イギリスの思想家。『総合哲学体系』(A System of Synthetic Philosophy, 10 vols. 1862〜1896)によって進化論に基づく独自の哲学体系を樹立しようとした。ダービーの教員の子として生まれ、叔父が経営する学校で数年間学んだ以外ほとんど学校教育を受けず、17歳から鉄道技師として勤務しながら、ダーウィンとはまったく別個の進化論に基づく総合哲学を構想したが、彼の思想の基底には、非国教徒的自由主義と産業革命による社会の構造的変化に対する楽天的な自信があった。彼は、1848年から『エコノミスト』誌の副主筆をしながら『社会静学』Social Staticsの大著を書き、1851年に刊行したが、本書は、社会進化の究極に実現すべき理想社会を詳説することによって、非国教徒的急進主義を理論化しようとする野心作であった。彼は、1853年に副主筆をやめて、多方面の執筆活動を続けながら『総合哲学体系』の構想を具体化させ、不安定な健康と資金難に悩みながら1860年、40歳の年にこの大事業に着手した。1896年、76歳に至って全10巻の大著を完成させたが、その内容は次のとおりである。
「第一原理」First Principles, 1862、「生物学原理」Principles of Biology, 2 vols. 1864〜1867、「心理学原理」Principles of Psychology, 2 vols. 1870〜1872、「社会学原理」Principles of Sociology, 3 vols. 1876〜1896、「倫理学原理」Principles of Ethics, 2 vols. 1879〜1893
彼は、実在者の本性は不可知であるとして、科学の目的は可知のものを追求することであると主張するとともに、部分的な知識としての科学とは異なる知識の体系としての哲学の地位を確立しようとした。その基本概念としての進化evolutionとは、物質の結集integrationすなわち連関coherenceの増大であり、「無規定な連関なき同質性」indefinite, incoherent homogeneityから「規定的な連関ある異質性」definite, coherent heterogeneityへと進化するということであり、彼は、進化の法則によって、生物、天体、社会などのすべてを総合的に理解しようとした。「社会学原理」には、強制的協同compulsory co-operationに基づく軍事型社会militant type of societyから、自発的協同voluntary co-operationに基づく産業型社会industrial type of societyへという有名な社会進化の法則が膨大な資料の裏づけによって述べられたが、それは、産業革命による社会進化に対する楽天的な視点に立脚するものであって、本書が完結した19世紀末の社会問題に対する洞察を著しく欠いていた。
スペンサーは、明治前半期の日本に大きな影響を与えた。『社会静学』が松島剛(まつしまこう)(1854―1940)訳『社会平権論』(1881〜1883)の名訳によって紹介され、「民権の教科書」として愛読された。またスペンサー自身が森有礼(もりありのり)、金子堅太郎などの明治政府の要人と親交し、社会進化論の立場から社会の段階に即した政治制度の漸進的な確立を忠告したことは、異質文化との接触という観点から再検討すべき問題である。
[山下重一 2015年7月21日]
『中島重著『スペンサー』(1935・三省堂)』▽『山下重一著『スペンサーと日本近代』(1983・御茶の水書房)』▽『J. D. Y. PeelHerbert Spencer, The Evolution of a Sociologist (1971, Heinemann, London)』▽『D. WiltshireThe Social and Political Thought of Herbert Spencer (1978, Oxford University Press)』
