水野忠辰(読み)みずの ただとき

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「水野忠辰」の解説

水野忠辰 みずの-ただとき

1722-1752 江戸時代中期の大名
享保(きょうほう)7年生まれ。水野忠輝長男。元文2年(1737)三河(愛知県)岡崎藩主水野家6代となる。藩財政の立て直し,人材登用をすすめるが,重臣層のつよい抵抗をうけて失敗失意から遊興にふけり,宝暦元年座敷牢(ろう)におしこめられた。翌2年3月隠居,同年8月18日死去。31歳。通称監物

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の水野忠辰の言及

【岡崎藩】より

…三河国(愛知県)岡崎に藩庁を置いた譜代中藩。徳川家康はこの地を本拠に独立し,のち天下統一に乗り出した。1590年(天正18)家康の関東移封後,豊臣秀吉によって田中吉政が岡崎に封ぜられたが,1601年(慶長6)関ヶ原の戦の功によって筑後久留米に移され,かわって家康の腹心の一人本多康重が5万石で入封した。康重は領内検地を実施,天守閣を築き,城下町の整備につとめるなど藩政の成立に努力した。康重のあと康紀,忠利とつづき,45年(正保2)利長のとき遠江国横須賀に移され,水野忠善が三河国吉田から5万石で入封した。…

【三河国】より

…最初吉田藩,のち岡崎藩主となった水野忠善(ただよし)は,家康に仕えた三河以来の歴戦の勇士で譜代意識が強く,鬼監物と呼ばれて数々の逸話の持主である。中期以降は藩財政の困窮もあってその再建が試みられたが,なかでは岡崎藩の水野忠辰(ただとき)による藩政改革の試みと田原藩での渡辺崋山の活躍が注目される。忠辰は重臣の反対を押し切って人材を登用し,藩政の刷新を試みたが反対が多く,ついには改革も失敗し,座敷牢に入れられ,悲劇の名君といわれている。…

※「水野忠辰」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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