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大石良雄 おおいし よしお(よしたか)

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美術人名辞典の解説

大石良雄

江戸中期の義士。播磨赤穂藩の家老。四十七士の領袖。通称を喜内、のち内蔵助山鹿素行に軍学、伊藤仁斎に儒学を学ぶ。元禄15年(1702)四十七人の同志と吉良邸に討ち入り、主君浅野長矩の讎を復した。元禄16年(1703)歿、45才。

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デジタル大辞泉の解説

おおいし‐よしお〔おほいしよしを〕【大石良雄】

[1659~1703]播磨(はりま)赤穂(あこう)藩士。浅野長矩(あさのながのり)の家老。通称、内蔵助(くらのすけ)。主君長矩の刃傷事件により浅野家断絶後、元禄15年(1702)12月14日、同志とともに江戸両国の吉良(きら)邸に討ち入り、吉良上野介の首を取り主君の仇を討った。幕命により細川家にお預けとなり、翌年、命により切腹。→大石忌

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百科事典マイペディアの解説

大石良雄【おおいしよしお】

播磨(はりま)赤穂藩家老。通称内蔵助(くらのすけ)。1701年藩主浅野長矩が江戸城中で吉良義央を傷つけ,即日除封切腹となる。良雄は浅野家の名誉回復を図り,同家再興を幕府に嘆願したが容れられず,翌年旧藩士の同志を率いて江戸本所(ほんじょ)松坂町の吉良邸を襲い,仇討を成就。(1659-1703)

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

大石良雄 おおいし-よしお

1659-1703 江戸時代前期の武士。
万治(まんじ)2年生まれ。播磨(はりま)(兵庫県)赤穂(あこう)藩家老。儒学を伊藤仁斎(じんさい)に,兵学を山鹿素行(やまが-そこう)にまなぶ。元禄(げんろく)14年藩主浅野長矩(ながのり)が吉良義央(きら-よしなか)にきりつけて切腹・領地召し上げとなったため,城をひきわたし京都山科にうつる。翌年同志46名を指揮して江戸の吉良邸に討ち入り主君の仇(あだ)を討った。元禄16年2月4日切腹。45歳。幼名は喜内。通称は内蔵助。名は「よしたか」ともよむ。
【格言など】万山重からず君恩重し,一髪軽からず我命軽し(小刀の銘)

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朝日日本歴史人物事典の解説

大石良雄

没年:元禄16.2.4(1703.3.20)
生年:万治2(1659)
江戸時代中期の赤穂事件の浪士47人の中心的指導者。名は正しくは「よしたか」。幼名は喜内。通称は内蔵助播磨国(兵庫県)赤穂藩の重臣の家に生まれ,父権内良昭の死後,祖父内蔵助良欽の家督を嗣ぐ。若くして家老職となった。石高1500石。山鹿素行に軍学を,京の伊藤仁斎に漢学を学んだといわれるが,そのまま何もなければ,平凡な一家老で生涯を終わっていよう。史上に名を遺すこととなったのは,赤穂事件のためである。 赤穂事件のうちの第1の事件は元禄14(1701)年の勅使下向の接待役を,藩主浅野内匠頭長矩が勤めたときに起こった。3月14日,長矩が,高家筆頭吉良上野介義央を,遺恨ありとして殿中で負傷させた刃傷事件である。長矩はただちに田村右京太夫建顕の邸に預けられ,即日,切腹・断絶・城地没収が,将軍徳川綱吉の意向として決定した。一方,義央には何の咎めもなかった。 事件の報が赤穂に伝えられたのは3月19日。良雄以下の家臣は,城中に集まり,開城か,切腹か,抵抗かをめぐって論議。300人の家臣団が,残る者,去る者,それぞれ生き方を示した。良雄は家中をまとめ,また藩札・藩の借金などの処置にも努め,4月19日に城を無事に受城使脇坂淡路守安照らに引き渡した。5月21日には万事の処置を終わり,6月25日の長矩の百カ日法要を花岳寺で行うと,山城(京都府)の山科に移った。 ここから事件は仇討ちに移る。良雄は,主君の恥辱をそそぐことと,長矩の弟長広による浅野家の再興,それがかなわなかったときに義央を討つことを考えていたようであるが,世評は江戸・上方とも浪人となった旧赤穂藩士たちに同情の声が多かった。11月良雄は江戸に入り約1カ月滞在。この間,8月に義央は屋敷替えの願いを聞きとどけられて,呉服橋の邸から両国の川向うの本所一ツ目に移転,12月には孫(養子)の上杉義周が吉良の家督を相続した。赤穂の浪士の中には脱落する者も出て,良雄も長男主税をのこして妻子と離縁,伏見・島原などで遊ぶ。15年7月,長広の浅野本家預けが決まり,お家再興の望みは消えた。同月,良雄は京都円山に同志を集め,「吉良邸討入り」の意志を確認。江戸に集結した浪士47人が「討入り」を決行したのは,同年12月14~15日。義央の首級をあげ,泉岳寺の長矩の墓前に供えた。討入った浪士たちは,幕府により細川・久松・毛利・水野の4家に分れて預けられ,翌16年2月4日に切腹。遺骸は長矩の墓のそばに葬られた。この結果,事件の発端となった長矩の未熟さは追求されることなく,同情をさえ引くこととなり,浪士たちは「義士」とたたえられた。近松門左衛門の「碁盤太平記」,竹田出雲の「仮名手本忠臣蔵」など浄瑠璃歌舞伎に劇化され,あらゆる芸能によって,国民的関心といってよいほどの評判を得ている。そしてこの事件全体も「忠臣蔵」といわれるようになった。<参考文献>松島榮一『忠臣蔵』,赤穂市教育委員会『忠臣蔵』

