朝日日本歴史人物事典 「毛利秀元」の解説
毛利秀元
生年:天正7.11.7(1579.11.25)
安土桃山・江戸前期の長府藩祖。毛利元就の4男穂田元清の子。備中国猿掛城(岡山県矢掛町)で生まれる。幼名は宮松丸。右京大夫,伊予守,甲斐守,侍従,参議。毛利輝元の養子となり,豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には,輝元名代として2度渡海。慶長4(1599)年毛利秀就に惣領(輝元の後継)の地位を譲り,長門国ほかの国割を受けて別家を立てた。関ケ原の戦後長府(山口県下関市)3万6200石の分知を受け,串崎城を築城。毛利の両川(吉川元春,小早川隆景)の後継者として,吉川広家と共に毛利一門の重しとなった。14年証人(人質)として在江戸。秀就の行儀や付合いへの意見者となり,さらに幕府年寄との折衝役を務めた。元和9(1623)年~寛永8(1631)年本藩財政改革の統轄役として,寛永検地,知行替えなどを主導した。茶の湯に堪能で,将軍徳川家光に献茶をしたこともある。<参考文献>田中誠二「毛利秀元論」(『山口県地方史研究』62号)
(田中誠二)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報