オランダ共和国(読み)オランダきょうわこく(その他表記)Republiek der Verenigde Nederlanden

改訂新版 世界大百科事典 「オランダ共和国」の意味・わかりやすい解説

オランダ共和国 (オランダきょうわこく)
Republiek der Verenigde Nederlanden

ネーデルラント北部の7州がユトレヒト同盟(1579)を結成し,スペイン国王フェリペ2世の統治から独立して建国した連邦共和国。正式には〈ネーデルラント連邦共和国〉。共和国は1648年のウェストファリア条約で正式に承認されたが,実質的には16世紀末に独立を達成し,17世紀にはヨーロッパ貿易において圧倒的優位を占めたばかりでなく,アジアにおいてもポルトガルを抑えてコショウ貿易を支配し,ヨーロッパ随一の経済的繁栄を実現し,同時に文化の黄金時代を築いた。共和国はまた,重商主義期の国際貿易をめぐるヨーロッパ国際政治の展開に重要な役割を果たした。しかし注目すべきことに,共和国はその国家体制,社会・経済構造,文化的特質において,17世紀ヨーロッパの支配的傾向と際だった対照を示していた。すなわち当時の絶対王制諸国家群の中で,この国は君主も強力な中央政府ももたない極端な分権主義的原理に立つ連邦共和国であって,連邦を構成する7州はそれぞれ州主権を有し,また諸州の内部では各都市は強大な自治権を享受していた。ことにアムステルダムをはじめとするホラント州諸都市の大商人たちは社会的経済的上層部を形成し,都市,州,連邦の統治を掌握して共和国の政治的支配者になった。同時代のイギリスやフランスが国民経済の建設,国民的生産力の展開を実現したのに反して,共和国においては,支配階級である大商人層が唱道する商業自由の原則や分権国家体制によって,資本主義的国民経済形成への道は妨げられ,保護主義による工業発展も農業の展開も阻止された。他方,17世紀中葉絶頂に達したオランダの国民文化は,繁栄する都市と富裕な市民層を基盤とする質実で剛健な市民的性格をその特質とし,例えば当時の美術は,ヨーロッパ諸国の主流であった宮廷,貴族の城館,教会を飾る壮大華麗なバロック様式と著しい対照を示している。共和国は18世紀に入るとしだいに衰微し,1795年フランス軍の侵入とともに崩壊し,1815年オランダ王国となった。

16世紀前半,ネーデルラントは神聖ローマ帝国皇帝でスペイン王を兼ねるオーストリア・ハプスブルク家のカール5世の統治下にあった。カールはブリュッセルに政庁を置き,諸州,諸都市の自立性が強い分権的なネーデルラントに集権的な統一的支配を導入しようとし,また,当時この地方に普及しつつあったカルバン主義を禁止してカトリック教会を擁護した。1555年カール5世はネーデルラントの統治を息子のフェリペ2世(スペイン王。在位1556-98)に譲った。フェリペもまたブリュッセルの政庁を通じてネーデルラントに対する集権的統治を強化し,新教徒を激しく弾圧した。

 ネーデルラント住民はフェリペがスペイン流の異端審問所をこの地方に導入することを恐れ,伝統的に享受してきた自治の特権が侵犯されることを警戒した。ことにこの地方で大勢力を張ってきたオラニエ公ウィレム1世,エフモント公ら大貴族は,統治の中枢から排除されることを恐れ,政庁に公然と反抗を開始した。66年,数百名の中小貴族がブリュッセルに集まって盟約を結び,執政パルマ公妃マルガレータに面会して新教禁止の緩和を訴え,乞食団を結成した。また,カルバン派の市民や農民は貴族の援護のもとに野外説教集会を開き,ついに教会や修道院を襲う聖像破壊運動(イコノクラスム)を引き起こした。翌年約1万の軍隊を率いてブリュッセルに到着したスペインの勇将アルバ公は,乞食団やカルバン派を徹底的に弾圧し,騒擾評議会(血の評議会)を設けて恐怖政治を行った。

 68年ドイツに亡命していたオラニエ公はネーデルラントに進攻して失敗するが,ここに八十年戦争(-1648)の幕が切って落とされる。72年,海外に亡命していた〈海乞食zeegeuzen〉の船隊は奇襲作戦でホラント,ゼーラント両州の諸都市を占拠した。オラニエ公は両州の総督(スタットハウデル)に任じられて反乱の指導者に推され,スペイン軍に包囲されたアルクマールライデンを次々に解放した。76年,オラニエ公は反乱軍の占拠した2州とスペイン軍支配下にある諸州との間に〈ヘントの和平Pacificatie van Gent〉を成立させ,全ネーデルラントの統一と平和を実現することに成功した。

