江戸時代の1752年(宝暦2)から89年(寛政1),寛政改革で弾圧されるまで流行した風刺的な小説の総称。当時〈教訓本〉〈よみ本〉〈談義本〉などといわれたが,実際は1752年の静観坊好阿(じようかんぼうこうあ)の《当世下手談義(いまようへただんぎ)》から始まった小説であるから,〈談義本〉という呼称が適当であろう。《下手談義》は宝暦の世相を風刺した滑稽小説であるが,大きな反響を呼び,《教訓雑長持》《当風辻談義》などの後続作を生んだ。そして宝暦期の終りに平賀源内の《根南志具佐(ねなしぐさ)》《風流志道軒伝》の2作が出て,《下手談義》とともに〈宝暦始終の華なり〉(《古朽木》)と称賛された。明和期(1764-72)に入ると,《当世不問語(とわずがたり)》《当世穴鑿穿(あなさがし)》《興談浮世袋》《当世穴噺》といった世間の“穴”をさがしこれを暴露する談義本が流行したが,これらには好阿・源内の影響が強く見られる。この傾向は安永期(1772-81)に入っても,ますますさかんになってゆくが,1774年に出た遊谷子《異国奇談和荘兵衛》は,《風流志道軒伝》の影響下に出たとはいえ,和荘兵衛が自在国,矯飾国,好古国,自暴国などを巡る風刺的遍歴小説として好評であった。また談義本の一系統である粋(いき)談義も,1754年(宝暦4)刊の《当世花街(くるわ)談義》以来,宝暦・明和・安永・天明を通じて流行した。しかし寛政改革は,当時の黄表紙や洒落本への弾圧と同じく,談義本にも打撃を与え,談義本は風刺性を失い,馬琴などの読本に席を譲った。
→談義
執筆者:野田 寿雄
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享保(きょうほう)(1716~36)のなかばごろから安永(あんえい)・天明(てんめい)(1772~89)ごろまで、主として庶民教化を看板に掲げて、種々の社会風俗の微細な欠陥を笑いを交えて指摘し、描写するのを旨とした滑稽本(こっけいぼん)の一群をいう。基本型は半紙本四冊から五冊の藍色(あいいろ)表紙。初期は徳川吉宗(よしむね)の享保の改革政治に従った庶民童蒙(どうもう)教化運動の一端として位置し、増穂残口(ますほざんこう)の『艶道通鑑(えんどうつがん)』による世相批判や佚斎樗山(いっさいちょざん)の『田舎荘子(いなかそうじ)』に発する教訓寓話(ぐうわ)の形式をとるが、静観坊好阿(じょうかんぼうこうあ)作『当世下手(いまようへた)談義』(1752)によって仏教談義の舌講調が文章に採用され、世俗卑近の話題が豊富に取り上げられるに至って、その滑稽な内容と表現は大いに歓迎されて江戸を中心に流行し、談義本の名がある。さらに伊藤単朴(たんぼく)作『銭湯新話(せんとうしんわ)』などが続くが、やがて内容の教訓性よりも世相一般の穴探しのほうへと趣向が移り、ますます滑稽性を増大させて、滑稽本の世界を生み出す母体となる。後期江戸小説の出発点でもある。
[中野三敏]
『中野三敏著『戯作研究』(1981・中央公論社)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…江戸中期に知識人の余技として作られはじめた新しい俗文芸をいう。具体的には享保(1716‐36)以降に興った談義本,洒落本(しやれぼん)や読本,黄表紙,さらに寛政(1789‐1801)を過ぎて滑稽本(こつけいぼん),人情本,合巻(ごうかん)などを派生して盛行するそのすべてをいう。またその作者を戯作者と称する。…
…真宗僧存覚の著した談義本。奥書によると,元亨4年(1324)1月12日,仏光寺了源の要請により,当時流布していた一本を添削して製作したという。…
※「談義本」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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