スペンサー(読み)すぺんさー(英語表記)Herbert Spencer

日本大百科全書(ニッポニカ) 「スペンサー」の意味・わかりやすい解説

スペンサー(Herbert Spencer)
すぺんさー
Herbert Spencer
(1820―1903)

イギリスの思想家。『総合哲学体系』(A System of Synthetic Philosophy, 10 vols. 1862〜1896)によって進化論に基づく独自の哲学体系を樹立しようとした。ダービーの教員の子として生まれ、叔父が経営する学校で数年間学んだ以外ほとんど学校教育を受けず、17歳から鉄道技師として勤務しながら、ダーウィンとはまったく別個の進化論に基づく総合哲学を構想したが、彼の思想の基底には、非国教徒的自由主義と産業革命による社会の構造的変化に対する楽天的な自信があった。彼は、1848年から『エコノミスト』誌の副主筆をしながら『社会静学Social Staticsの大著を書き、1851年に刊行したが、本書は、社会進化の究極に実現すべき理想社会を詳説することによって、非国教徒的急進主義を理論化しようとする野心作であった。彼は、1853年に副主筆をやめて、多方面の執筆活動を続けながら『総合哲学体系』の構想を具体化させ、不安定な健康と資金難に悩みながら1860年、40歳の年にこの大事業に着手した。1896年、76歳に至って全10巻の大著を完成させたが、その内容は次のとおりである。

 「第一原理」First Principles, 1862、「生物学原理」Principles of Biology, 2 vols. 1864〜1867、「心理学原理」Principles of Psychology, 2 vols. 1870〜1872、「社会学原理」Principles of Sociology, 3 vols. 1876〜1896、「倫理学原理」Principles of Ethics, 2 vols. 1879〜1893
 彼は、実在者の本性は不可知であるとして、科学の目的は可知のものを追求することであると主張するとともに、部分的な知識としての科学とは異なる知識の体系としての哲学の地位を確立しようとした。その基本概念としての進化evolutionとは、物質の結集integrationすなわち連関coherenceの増大であり、「無規定な連関なき同質性」indefinite, incoherent homogeneityから「規定的な連関ある異質性」definite, coherent heterogeneityへと進化するということであり、彼は、進化の法則によって、生物、天体、社会などのすべてを総合的に理解しようとした。「社会学原理」には、強制的協同compulsory co-operationに基づく軍事型社会militant type of societyから、自発的協同voluntary co-operationに基づく産業型社会industrial type of societyへという有名な社会進化の法則が膨大な資料の裏づけによって述べられたが、それは、産業革命による社会進化に対する楽天的な視点に立脚するものであって、本書が完結した19世紀末の社会問題に対する洞察を著しく欠いていた。

 スペンサーは、明治前半期の日本に大きな影響を与えた。『社会静学』が松島剛(まつしまこう)(1854―1940)訳『社会平権論』(1881〜1883)の名訳によって紹介され、「民権の教科書」として愛読された。またスペンサー自身が森有礼(もりありのり)、金子堅太郎などの明治政府の要人と親交し、社会進化論の立場から社会の段階に即した政治制度の漸進的な確立を忠告したことは、異質文化との接触という観点から再検討すべき問題である。

[山下重一 2015年7月21日]

『中島重著『スペンサー』(1935・三省堂)』『山下重一著『スペンサーと日本近代』(1983・御茶の水書房)』『J. D. Y. PeelHerbert Spencer, The Evolution of a Sociologist (1971, Heinemann, London)』『D. WiltshireThe Social and Political Thought of Herbert Spencer (1978, Oxford University Press)』


スペンサー(Edmund Spenser)
すぺんさー
Edmund Spenser
(1552?―1599)