1579年,北部7州とフランドル,ブラバント両州の諸都市はユトレヒト同盟を締結してスペイン軍と戦うことを誓った。ここにネーデルラントは南(ベルギー)と北(オランダ)に分裂し,オランダ共和国はその原型を与えられた。81年ユトレヒト同盟に結集する7州(邦)の連邦議会は,フェリペ2世に対する臣従拒否,すなわちスペインからの独立を決議した。しかし,執政パルマ公の率いるスペイン軍はユトレヒト同盟に参加した南部の諸都市を征服し,さらに北部諸州を攻略し,84年オラニエ公は暗殺された。ウィレム亡きあと,オルデンバルネフェルトは連邦議会を舞台に北部諸州の団結に心を砕き,オラニエ公の若い息子マウリッツは軍事総司令官として,スペイン軍の占領した諸都市を次々に奪回した。こうして共和国は95年ごろまでに,7州のほぼ全領域を解放して実質的な独立を達成し,1609年スペインと12年間の休戦条約を締結した。

 休戦の成立とともに議会派と総督派(オラニエ派)の政治的対立,カルバン派とアルミニウス派の宗教的紛争が激化した。休戦条約を推進したオルデンバルネフェルトを中心とする議会派は,アムステルダムをはじめとするホラント州諸都市の大商人・大市民層からなり,連邦議会を基盤に共和国を支配してきた。議会派は州主権と分権主義を唱え,宗教的にはアルミニウス派とほぼ重なっていた。総督派は,総督の政治的指導による中央集権体制の実現を目ざし,軍人(封建貴族),中小市民,カルバン派に支持されて対スペイン戦争の継続を主張した。1618年,総督マウリッツはクーデタを起こし,30年以上共和国を導いた議会派の指導者オルデンバルネフェルトを逮捕し,翌年処刑した。

 マウリッツのあとを継いだ総督フレデリック・ヘンドリックも優れた武人で,21年再開された対スペイン戦争を優勢に展開し,北ブラバント,リンブルフ両州を共和国領に加え,35年にはフランスと攻守同盟を結んでスペイン領南ネーデルラントを脅かした。

オランダはウェストファリア条約でスペインと和を講じ,諸列強からその独立を承認され,経済的繁栄の絶頂期と文化の黄金時代を迎えた。すでに中世末期からオランダの諸都市,ことにアムステルダムはバルト海からの穀物,木材などの輸入や海運業によって活発な中継貿易を展開してきた。1585年北ヨーロッパ最大の国際的貿易港アントワープがスペイン軍に占領されると,この港の大商人たちはアムステルダムに移住し,巨額の資本と国際的な取引関係をもたらし,アムステルダムの貿易活動はバルト海に加えて,スペイン,イタリア,レバントへと一挙に拡大した。1602年成立した連合東インド会社はアジア貿易に進出し,ジャワ島のバタビア(現,ジャカルタ)を拠点に,ポルトガル人が1世紀にわたって築き上げたコショウ貿易の独占的地位を奪った。当時の対日貿易においては,ポルトガル,イギリスを抑えたオランダが,ヨーロッパ諸国中,唯一の相手国であった。工業発展もめざましく,南ネーデルラントから移住した織元や織布工によってライデンはヨーロッパ有数の毛織物工業都市になり,また中継貿易に基礎を置く加工業(精糖,精塩,タバコ製造,毛織物仕上げ,絹織物・麻織物漂白,醸造)が各都市に発展した。商工業の繁栄で蓄積された巨額の資本は,17世紀中葉以降アムステルダムを西欧最大の金融市場に押し上げた。

 アムステルダムをはじめとするホラント州諸都市の富裕な市民層の間には独自の国民文化が創造され,オランダ文化の黄金時代が開花した。画家レンブラント,フェルメール(オランダ美術),哲学者スピノザ,国際法の創始者グロティウスらが出現し,近代ヨーロッパ文化のさきがけとなった。オランダ人の実用的才能はまた造船,干拓,築堤の技術を生み,銀行,取引所,株式会社をはじめ商業取引の組織や技術を発展させた。

 経済,文化の絶頂期にあった17世紀中葉のオランダは,そのゆえにイギリスやフランスから経済的政治的挑戦を受けた。2度の英蘭戦争(1652-54,1665-67)はこの国にとって大きな災厄だったが,総督ウィレム2世が早逝したのち始まった第1回無総督時代(1650-72)の共和国を指導した議会派の大政治家ウィトと名提督トロンプ,ロイテルらの活躍によって,オランダは難局を乗り切ることができた。しかし72年,英仏連合艦隊と強大なフランス陸軍が襲ったとき,オランダの国力は大きな痛手を被り,経済的繁栄の活力は失われた。フランス軍がホラント州に迫ったとき,ウィトは退き,代わってウィレム2世の遺子若いウィレム3世が総督に任ぜられてフランス軍を撤退させ,祖国救出の大任を果たした。

