朝日日本歴史人物事典 「武林唯七」の解説
武林唯七
生年:寛文12(1672)
江戸前期の武士。赤穂四十七士のひとり。名は隆重。先祖は中国,武林の人で,豊臣秀吉の朝鮮出兵の際,明の援軍の一員として従軍,捕らえられて日本にきたという。播磨国(兵庫県)赤穂浅野家の長矩に仕えて中小姓,近習を務め,長矩の刃傷沙汰で浅野家が断絶すると,母のたっての希望もあって大石良雄らと盟約を結び,渡辺七郎右衛門と名を変えて仇敵吉良義央の動静を窺い,吉良邸討ち入り(1702)には義央を討ち果たす功を挙げた。その後毛利綱元邸にお預けの身となり,同志共々切腹した。
(宇田敏彦)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報