イギリス・ルネサンス期の頂点を示す詩人の1人。ロンドン生まれ。ケンブリッジ大学に入学したが、貧困ゆえに減費生の扱いを受ける。卒業後、ロチェスターの主教ヤングの秘書となる。やがて大学時代の友人を通じてレスター伯の知遇を受け、伯の甥(おい)シドニーを中心とする詩人たちと知り合う。1579年『牧人の暦』を出版。このころ『妖精(ようせい)女王(フェアリー・クイーン)』の執筆にかかる。また、結婚もしたらしい。1580年、新総督グレー卿(きょう)に伴われ秘書としてアイルランドに渡る。その後、行政官として生活の本拠をこの植民地に置き、86年にはキルコルマンに城と領地を買い求める。植民地政策として、力による弾圧がもっとも有効であると考え、その所見を『アイルランドの現状についての考察』(1633)に展開している。86年シドニーの死に際して牧歌体挽歌(ばんか)『アストロフェル』(1595)を書く。89年ロンドンに帰り、翌年『妖精女王』の前半三巻を出版。エリザベス女王はこの詩を喜び、詩人に年金50ポンドを与えるが、彼が期待する宮廷での官職は得られず、むなしくアイルランドへ戻った。女王賛美と宮廷風刺の牧歌『コリン・クラウト故郷に戻る』(1595)は、このときの体験を素材にしている。

 91年、初期習作を集めて詩集『嗟嘆(さたん)』を出版。これには、動物寓意(ぐうい)詩の形で宮廷人を風刺する「ハバードばあさんの話」が含まれている。同年、挽歌『ダフナイダ』を出版。

 1594年エリザベス・ボイルと再婚。求愛の過程はソネット集『アモレッティ(恋愛小曲集)』(1595)に、婚礼の喜びは情熱的で格調の高いオード『エピサレーミオン(結婚祝歌)』(1595)に歌われている。96年ふたたびロンドンに滞在、『妖精女王』後半三巻を出版。ウースター伯息女の結婚を祝う『プロサレーミオン(結婚前祝歌)』、新プラトン主義的哲学詩『賛歌四編』(「愛」「美」「天上の愛」「地上の美」、前二者は若いころの作)もこの年の出版。98年アイルランドで反乱が起こり、キルコルマンの城は焼かれ、スペンサーはロンドンに逃げ帰ったが、翌年1月16日、失意のうちに死去。遺骸(いがい)はウェストミンスター寺院の「詩人の一隅」、チョーサーのかたわらに葬られた。

[藤井治彦]

『フリーマン著、藤井治彦訳『スペンサー』(1970・研究社出版)』『藤井治彦他著『ルネッサンスと反ルネッサンス』(1974・学生社)』


スペンサー(Niles Spencer)
すぺんさー
Niles Spencer
(1892―1952)

アメリカの画家。ロード・アイランドのポータケットに生まれる。1915年ニューヨークに出てフェリー・スクールで学んだのち、ヨーロッパに留学。帰国後はニュー・イングランドに住んで海辺の光景を描いたが、23年からニューヨークに移り、好んで都市の建造物を描いた。大都会の人工的環境を明晰(めいせき)な幾何学的構成で描き出す作風は、具象絵画でありながらくっきりした輪郭と色面による抽象美をもっており、チャールズ・シーラー、チャールズ・デュマスらとともにプレシジョニスト(精密派)の名称でよばれる。

[石崎浩一郎]


スペンサー(Sir Stanley Spencer)
すぺんさー
Sir Stanley Spencer
(1891―1959)

イギリスの画家。バークシャーのクッカムに生まれ、ロンドンのスレード美術学校に学ぶ。1912年、第2回後期印象派展に参加し、50年ロイヤル・アカデミー会員になり、59年にはナイトに叙せられた。しかし、ほとんど故郷の町に引きこもって制作し、『荒野のキリスト』など、聖書やキリスト教説話に題材をとった独自に素朴な作風である。62年、生地クッカムにスタンリー・スペンサー・ギャラリーが開設された。