ウィレム3世はイギリスの名誉革命で妻メアリーとともにイギリスの共同統治者に迎えられ,共和国総督のままイギリス王ウィリアム3世となった。18世紀に入ると,イギリス,フランスの経済力と国力の発展はめざましく,これに反してアムステルダムはなおヨーロッパの金融・資本市場として大きな存在だったとはいえ,オランダは全体として貿易も工業も停滞した。1702年ウィリアム3世が後継者なく没すると,ナッサウ家の一支脈がオラニエ家を継ぎオラニエ=ナッサウ家となったが,総督職は置かれず,第2回無総督時代(1702-47)が始まり,門閥市民による寡頭貴族制が続いた。

 1747年,オーストリア継承戦争に際し,フランス軍がオランダに侵入すると,オランダの現状に不満を抱く中下層市民は,民衆運動を展開して〈民主派Democraten〉と呼ばれた。民主派は民主的改革と集権的政体を要求し,オラニエ=ナッサウ家のウィレム4世を7州の総督に就任させることに成功した。しかし,民主派の力で総督になったウィレム4世もその子ウィレム5世もむしろ保守的で,門閥市民の支配は揺るがなかったので,民主派はさらに広範な市民層を巻き込んで反総督派を形成し,〈愛国党Patriotten〉と称して急進化した。94年大革命下のフランス軍が南ネーデルラントを占領してオランダに向かうと,共和国は戦わずして降伏した。翌年ウィレム5世がイギリスに亡命すると,愛国党の人びとは革命委員会を結成し,フランスにならって〈人権宣言〉を発し,バタビア共和国を建設,200年にわたるオランダ共和国と門閥市民による寡頭貴族制に終止符が打たれた。
八十年戦争
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百科事典マイペディア 「オランダ共和国」の意味・わかりやすい解説

オランダ共和国【オランダきょうわこく】

正式にはネーデルラント連邦共和国。八十年戦争後,1648年ウェストファリア条約で列国から正式に独立を承認された。各州は主権を有し,各都市はほとんど完全な自治権を享受した。ことにアムステルダムの大商人層が率いるホラント州会は,この国の財政の過半を負担したため,連邦議会に強大な発言力を占めた。17世紀中葉は政治,経済,文化の最盛期で,レンブラントグロティウススピノザなどを輩出した。同世紀後半,英,仏との戦争を経て没落,1795年フランス軍の侵入により崩壊,1815年オランダ王国となった。
→関連項目ウィトウィレム[1世]ウィレム[1世]オラニエ=ナッサウ[家]オランダハーグユトレヒトユトレヒト同盟

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「オランダ共和国」の解説

オランダ共和国(オランダきょうわこく)

正式にはネーデルラント連邦共和国(Republiek der Verenigde Nederlanden)。オランダ独立戦争の結果,1648年ウェストファリア条約によって独立が承認された。17世紀にはヨーロッパの経済,文化の中心的な存在となったが,同世紀の後半以降,イギリス,フランスの台頭によって衰退し,1795年フランス軍の侵入を受けて崩壊。バタヴィア共和国をへて,1815年オランダ王国となった。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のオランダ共和国の言及

【オランダ】より

…ロッテルダムのエラスムスは生涯の多くを国外で過ごしたが,平和と寛容を基調とする彼の人文主義はのちのちまでこの地方の市民に大きな影響を与えた。
[オランダ共和国――経済,文化の黄金時代]
 1555年カール5世はネーデルラントの統治を息子フェリペ2世(スペイン国王,在位1556‐98)の手にゆだねた。59年以後スペインに住むフェリペはブリュッセルに執政を置いて,ネーデルラントを統治させた。…

【バタビア共和国】より

オランダ共和国(ネーデルラント連邦共和国)の崩壊後に成立したオランダの統一国家(1795‐1806)。バタビアBataviaの語は,ネーデルラントのライン川北方に住んでいたバタウィ人Batavenの名に由来する。…

【レヘント】より

…オランダ共和国における都市統治者,すなわち各都市の市長および市参事会員で,その多くは富裕な商人層の出身者によって占められた。元来,自治都市を統治する市参事会員は選挙によって選ばれた富裕な上層市民であったが,共和国時代の多くの都市において市参事会員は終身制となり,そのうえ欠員は参事会員の互選によって補充されたので,市参事会員は少数の有力門閥出身によって占められるようになった。…

※「オランダ共和国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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