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水野忠辰 みずの ただとき

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

水野忠辰 みずの-ただとき

1722-1752 江戸時代中期の大名。
享保(きょうほう)7年生まれ。水野忠輝の長男。元文2年(1737)三河(愛知県)岡崎藩主水野家6代となる。藩財政の立て直し,人材登用をすすめるが,重臣層のつよい抵抗をうけて失敗。失意から遊興にふけり,宝暦元年座敷牢(ろう)におしこめられた。翌2年3月隠居,同年8月18日死去。31歳。通称は監物。

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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

水野忠辰

没年:宝暦2.8.18(1752.9.25)
生年:享保7(1722)
江戸中期の大名,三河国(愛知県)岡崎藩主。初め織部のち監物と称した。諱は初め忠欣。水野忠輝の長男。元文2(1737)年に16歳で襲封。儒教的理念に基づいた政治を実現すべく,旧来の門閥を打破して中下士層の人材を積極的に登用して改革を推し進め,改革に従わぬ拝郷源左衛門らの家老,重臣は相次いで罷免していった。これに対して寛延2(1749)年の1月の賀式に水野三郎左衛門ら重臣以下の家臣団は一斉不出仕をもって抵抗の意思を表し,藩内は武力発動寸前の緊迫した空気に包まれたが,結局,忠辰が側近たちを解任する形で紛争の決着がつけられた。そののち忠辰は吉原の遊興に明け暮れる生活が続き,生母順性院の中陰の間も放埒の所為がおさまらなかったために,宝暦1(1751)年10月に老臣たちの手で座敷牢に押し込められた。水野家は養子をもって家督相続し,忠辰は翌年8月に幽居の中で没した。<参考文献>北島正元『近世史の群像』,笠谷和比古『主君「押込」の構造』

(笠谷和比古)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典内の水野忠辰の言及

【岡崎藩】より

…三河国(愛知県)岡崎に藩庁を置いた譜代中藩。徳川家康はこの地を本拠に独立し,のち天下統一に乗り出した。1590年(天正18)家康の関東移封後,豊臣秀吉によって田中吉政が岡崎に封ぜられたが,1601年(慶長6)関ヶ原の戦の功によって筑後久留米に移され,かわって家康の腹心の一人本多康重が5万石で入封した。康重は領内検地を実施,天守閣を築き,城下町の整備につとめるなど藩政の成立に努力した。康重のあと康紀,忠利とつづき,45年(正保2)利長のとき遠江国横須賀に移され,水野忠善が三河国吉田から5万石で入封した。…

【三河国】より

…最初吉田藩,のち岡崎藩主となった水野忠善(ただよし)は,家康に仕えた三河以来の歴戦の勇士で譜代意識が強く,鬼監物と呼ばれて数々の逸話の持主である。中期以降は藩財政の困窮もあってその再建が試みられたが,なかでは岡崎藩の水野忠辰(ただとき)による藩政改革の試みと田原藩での渡辺崋山の活躍が注目される。忠辰は重臣の反対を押し切って人材を登用し,藩政の刷新を試みたが反対が多く,ついには改革も失敗し,座敷牢に入れられ,悲劇の名君といわれている。…

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