江戸中期の儒者、神道(しんとう)家。名は敬持、通称は式部。号は羞斎(しゅうさい)(羞庵は誤伝)、のち正庵(父祖代々の名)または周斎。正徳(しょうとく)2年越後(えちご)国新潟に竹内宗詮の子に生まれる。生家は代々の町医者。1728、1729年(享保13、14)ごろ上洛(じょうらく)し、徳大寺家に仕え、儒学を松岡仲良(まつおかちゅうりょう)(1701―1783)、沢田一斎(さわだいっさい)(1701―1782)に学び、のち玉木葦斎(たまきいさい)(1671―1736)について垂加(すいか)神道を学び、さらに若林強斎(わかばやしきょうさい)の最晩年の弟子となった。京都に開いた塾の門下には旧主徳大寺公城(とくだいじきみき)(1729―1782)、久我敏通(こがとしみち)(1735―1756)をはじめ700~800人の堂上(とうしょう)・地下(じげ)がおり、式部の説く儒書、神書の講義は現状に不満な少壮公卿(くぎょう)に大きな影響を及ぼした。とくに式部の『日本書紀』神代巻の講義の主張が近習(きんじゅ)の公卿を通じて若い桃園(ももぞの)天皇に進講されると、これを案じた前関白一条道香(いちじょうみちか)(1722―1769)は1758年(宝暦8)公家(くげ)らを処罰(宝暦(ほうれき)事件)する一方で、所司代松平輝高(1725―1781)に事態を伝えて、翌1759年5月、式部を追放に処せしめた。ついで1767年(明和4)明和(めいわ)事件が起こると、竹内式部はこれに関係なしとされながらも遠島に処せられ、八丈(はちじょう)島へ流される途次、同年12月5日三宅(みやけ)島で病死した。
[山田忠雄 2016年6月20日]
『星野恒著『竹内式部君事蹟考』(1899・冨山房/『越佐叢書6』所収・1934・同叢書刊行会/1974・野島出版)』▽『徳富猪一郎著『近世日本国民史22 宝暦明和篇』(1926・民友社)』▽『藤田福太郎著『竹内式部先生』(1936・新潟市教育会)』
(白山芳太郎)
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1712~67.12.5
江戸中期の神道家・尊王家。名は敬持(たかもち),号は羞斎(しゅうさい),式部は通称。越後国生れ。医師竹内宗詮の子。1728年(享保13)頃上京,徳大寺家に仕え,崎門(きもん)学派の松岡仲良(ちゅうりょう)・玉木正英(まさひで)に師事し,儒学・神学を修める。若い公家衆に大義名分を重んずる垂加(すいか)神道の思想を教授したことから宝暦事件の中心人物として京都を追放され,のち山県大弐(やまがただいに)らの明和事件に連坐して八丈島に流罪の途中,病没。著書「奉公心得書」。
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…〈ほうりゃくじけん〉とも読む。江戸中期に竹内式部らが処罰された事件。式部は京都に出て垂加神道と崎門派の儒学を学び,公卿に神書(《日本書紀》),儒書を講じていたが,彼らは式部の学を奉じ,中には軍学を学ぶ者があるといわれた。…
…ところが玄蕃の失脚を図る者が,大弐や友人藤井右門が甲府や江戸攻略の話をすると聞いて,それを藩主の父に告げ,玄蕃は監禁された。そこで危険が身に及ぶことを案じた大弐の門人らは,大弐が謀反を企てていると幕府に密告し,幕府が大弐らと竹内式部を捕らえて糾問した。その結果,謀反の事実はないとわかったが,1767年(明和4)に,大弐は兵学の講義で甲府その他要害の地をたとえに用いたり,天皇は行幸もできず囚人同然であるなどと語ったことが,不敬,不届きであるとして死罪,右門も獄門となった。…
※「竹内式部」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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