(松島榮一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
赤穂浅野家の家老。代々家老で内蔵助(くらのすけ)と称し,家禄は1500石。主君浅野長矩(ながのり)の一件に対する大石の方針は浅野家の名誉の回復であったが,名誉あるかたちでの浅野家再興を幕府に嘆願したがいれられず,長矩のけんかの相手とみなす吉良義央(きらよしなか)を殺して両成敗の処分を事実上完成させる方針に転じた。1702年(元禄15)12月14日,長矩の遺臣を率いて吉良邸に討ち入り目的をとげたが,幕府から切腹を命じられ翌年2月4日に死んだ。
執筆者:田原 嗣郎 大石良雄は赤穂浪士の討入りに取材した〈忠臣蔵物〉の作品群の中心人物で,大星由良助(ゆらのすけ)の名で親しまれている。《仮名手本忠臣蔵》においては,廓遊びもするが人の心の奥底を見抜く明知と武士としての強固な意志をそなえ,心の広い大人物として描かれている。体軀堂々たる偉丈夫という大石の人物像は,《大矢数四十七本》(1747初演)の主人公大岸宮内(大石良雄にあたる)を演じて大当りをとった初代沢村宗十郎が決定づけた。その後さらに名優たちのすぐれた点をとり入れて由良助像を完成したのが,初代尾上菊五郎であった。《古今いろは評林》では,〈家老職の体(てい)・ほど・位を考へて,菊五郎を最上ともいふなるべし〉という評価を与えられている。また,大石良雄は国定教科書《尋常小学国史》に忠義を尽くした人物として記述された。
→赤穂浪士
執筆者:中山 幹雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
赤穂(あこう)浅野(あさの)家の家老。代々家老で内蔵助(くらのすけ)と称し家禄は1500石。いわゆる赤穂事件で吉良邸討入りの首領となり、名を知られた。1701年(元禄14)浅野長矩(ながのり)が江戸城中で刃傷(にんじょう)事件を起こし、改易(かいえき)、切腹の処分を受けてから、家中をよく統制し過激な行為を抑えてまず加里屋(かりや)(仮屋)城を幕府に引き渡した。このとき早くも幕府派遣の目付(めつけ)を介して浅野家の再興を申し出ている。この事件に対する大石の基本方針は一方的な処分によって失われた浅野家の名誉の回復であり、吉良義央(きらよしなか)に対する処分と長矩の弟大学(だいがく)による浅野家の再興によってそれが果たされるとして幕府に嘆願したが、翌02年7月、大学が広島の浅野本家に御預けとなって挫折(ざせつ)した。この段階を経て大石は吉良殺害に方針を転ずる。それは刃傷事件を幕府が長矩の犯罪とみたのと異なり、喧嘩(けんか)とみて幕府の処分を片落ちとし、相手の吉良を殺して事実上両成敗の処分を完成させることで、亡君の鬱憤(うっぷん)を晴らすというよりは、浅野家の名誉回復を指向するものである。この点で堀部武庸(ほりべたけつね)(安兵衛)ら急進派とは考えが違っている。そして12月14日、大石は浅野家遺臣を率いて吉良邸を襲い、義央を殺してその首を泉岳寺(せんがくじ)の長矩の墓前に献じた。大石らの目的はそれで遂げられたが、幕府は「主人の讐(あだ)を報ずる」という彼らの理由は認めず、「公儀を恐れざるの段重々不届」として切腹を命じ、大石以下の46人は元禄(げんろく)16年2月4日に死についた。墓は東京都港区芝高輪(たかなわ)の泉岳寺。赤穂市大石神社に旧大石邸の一部を残す(国指定史跡)。
[田原嗣郎]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1659~1703.2.4
播磨国赤穂藩浅野氏の家老。幼名喜内,通称内蔵助(くらのすけ)。知行高1500石。山鹿素行に軍学を,伊藤仁斎に漢学を学んだとされる。1701年(元禄14)藩主浅野長矩(ながのり)の切腹,城地没収に際し,家中を統括して浅野家再興をめざしたが,その可能性を断たれた02年12月,吉良義央(よしなか)を殺害して,喧嘩両成敗のかたちを自力で完遂させた。幕命により熊本藩下屋敷に預けられ,翌年自刃。赤穂事件は赤穂の浪士らが幕府の方針に反した犯罪者か義士かで,当時から論争になった。一般には文学作品や演劇の題材にとりあげられるなかで,忠君の義士のイメージが定着し,大石の指導者としての理想像が形成されていった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…いわゆる急進派である。それに対して家老であった大石良雄は長矩の弟大学によって浅野家の再興を図るとともに,吉良へもなんらかの処分がなされることで浅野家の名誉回復を期待し,幕府に嘆願したが,02年7月に大学が広島浅野家に御預けとなってその望みを断たれた後は急進派に合流した。そのときまで浅野家の再興を望んで盟約を結んできた家臣の多くはここで離散した。…
…兵庫県赤穂市にあり,大石良雄以下四十七士を主神とし,萱野三平(《仮名手本忠臣蔵》の早野勘平)を併せまつる。境内地は赤穂城内大手門近くにあった大石良雄の屋敷跡にあたる。…
…もともとは,講談の《義士外伝》の一編として読まれていたものを,浪曲中興の祖といわれる桃中軒雲右衛門(とうちゆうけんくもえもん)が口演してより,浪曲の人気演目となり,2代吉田奈良丸,2代東家楽遊(あずまやらくゆう)などが十八番として売った。大石良雄が,仇討の前日,雪の降りしきるなか江戸赤坂は南部坂付近に隠遁していた瑶泉院を訪れ,それとなく別れを告げて立ち去る一席物。【矢野 誠一】。…
※「大石良雄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新