朝日日本歴史人物事典 「水野忠辰」の解説
水野忠辰
生年:享保7(1722)
江戸中期の大名,三河国(愛知県)岡崎藩主。初め織部のち監物と称した。諱は初め忠欣。水野忠輝の長男。元文2(1737)年に16歳で襲封。儒教的理念に基づいた政治を実現すべく,旧来の門閥を打破して中下士層の人材を積極的に登用して改革を推し進め,改革に従わぬ拝郷源左衛門らの家老,重臣は相次いで罷免していった。これに対して寛延2(1749)年の1月の賀式に水野三郎左衛門ら重臣以下の家臣団は一斉不出仕をもって抵抗の意思を表し,藩内は武力発動寸前の緊迫した空気に包まれたが,結局,忠辰が側近たちを解任する形で紛争の決着がつけられた。そののち忠辰は吉原の遊興に明け暮れる生活が続き,生母順性院の中陰の間も放埒の所為がおさまらなかったために,宝暦1(1751)年10月に老臣たちの手で座敷牢に押し込められた。水野家は養子をもって家督相続し,忠辰は翌年8月に幽居の中で没した。<参考文献>北島正元『近世史の群像』,笠谷和比古『主君「押込」の構造』
(笠谷和比古)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報