ライプニッツ(読み)らいぷにっつ(英語表記)Gottfried Wilhelm Leibniz

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ライプニッツ」の意味・わかりやすい解説

ライプニッツ
らいぷにっつ
Gottfried Wilhelm Leibniz
(1646―1716)

ドイツの哲学者、数学者、自然科学者。その業績は法学、歴史、神学、言語学の多方面に及び、さらに外交官、実務家、技術家としても活躍した。道徳哲学教授の子としてライプツィヒに生まれた。1661年ライプツィヒ大学で法律を学ぶこととなり、そのかたわら哲学や歴史にも興味をもった。1666年スイスのアルトドルフの大学に移り、翌1667年法律学の学位を得た。大学卒業後ニュルンベルクでマインツ侯国の有名な政治家ボイネブルクJohann Christian von Boyneburg(1622―1672)と出会い、以後マインツの国政に関係し、法典改革などに従事した。しかしこうしたうちにも力学の論文を作成し、これによってロンドンやパリの学界にその名を知られるようになる。1672年から外交上の仕事のためパリに滞在、そこで諸学者と交わり、当時の学問の先端に触れる機会をもち、とくに数学などの研究に没頭した。

 しかし、1676年ヨハン・フリードリヒ侯Duke Johann Friedrich(1625―1679)からの招きに応じてハノーバーに向かい、以後ハノーバー公の図書館長兼顧問官の職につくことになる。後継者のエルンスト・アウグスト公Duke Ernst August(1629―1698)もその夫人、公女とともに彼を信任し、ハノーバー家の家系史の編纂(へんさん)をその仕事として課した。これらの君主たちは彼に対して理解があり、この時代に彼は学問的な研究をはじめ種々の活躍をした。たとえば1700年ベルリン科学アカデミーを設立し、その初代院長になっている。しかし1698年エルンスト・アウグストが死去し、その子ゲオルグ・ルードウィヒGeorg Ludwig(1660―1727)が後継者になってからは、ただ本来の課題である家系史の完成が催促され、あまり恵まれぬ晩年であった。『形而上学叙説(けいじじょうがくじょせつ)』(1686)、『弁神論』(1710)、『単子論』(1714、1715年ごろ作成、1720年ドイツ訳刊)などが哲学上の代表著作である。

 このような学術的な研究活動とベルリン科学アカデミー創設、カトリックプロテスタントの統一の試みなどの外的活動とは、一見ばらばらのようにもみえるが、その根底には一貫した姿勢がうかがえる。ひとことでいえば、それは神を背景にすべてのものに調和をみいだそうとする思想的努力であり、調和への確信である。そしてこの点は、以下のような彼の多元論的な調和の哲学体系にはっきりと現れている。

 彼の哲学体系(単子論)では、まず単子(モナド)とよばれる新しい実体概念が導入され、世界は無数の単子から成立しているとされる。すなわち単子とは、不可分で単一的なものであるが、いわゆる原子とは異なり非延長的であり、表現représentationという非物質的な働きをその本質とするものである。そしてここでいう表現とは、単子がその単一性を保ちながらも単子自身の内なる素質に基づく自発的な展開によって、その単子にとっての外的世界(他の単子群)と対応するということであり、けっして外的世界との因果的な相互関係のようなものではない(「単子は窓をもたない」)。つまり単子は、この表現という働きの形で、多(世界全体)を己の内に含むような一であるともいえ、「宇宙の生きた鏡」ともよばれるのである。ところで、世界を構成する無数の単子は完全に同じものはなく、すべて互いに異なっているが、大きく3種に分けられる。混乱した表現をする物質単子(「裸の単子」)、意識と記憶を伴う霊魂単子、普遍的なものを認識する精神の単子である。そしてどのような単子からなるかによって、物質、動物、人間、神などの存在が考えられている。しかし同時にこれらは互いに不連続的な形で存在しているのではなく、連続的な系列をなしているとされている(「連続律」)。