(松島榮一)

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世界大百科事典 第2版の解説

おおいしよしお【大石良雄】

1659‐1703(万治2‐元禄16)
赤穂浅野家の家老。代々家老で内蔵助(くらのすけ)と称し,家禄は1500石。主君浅野長矩(ながのり)の一件に対する大石の方針は浅野家の名誉の回復であったが,名誉あるかたちでの浅野家再興を幕府に嘆願したがいれられず,長矩のけんかの相手とみなす吉良義央(きらよしなか)を殺して両成敗の処分を事実上完成させる方針に転じた。1702年(元禄15)12月14日,長矩の遺臣を率いて吉良邸に討ち入り目的をとげたが,幕府から切腹を命じられ翌年2月4日に死んだ。

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大辞林 第三版の解説

おおいしよしお【大石良雄】

1659~1703) 江戸中期,赤穂藩浅野家の家老。通称,内蔵助。赤穂浪士の首領。1702年12月14日浪士四六人を率いて吉良邸に討ち入り,主君浅野長矩ながのりの仇を討った。浄瑠璃などでは大星由良之助の名で登場。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

大石良雄
おおいしよしお

[生]万治2(1659)
[没]元禄16(1703).2.4. 江戸
江戸時代中期の播磨赤穂藩の家老。赤穂義士の首領。通称は内蔵助。山鹿素行に軍学,伊藤仁斎に儒学を学んだ。元禄 14 (1701) 年3月 14日,江戸城中において浅野長矩 (ながのり) が吉良義央 (きらよしなか) を傷つけ,即日切腹,領地召上げの命を受けるや,主家の再興に努力したが受入れられず,同 15年 12月 14日夜半,江戸本所吉良邸に討入り,義央の首をあげた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

大石良雄
おおいしよしお
(1659―1703)

赤穂(あこう)浅野(あさの)家の家老。代々家老で内蔵助(くらのすけ)と称し家禄は1500石。いわゆる赤穂事件で吉良邸討入りの首領となり、名を知られた。1701年(元禄14)浅野長矩(ながのり)が江戸城中で刃傷(にんじょう)事件を起こし、改易(かいえき)、切腹の処分を受けてから、家中をよく統制し過激な行為を抑えてまず加里屋(かりや)(仮屋)城を幕府に引き渡した。このとき早くも幕府派遣の目付(めつけ)を介して浅野家の再興を申し出ている。この事件に対する大石の基本方針は一方的な処分によって失われた浅野家の名誉の回復であり、吉良義央(きらよしなか)に対する処分と長矩の弟大学(だいがく)による浅野家の再興によってそれが果たされるとして幕府に嘆願したが、翌02年7月、大学が広島の浅野本家に御預けとなって挫折(ざせつ)した。この段階を経て大石は吉良殺害に方針を転ずる。それは刃傷事件を幕府が長矩の犯罪とみたのと異なり、喧嘩(けんか)とみて幕府の処分を片落ちとし、相手の吉良を殺して事実上両成敗の処分を完成させることで、亡君の鬱憤(うっぷん)を晴らすというよりは、浅野家の名誉回復を指向するものである。この点で堀部武庸(ほりべたけつね)(安兵衛)ら急進派とは考えが違っている。そして12月14日、大石は浅野家遺臣を率いて吉良邸を襲い、義央を殺してその首を泉岳寺(せんがくじ)の長矩の墓前に献じた。大石らの目的はそれで遂げられたが、幕府は「主人の讐(あだ)を報ずる」という彼らの理由は認めず、「公儀を恐れざるの段重々不届」として切腹を命じ、大石以下の46人は元禄(げんろく)16年2月4日に死についた。墓は東京都港区芝高輪(たかなわ)の泉岳寺。赤穂市大石神社に旧大石邸の一部を残す(国指定史跡)。[田原嗣郎]

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世界大百科事典内の大石良雄の言及

【赤穂浪士】より

…いわゆる急進派である。それに対して家老であった大石良雄は長矩の弟大学によって浅野家の再興を図るとともに,吉良へもなんらかの処分がなされることで浅野家の名誉回復を期待し,幕府に嘆願したが,02年7月に大学が広島浅野家に御預けとなってその望みを断たれた後は急進派に合流した。そのときまで浅野家の再興を望んで盟約を結んできた家臣の多くはここで離散した。…

【大石神社】より

…兵庫県赤穂市にあり,大石良雄以下四十七士を主神とし,萱野三平(《仮名手本忠臣蔵》の早野勘平)を併せまつる。境内地は赤穂城内大手門近くにあった大石良雄の屋敷跡にあたる。…

【南部坂雪の別れ】より

…もともとは,講談の《義士外伝》の一編として読まれていたものを,浪曲中興の祖といわれる桃中軒雲右衛門(とうちゆうけんくもえもん)が口演してより,浪曲の人気演目となり,2代吉田奈良丸,2代東家楽遊(あずまやらくゆう)などが十八番として売った。大石良雄が,仇討の前日,雪の降りしきるなか江戸赤坂は南部坂付近に隠遁していた瑶泉院を訪れ,それとなく別れを告げて立ち去る一席物。【矢野 誠一】。…

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