イギリス・ルネサンス期の頂点を示す詩人の1人。ロンドン生まれ。ケンブリッジ大学に入学したが、貧困ゆえに減費生の扱いを受ける。卒業後、ロチェスターの主教ヤングの秘書となる。やがて大学時代の友人を通じてレスター伯の知遇を受け、伯の甥(おい)シドニーを中心とする詩人たちと知り合う。1579年『牧人の暦』を出版。このころ『妖精(ようせい)女王(フェアリー・クイーン)』の執筆にかかる。また、結婚もしたらしい。1580年、新総督グレー卿(きょう)に伴われ秘書としてアイルランドに渡る。その後、行政官として生活の本拠をこの植民地に置き、86年にはキルコルマンに城と領地を買い求める。植民地政策として、力による弾圧がもっとも有効であると考え、その所見を『アイルランドの現状についての考察』(1633)に展開している。86年シドニーの死に際して牧歌体挽歌(ばんか)『アストロフェル』(1595)を書く。89年ロンドンに帰り、翌年『妖精女王』の前半三巻を出版。エリザベス女王はこの詩を喜び、詩人に年金50ポンドを与えるが、彼が期待する宮廷での官職は得られず、むなしくアイルランドへ戻った。女王賛美と宮廷風刺の牧歌『コリン・クラウト故郷に戻る』(1595)は、このときの体験を素材にしている。
91年、初期習作を集めて詩集『嗟嘆(さたん)』を出版。これには、動物寓意(ぐうい)詩の形で宮廷人を風刺する「ハバードばあさんの話」が含まれている。同年、挽歌『ダフナイダ』を出版。
1594年エリザベス・ボイルと再婚。求愛の過程はソネット集『アモレッティ(恋愛小曲集)』(1595)に、婚礼の喜びは情熱的で格調の高いオード『エピサレーミオン(結婚祝歌)』(1595)に歌われている。96年ふたたびロンドンに滞在、『妖精女王』後半三巻を出版。ウースター伯息女の結婚を祝う『プロサレーミオン(結婚前祝歌)』、新プラトン主義的哲学詩『賛歌四編』(「愛」「美」「天上の愛」「地上の美」、前二者は若いころの作)もこの年の出版。98年アイルランドで反乱が起こり、キルコルマンの城は焼かれ、スペンサーはロンドンに逃げ帰ったが、翌年1月16日、失意のうちに死去。遺骸(いがい)はウェストミンスター寺院の「詩人の一隅」、チョーサーのかたわらに葬られた。
[藤井治彦]
『フリーマン著、藤井治彦訳『スペンサー』(1970・研究社出版)』▽『藤井治彦他著『ルネッサンスと反ルネッサンス』(1974・学生社)』
アメリカの画家。ロード・アイランドのポータケットに生まれる。1916年、ニューヨークに出てフェリー・スクールで学んだのち、ヨーロッパに留学。帰国後はニュー・イングランドに住んで海辺の光景を描いたが、1923年からニューヨークに移り、好んで都市の建造物を描いた。大都会の人工的環境を明晰(めいせき)な幾何学的構成で描き出す作風は、具象絵画でありながらくっきりした輪郭と色面による抽象美をもっており、チャールズ・シーラー、チャールズ・デミュスCharles Demuth(1883―1935)らとともにプレシジョニスト(精密派)の名称でよばれる。
[石崎浩一郎]
19世紀イギリスの哲学者,社会学者。ダービーに教員を父として生まれた。学校教育を受けず,父と叔父を教師として家庭で育った。ロンドン・バーミンガム鉄道の技師(1837-45)および《エコノミスト》誌の編集部員(1848-53)を経て,1853年以後死ぬまでの50年間はどこにも勤めず,結婚もせず,秘書を相手に著述に専念した。大学とは終生関係をもたない在野の学者であったが,著作が増えるにつれて彼の名声はしだいに高まり,とりわけその社会進化論と自由放任主義はJ.S.ミルや鉄鋼王A.カーネギーをはじめ多くの理解者,信奉者を得て,当時の代表的な時代思潮になった。晩年は栄光に包まれただけでなく,その思想はアメリカにW.サムナーのような有力な後継者を見いだして,1920年代アメリカの社会学,社会思想の中枢をなした。
彼の主著は膨大な《総合哲学体系A System of Synthetic Philosophy》(1862-96)で,全10巻の構成は,第1巻《第一原理》(1862),第2~3巻《生物学原理》(1864-67),第4~5巻《心理学原理》(1870-72),第6~8巻《社会学原理》(1876-96),第9~10巻《倫理学原理》(1879-93)となっている。その哲学観は,実証的科学の提供する知識以外のところに何か哲学固有の知識の領域があるということはなく,諸科学の分化した知識を包括し統合することが哲学であるという,科学中心主義の哲学である。だから彼が総合哲学と呼ぶものは,諸科学が提供する進化についての知識,たとえば天文学が教える天体の進化,生物学が教える生物進化,社会学が教える社会進化等についての知識を統合した,進化についての一般原理を体系化することを目的とする。彼が進化というのは物質の集中化と運動の分散化であり,この進化の法則は無機体,有機体,社会(彼は社会を超有機体であるとした)を通じてあてはまる。彼の社会学はこの進化の法則を社会発展に対してあてはめ,これを未開社会や歴史上の諸社会についての文献的知識によって例証したものである(社会進化論)。社会に関して物質の集中化に相当するのは,人類が小規模の部族社会から国民社会にむかって統合化の規模を拡大してきたことである。また社会に関して運動の分散化に相当するのは,機能分化が進み環境への適応能力を増してきたことである。統合化の度合いが進むにつれて社会は,単純社会→複合社会→二重複合社会→三重複合社会,と進化する。また環境への適応様式が進むにつれて社会は,軍事型社会から産業型社会へと進化する。