 さらにライプニッツは、それぞれの単子の自発的な展開があらかじめ神によって与えられていると考え、互いに独立し、相互に因果関係のない無数の単子からなる世界にも秩序と調和が成立しているとしたのである(「予定調和」)。したがって、単子の活動の総体としての現実の世界は彼にとって最善なものとみなされてくることにもなる(「最善観」)のである。

[清水義夫]

科学的業績

ライプニッツの数学上、自然科学上の活動は、1672年パリでホイヘンスに会い、また翌1673年、短期間であったが、ロンドンに滞在中、ボイルらの数学者との出会いから始まった。ロンドン滞在中、ニュートンの曲線を扱ううえでの数学的方法、いわゆる微積分法を聞いた。彼は1672年から1676年まで外交使節としてパリに滞在しているが、その間ホイヘンスの下で数学の研究に専念している。ニュートンとともに微分積分学の発展に決定的な役割を果たしたライプニッツの記号法は、この期間に培われた数学の研究によるものであった。なお、微積分法をめぐって、その優先権がニュートンとライプニッツのどちらにあるか、学界のなかで多年の論争が続いたことは有名である。

 ライプニッツは多方面で仕事をしているが、なかでも重要な貢献は論理学、哲学と数学の分野である。ライプニッツは、イスパニアのレイモンド・ルルスの真理を発見する自動的方法をつくろうという考えを、いくつかの計算原理で置き換え、合理的に発展させようとした。学位論文「Dissertatio de Arte Cornbinatoria」(1666)は、その推論法則やその様式の整理を試みたもので、さらに数学の組合せについても論述している。さらに人間の思考過程を記号化し、記号間の演算によって完全な結論へと導くことを考えた。これは今日の命題計算の思想であった。ライプニッツにとってこの考え方は生涯つきまとった。論理学において、yがxのもっているすべての特性をもっているとき、xとyは同一であると定義する同一性の原理は、ライプニッツによるものである。また彼は、代数学が量の科学であるように、位置についての解析ができるような真の幾何学は構成できないかを研究した。この思想はのちに、線形代数やトポロジーへと発展した。

 微積分法についてのライプニッツの研究は1673年から発表されだした。そこでは、曲線に接線を引く接線問題、つまり微分法、一方、逆接線の問題、つまり無限小を集める積分法の基礎を与えた。級数とその和

はライプニッツによって得られた。ベルヌーイ一家と文通し、有理関数の積分、簡単な微分方程式を解く方法を完成した。1693年には行列式の思想をもった。また関係、座標、算法など多くの用語を導入し、無限小に使う記号dx、積分記号∫はライプニッツによって考え出された。また、1682年から学術雑誌『Acta Eruditorum』を刊行している。

[井関清志]

『園田義道訳『ライプニッツ論文集』(1976・日清堂書店)』『石黒ひで著『ライプニッツの哲学――理論と言語を中心に』(1984・岩波書店)』『河野与一訳『形而上学叙説』(岩波文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ライプニッツ」の意味・わかりやすい解説

ライプニッツ
Leibniz, Gottfried Wilhelm

[生]1646.7.1. ライプチヒ
[没]1716.11.14. ハノーバー
ドイツの哲学者,数学者。12歳のときほとんど独学でラテン語に習熟。1661年ライプチヒ大学に入学,法学と哲学を学ぶ。1666年アルトドルフ大学で法学博士号を取得。1667年からマインツ選帝侯に仕えて政策立案などを行ない,1672年にフランスのパリに派遣された。1676年帰国して死ぬまでハノーバー侯に仕えたが,晩年は不遇であった。広範な問題を取り扱ったが,数学では 1675年独自に確立した微積分法がある(→微分積分)。また彼の哲学はクリスティアン・ウォルフによって変形されつつ体系化され,普及してドイツ啓蒙主義の主潮であるライプニッツ=ウォルフ学派を形成した。主著『形而上学叙説』(1686),『人間悟性新論』(1704),『弁神論』Essais de théodicée(1710),『単子論』(1714)。

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