹内式部らが処罰された事件。式部は京都に出て垂加神道と崎門派の儒学を学び,公卿に神書(《日本書紀》),儒書を講じていたが,彼らは式部の学を奉じ,中には軍学を学ぶ者があるといわれた。…

【明和事件】より

…ところが玄蕃の失脚を図る者が,大弐や友人藤井右門が甲府や江戸攻略の話をすると聞いて,それを藩主の父に告げ,玄蕃は監禁された。そこで危険が身に及ぶことを案じた大弐の門人らは,大弐が謀反を企てていると幕府に密告し,幕府が大弐らと竹内式部を捕らえて糾問した。その結果,謀反の事実はないとわかったが,1767年(明和4)に,大弐は兵学の講義で甲府その他要害の地をたとえに用いたり,天皇は行幸もできず囚人同然であるなどと語ったことが,不敬,不届きであるとして死罪,右門も獄門となった。…

※「竹内式部」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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