朝日日本歴史人物事典 「梅津政景」の解説
梅津政景
生年:天正9(1581)
江戸時代初期の武士。秋田藩士。下野国(栃木県)宇都宮生まれ。幼時,父に従って常陸国太田(茨城県常陸太田市)に入り,長じて佐竹氏の老臣人見氏に仕えた。兄憲忠が佐竹義宣にとりたてられると,政景もその同朋(茶坊主)となり,金阿弥と称した。慶長7(1602)年,義宣が出羽に転封されると,政景兄弟もそれに従って久保田(秋田市)に入った。秋田藩主となった義宣の意を受けて,同8年,新参の家臣の進出に反感を持つ譜代門閥の代表格,河井忠遠を謀殺し,これが出世への契機となった。同14年,開坑して間もない院内銀山に赴任し,山奉行としてその振興に努めた。同19年の大坂冬の陣では一夜でその軍割を完了し,また夏の陣では従軍して勘定方を差配するなど,算用面においても能吏としての手腕を発揮した。その一方,檜山郡藤琴・比井野両村の農民を指導して,岩堰用水を開設した。武術だけではなく,文筆,算用,土木技術など多方面に優れた能力を持ち,家柄や係累にかかわりなくその力量で頭角を現した,全く新しいタイプの武士であった。こののち,兄憲忠に続いて家老となり,義宣の片腕として藩政の確立に尽力した。寛永10(1633)年,藩主義宣が没すると,その葬儀をとりしきり,あとを追うように生涯をとじた。なお,政景は,およそ21年間におよぶ自筆の日記を残しており(『梅津政景日記』),成立期の藩政を知るうえで貴重な史料となっている。<参考文献>山口啓二「梅津政景」(『幕藩制成立史の研究』)
(金森正也)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報