スペンサーの社会学は,有機体システムとのアナロジーによって社会を〈システム〉としてとらえ,これを維持システム,分配システム,規制システムに分かち,社会システムの〈構造〉と〈機能〉を分析上の中心概念とした点で,現代社会学における構造-機能分析の先駆とされる。またその社会進化論に裏打ちされた自由放任主義,すなわちいっさいの人為的な規制を廃することが最大の進歩を実現するという考え方は,自由放任という経済政策上に発する概念を,社会全般に拡大したものとして重要な意義をもち,とりわけ政府規制を好まないアメリカで熱狂的に迎えられた。また同じ理由から,彼の諸著作は明治10~20年代の日本で自由民権運動の思想的よりどころとして迎えられ,数多くの訳書が出版された。
執筆者:富永 健一
イギリスの詩人。ロンドンの毛織物業者の子として生まれ,ケンブリッジ大学で古典語,フランス語,イタリア語などを学んだ。卒業後しだいに宮廷詩人としての道を歩みはじめたが,当時の複雑な権力機構のなかで,ついに主流に近づくことはできなかった。1579年から,〈イギリス・ルネサンスの華〉とうたわれるフィリップ・シドニー卿のサークルに入り,華麗な詩才を開花させていく。翌年,このサークルとのつながりもあって,新しいアイルランド総督アーサー・グレー卿の秘書となり,結局,生涯の大半を官吏としてアイルランドで過ごす。やがてキルコルマンの城と周辺の土地を領有したが,アイルランド人の反乱によってそこを追われ,ロンドンに帰って没した。
彼の詩人としての第一歩は《羊飼いの暦》(1579)からはじまる。1月から12月までの12編から成る,多様な主題を扱う牧歌詩で,その典雅流麗なる調べは,ついにイギリスにもルネサンスが到来したことを,当時の人々に確信せしめた。テオクリトス,ウェルギリウス,そしてフランスのC.マロらの古典的牧歌の枠組みを応用しているが,羊飼いの優雅なる無為有閑という伝統的テーマは踏襲されていない。むしろ苦難に耐えて自己の職務を遂行するキリスト教新教徒の暗喩として,新しい羊飼いの類型が模索されているといえよう。それは新興国イギリスの活力に満ちた政治・宗教意識を支えとしていた。畢生(ひつせい)の大作《神仙女王》(第1~3巻は1590年,第4~6巻は1596年,第7巻は未完)も,官能的な絵画美,音楽美を第一の特徴とするが,同時に熱烈な政治意識と,真剣な新教徒倫理観念に貫かれている。牧歌詩からスタートして叙事詩で詩人としての完成に至るという創作のプログラムは,古典文学からの伝統であり,12の美徳を表す12人の騎士のひとりひとりを各巻の主人公とし,全12巻の構成の中心に神仙女王グロリアーナ(すなわち当時のエリザベス女王)を据えるビジョンの壮大さ,および,それが個人の手に余って未完に終わるという結末は,ルネサンス的といえるだろう。古来彼が〈詩人のなかの詩人〉と呼ばれるのは,その豊富美麗なる詩語,達意の修辞・統語法,多様なる詩的型式の駆使などのゆえであろうが,これらの諸特質は思想的・倫理的バックボーンに支えられてはじめて作品に構成されえた。ほかにソネット集《アモレッティ》などがある。
執筆者:川崎 寿彦
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1820~1903
イギリスの哲学者。ダーウィンの進化論の立場から,自然,社会,歴史すべての現象を体系的に統一して把握する社会進化論を唱え,当時の社会に強い影響を与えた。
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…女子服でも,ルイ16世時代には,イギリスの婦人乗馬服に由来する〈カラコcaraco〉と呼ばれる丈の短い市民調のジャケットが,パニエを用いずに自然にふくらまされたスカートとアンサンブルで着られるようになる。そのほか,フランス革命期には,イギリスの男子用上衣にヒントを得た,衿つきのボレロ風な〈スペンサーspencer〉も用いられた。この時代には,男女とも初めは頭を小さく見せるように小型の鬘を用いたり,白い髪粉(かみこ)をふりかける風習が流行した。…
