比井野村(読み)ひいのむら

日本歴史地名大系 「比井野村」の解説

比井野村
ひいのむら

[現在地名]二ッ井町滑良子川端なめらこかわばた下野川端しものかわばた下野家後しものいえうしろ太田面おおたおもて上山崎かみやまざき・比井野・海道上かいどううえ五千刈ごせんかり三千刈さんぜんかり山根やまね家後いえうしろ

羽州街道沿いにあり、北は荷上場にあげば村、西はたね村、南は薄井うすい村、米代川に面する。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に「百十九石壱斗一合 ひいの村」とある。天正以前は「大禿村」と称し、一五、六戸の小村で稗野ひえのとも称したといわれる(「旧比井野村由来記」二ッ井町史資料集)。佐竹氏移封後、梅津政景知行地となり、元和二年(一六一六)から寛永八年(一六三一)岩堰いわぜきを開削し、矢坂やさか(現藤里町)北端から引水して開田を行った。元和六年には二〇〇石の開田を得、その時、村のうちにあった蔵分五六石も他と交換して与えられ、全村が政景の知行地となった(「梅津政景日記」元和六年一一月二八日条)。寛永八年には「比井野薄井開成就致千四百石」(「歳代記」菊池家文書)になった。岩堰洪水などの被害が多く、薄井村とともにその維持には年々三千―六千人の人夫をあてねばならなかった。そのための捨り高も多く、宝暦元年(一七五一)の打直検地では以前の六八四石余から四三五石へ減高となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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