[岡本謙次郎]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スペンサー」の意味・わかりやすい解説

スペンサー
Spenser, Edmund

[生]1552頃.ロンドン
[没]1599.1.13. ロンドン
イギリスの詩人。織物商の家に生れ,ケンブリッジ大学に学んだ。在学中から詩作にふけっていたが,卒業後レスター伯の庇護を受け,やがて P.シドニーと親交を結び,文学者のクラブともいうべき「アレオパガス」を興し,詩集『羊飼いの暦』 Shepheardes Calender (1579) によって名をなしたが,レスター伯が女王の不興を買ったため,スペンサーもロンドンを去り,グレー卿の秘書としてアイルランドに渡り (80) ,1588年にはキルコルマン城を得て植民地の高級官吏としてゆうゆうたる文筆生活をおくり,大作『神仙女王』 Faerie Queeneの最初の3卷を 90年に発表した。宮廷に入ることを念願として,友人 W.ローリーの援助を得て 89年にロンドンに戻ったが,その志を得ずしてアイルランドに帰ることになった。その心境を伝える詩が『コリン・クラウト故郷に帰る』 Colin Clouts Come Home Againe (95) である。これと前後して,エリザベス・ボイルとの結婚をみずから祝福した『結婚祝歌』 Epithalamion (95) ,ウースター伯の娘の婚約を祝う『祝婚前曲』 Prothalamion (96) を書いた。その後アイルランドに暴動が起り,彼は公務を帯びてロンドンに滞在中病死をとげた。代表作『神仙女王』は完成をみず,第7卷の断片までを加えたものが 1609年に刊行されたが,その豊麗なイメージと音楽的な韻律によって 16世紀における最大の英詩とされている。

スペンサー
Spencer, Herbert

[生]1820.4.27. ダービー
[没]1903.12.8. ブライトン
イギリスの哲学者。学校教育のあり方に疑問を感じ,大学に入らず,独学であった。ダービーの学校教師を3ヵ月つとめたのち,1837~41年鉄道技師となる。その後,『パイロット』紙の記者を経て,48年経済誌『エコノミスト』の編集次長となったが,53年伯父の遺産を相続したため退職し,以後,著述生活に入った。終生独身で,大学の教壇に立たず,民間の学者として終った。進化論の立場に立ち,10巻から成る大著『総合哲学』 The Synthetic Philosophy (1862~96) で,広範な知識体系としての哲学を構想した。哲学的には,不可知論の立場に立ち,かつ哲学と科学と宗教とを融合しようとした。社会学的には,すでに『社会静学』 Social Statics (51) を著わしたが,社会有機体説を提唱した。日本では,彼の思想は外山正一らの学者と板垣退助らの自由民権運動の活動家に受入れられ,『社会静学』は尾崎行雄により『権理提綱』 (72,改訂 82) として抄訳され,また松島剛 (たけし) により『社会平権論』 (81) として訳されたほか,多数の訳書がある。ほかに『教育論』 Education (61) ,『社会学研究』 The Study of Sociology (73) ,『自叙伝』 An Autobiography (1904) 。

スペンサー
Spencer, Sir Walter Baldwin

[生]1860. ストラトフォード
[没]1929.7.14. メルボルン
イギリスの民族学者。メルボルン大学教授。 F.ギレンとともにオーストラリア先住民の研究に従事。主著"The Native Tribes of the Northern Territories of Australia" (1914) 。ギレンとの共著に"The Native Tribes of Central Australia" (1899) がある。

スペンサー
Spencer, John Charles, Viscount Althorp and 3rd Earl of Spencer

[生]1782.5.30. ロンドン
[没]1845.10.1. ノッティンガムシャー,クレーワース近郊
イギリスの政治家。ケンブリッジ大学卒業後,下院議員 (1804~34) としてホイッグ党進歩派に加わる。カニング派とホイッグ党の連合には消極的であった。 1830年からホイッグ党の下院指導者となる。 C.グレー内閣のもとで蔵相をつとめ,32年の選挙法改正案の議会通過に尽力。 34年爵位を継いで引退。

スペンサー
Spencer, Sir Stanley

[生]1891.6.30. バークシャー,クッカム
[没]1959.12.14. バッキンガムシャー
イギリスの画家。スレード美術学校に学ぶ。写実的な風景,風俗画を多く描いたが,いずれもきわめて宗教的な内容を秘めている。代表作に『復活』 (1928~29) などがある。これは戦死した兵士の復活を描いたきわめて神秘的,象徴的なもの。 1950年ロイヤル・アカデミー会員に選ばれ,59年ナイトに叙せられた。

スペンサー
spencer

18世紀末から 19世紀なかばにかけ,ヨーロッパの男性が着用した短上衣,または女性や子供の着用した極度に短い上衣。この種の上着を初めて着用したイギリス人 G.スペンサーの名に由来する。また 18世紀のイギリスのかつらのこともいう。

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