… これには二つの流れがあった。一方の代表はイギリスのH.スペンサーであり,彼は,社会は生物進化と同型の原因と理論によって,不可避的に進化し進歩すると考えた。南北戦争後のアメリカは保守的色彩が強まり自由放任経済が歓迎されたため,スペンサーの思想はイギリスでよりもアメリカで受け入れられた。…
… この変化の過程を一定の方向に向かっての直線的で累積的なものとしてとらえるのが社会進化論の立場である。その初期の提唱者スペンサーは生物進化論の影響のもとに,社会の進化を強制的協力の支配する軍事型社会から自発的協力が支配する産業型社会への移行とみた。この進化の過程がより望ましく,よりすぐれた社会状態に向けての変化としてとらえられるとき,それは社会進歩と呼ばれる。…
…その弟子コントは社会有機体l’organisme socialの語を創始し,生物と構成要素の細胞との類比によって社会を超個人的実在であると説き,社会の解剖学的・生理学的研究として社会静学,社会の成長の研究として社会動学を設けた。社会有機体説を論拠づけ国際的に普及させたのはスペンサーで,彼は生物も社会も無機体と異なり,時の経過につれて量が自然に増し,構造と機能とが分化・異質化しつつ,相互依存を強めて全体の統合が進むという共通点があることから〈社会は有機体であるA society is an organism〉と断定し,ダーウィン的な社会進化論を提起した。その後,この説は,シェフレ,リリエンフェルト,ウォルムスなどに継承され,19世紀の支配的な社会理論となったが,20世紀に入って社会の科学的研究が進むにつれ廃れた。…
…19世紀になり,C.ダーウィンの自然淘汰説の先駆となる研究もいくつかあらわれたが,当時は注目されず,チェンバーズR.Chambersの著作《創造の自然史の痕跡》(1844)が自然神学との混合のような進化論ではあったが,一般の関心をよび多くの議論を起こさせた。C.ダーウィンの進化学説公表の直前にでたH.スペンサーの進化論では,進歩の観念との関係がきわめて密接である。彼は等質の状態から異質の状態に進むことをもって進歩であるとし,生物の進化をその一環として規定した。…
…訳語は明治40年代からのものである。ハクスリー以外では,人間の認識を有限なものの経験に制限し,無限で絶対的な神については学的な認識はありえず,ただ信仰による道徳的確信をもちうるのみと説くW.ハミルトン,進化の法則で現象界を説明し認識しうるが,相対的な現象,事実の認識は科学的には思考されえぬ実在ないし力,すなわち〈知られえざるものthe Unknowable〉を前提するとし,現象や事実をその〈表明〉とみなすH.スペンサーなどが不可知論者に属する。すなわち不可知論は,絶対者,無限者は知られえない(知られうるのは有限者,相対者のみである)とするか,理論的・対象的には知られえない絶対的なものが,理論的認識,科学以外の人間の態度にとっては存在すると説くか,二つの型に分かれるのである。…
…英詩も,華やかに,のびやかに,成熟した。E.スペンサーの《神仙女王》(1590‐96,1609)では,近代国家としてのイギリスの国力がにわかに充実したことについての誇らかな自覚と,英語を詩的表現の媒体としてしなやかに使いこなせるようになった自信とが,しっかりと結びついている。もちろんそれは〈グロリアーナ(栄光女王)〉としてのエリザベスの宮廷に向けて歌われた。…
…また,華麗な文体で書かれたジョン・リリーの恋愛物語《ユーフュイーズ》やフィリップ・シドニーの牧歌的ロマンス《アーケイディア》はイギリス最初の小説として,1611年に公刊された《欽定訳聖書》とともに,文学史上特記さるべき地位を保っている。詩の分野では,絵画的描写と音楽美にあふれたエドマンド・スペンサーの長大な寓意叙事詩《神仙女王》が名高いが,ソネットをはじめとするさまざまな詩形の短い抒情詩も流行した。17世紀にはいると,当時の新旧思想の対立を背景に知的奇想と逆説的機智を特徴とするいわゆる〈形而上詩〉が盛んになり,それを代表するジョン・ダンの詩は20世紀初頭の近代詩運動に大きな影響を及ぼした。…
…イギリス・ルネサンス期を代表する詩人E.スペンサーの寓意叙事詩。第1~3巻は1590年,第4~6巻は96年刊,第7巻は未完。…
※「スペンサー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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