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梅津政景 うめづ まさかげ

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

梅津政景 うめづ-まさかげ

1581-1633 織豊-江戸時代前期の武士。
天正(てんしょう)9年生まれ。常陸(ひたち)(茨城県)の佐竹義宣(よしのぶ)につかえ,慶長7年出羽(でわ)久保田(秋田県)への転封(てんぽう)にしたがう。兄憲忠(のりただ)の死後家老となる。「梅津政景日記」は藩政のほか武士や庶民の生活も記録した貴重な史料。寛永10年3月10日死去。53歳。下野(しもつけ)(栃木県)出身。通称は主馬。

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朝日日本歴史人物事典の解説

梅津政景

没年:寛永10.3.10(1633.4.18)
生年:天正9(1581)
江戸時代初期の武士。秋田藩士。下野国(栃木県)宇都宮生まれ。幼時,父に従って常陸国太田(茨城県常陸太田市)に入り,長じて佐竹氏の老臣人見氏に仕えた。兄憲忠が佐竹義宣にとりたてられると,政景もその同朋(茶坊主)となり,金阿弥と称した。慶長7(1602)年,義宣が出羽に転封されると,政景兄弟もそれに従って久保田(秋田市)に入った。秋田藩主となった義宣の意を受けて,同8年,新参の家臣の進出に反感を持つ譜代門閥の代表格,河井忠遠を謀殺し,これが出世への契機となった。同14年,開坑して間もない院内銀山に赴任し,山奉行としてその振興に努めた。同19年の大坂冬の陣では一夜でその軍割を完了し,また夏の陣では従軍して勘定方を差配するなど,算用面においても能吏としての手腕を発揮した。その一方,檜山郡藤琴・比井野両村の農民を指導して,岩堰用水を開設した。武術だけではなく,文筆,算用,土木技術など多方面に優れた能力を持ち,家柄や係累にかかわりなくその力量で頭角を現した,全く新しいタイプの武士であった。こののち,兄憲忠に続いて家老となり,義宣の片腕として藩政の確立に尽力した。寛永10(1633)年,藩主義宣が没すると,その葬儀をとりしきり,あとを追うように生涯をとじた。なお,政景は,およそ21年間におよぶ自筆の日記を残しており(『梅津政景日記』),成立期の藩政を知るうえで貴重な史料となっている。<参考文献>山口啓二「梅津政景」(『幕藩制成立史の研究』)

(金森正也)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典内の梅津政景の言及

【院内銀山】より

…藩は銀山奉行のほか蔵役人や十分一役人らを派遣し,直山(じきやま)として支配した。初期には《梅津政景日記》の筆者で家老にまで昇進した梅津政景が院内銀山奉行として手腕をふるい,1614年には政景を初任として総金山奉行が設けられ,院内銀山奉行から昇任することが例となった。院内銀山の直山支配は当初から湧水に悩まされ,水貫(みずぬき)すなわち排水の成否が銀産を左右した。…

【梅津政景日記】より

…出羽秋田藩主佐竹義宣の家臣梅津政景の日記。原本21巻25冊。…

※「梅津政景」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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