タウングー朝(読み)タウングーちょう(その他表記)Toungoo

改訂新版 世界大百科事典 「タウングー朝」の意味・わかりやすい解説

タウングー朝 (タウングーちょう)
Toungoo

1531年ダビンシュウェティーによって創建され,51年バインナウンによって基礎が固められたビルマ(現ミャンマー)の王朝。1531-1752年。トゥングー朝ともいう。バインナウンの子ナンダバインの死(1599)でいったん瓦解したが,その弟ニャウンヤンおよびその子アナウペッルンによって1605年に再建され,1752年にモン軍の手で倒されるまで続いた。13世紀末のパガン朝滅亡とシャン系王朝の出現とによって南方への民族移動を起こしたビルマ族は,シッタウン川上流のタウングーに城砦を構築したものの,14世紀にはまだシャン族アバ朝に従属していた。しかし200年後の16世紀前半には独立した政治勢力に成長し,ダビンシュウェティーの治世についに全土の統一に成功した。さらにバインナウン時代の1556年にはチエンマイ,64年にはアユタヤ,74年にはビエンチャンといったタイ族諸王国の攻略をも成し遂げ,広大な王国を築き上げた。

 しかし強力な中央集権体制に欠けていたため,81年のバインナウンの死後王権分裂,小国割拠の状態に陥った。この混乱はバインナウンの孫アナウペッルンAnaykpetlunによって1605年収拾された(したがってこれ以後はニャウンヤン朝ともよばれる)。王都ペグーは,オランダ,イギリスとの交易で栄えたが,南部のモン族反乱と東部のシャン族への警戒とから,28年タールン王は都を内陸部のアバへ移した。ビルマ族が去った下ビルマでは,再びモン族が勢力を盛り返した。アバの王権は,亡命してきた南明の永明王を一時は受け入れながら,清朝から引渡しを要求されると拒絶することができないほど弱体化していた。18世紀に入り,たび重なるインドのマニプル軍の侵入,チエンマイの離反,中国系流賊グエの跋扈(ばつこ)などに加えて,洪水干ばつ飢饉などの天災で極度に衰弱したアバは,1752年ビンニャダラの率いるモン軍に攻撃されて陥落した。最後の王チャーターバデーはハンターワディーに連行のうえ処刑され,タウングー朝は消滅した。
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百科事典マイペディア 「タウングー朝」の意味・わかりやすい解説

タウングー朝【タウングーちょう】

ビルマ(現ミャンマー)の王朝(1531年―1752年存続)。トゥングー朝とも。パガン朝の崩壊後,下ビルマのタウングーToungooに逃げたビルマ族は,シャン族のアバ朝,モン族のペグー朝と抗争し,16世紀前半にダビンシュウェティー王が出てビルマを再統一した。16世紀後半バインナウン王時代にはチエンマイアユタヤビエンチャンなどのタイ族諸王国を攻略。初めモン族との融和政策により成功し,ペグーに都して領土を広げ,西欧人も来航・通商した。約100年後,融合政策をやめたため,モン族は離反し,その攻撃によって滅んだ。
→関連項目ミャンマー

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「タウングー朝」の意味・わかりやすい解説

タウングー朝
たうんぐーちょう
Taungoo

ビルマの王朝(1486~1599)。下ビルマ、シッタン川の上流部に位置するタウングーは、14世紀後半から上ビルマでの戦禍を避けた流民を吸収しつつ勢力を蓄え、ミンチィーニョーMyingyinyo(在位1486~1531)のとき王朝を開いた。次王ダビンシュエティーThabinshweihti(在位1531~50)は、下ビルマのモン人やポルトガル人勢力を服属させ、都をペグー(現バゴー)に移した。その義弟バインナウン王Bayinnaung(在位1551~81)は、1555年アバ朝を滅ぼして上ビルマ、シャン丘陵一帯を手中に収め、アユタヤやラオスのビエンチャンをも攻略、制圧した。しかし王室の直轄地はデルタ地帯に限られ、他のビルマ諸地方にはバイン(王)の称号をもつ親王・王子を派遣し、シャン丘陵その他は従来どおり土侯の支配にゆだね、貢納のみを課した。したがって、周辺地方はつねに離反する傾向にあり、たび重なる遠征はデルタ地方の物的・人的資源を枯渇させ、ナンダバイン王Nandabayin(在位1581~99)のときに王朝は崩壊した。

[伊東利勝]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「タウングー朝」の意味・わかりやすい解説

タウングー朝
タウングーちょう
Toungu

ビルマの王朝 (1531~1752) 。 13世紀末から 16世紀初めにかけて,ビルマはアバ,タウングー,ペグーの3国に分裂していた。 16世紀に入り,徐々に勢力を得ていったタウングーは,領主ミンチニョーの統治のもとでビルマ第1の強国に成長。ミンチニョーの子タビンシュエティー (在位 1531~50) は,モン族ペグー朝を併合した連合王朝を樹立し,国都をペグーに定めた。 16世紀中頃タイ,アラカンへ遠征したが失敗し,国内は乱れ王はモン族に暗殺された。ビルマは分裂の危機に立ちいたったが,第3代バインナウン王は再統一に成功し,南はペグー,北はアバ,東はチエンマイ,ラオスへ遠征した。 17世紀に入ると内政ではビルマ語法典を編纂,納税台帳を作成し,外政では西欧諸国との衝突を避けるため都を北方のアバへ移した。しかし 17世紀後半に中国の清朝軍,タイのナーラーイ王軍の侵入,モン族の内乱が続き,同世紀末にはイギリスとフランスが沿岸地方に船舶修理所を建設するにいたった。内憂外患をかかえた王朝は 1752年モン族に滅ぼされた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「タウングー朝」の解説

タウングー朝(タウングーちょう)
Taunggu/Toungoo

1531~98

タウングーはビルマ南部,シッタウン川流域にあって,中央平原地帯とデルタの中間点に位置する交通の要衝。1491年周辺の城市を併合し,ダビンシュエティー大王(在位1531~50)は1538年イラワジ川流域全体を支配下に置き,都をペグーに遷した。東はラオスまで支配圏を広げ農業と海上交易で栄えたが,地方には「王」の支配する城市が存在したため,政権は安定しなかった。98年ヤカインやアユタヤの攻撃を受け,崩壊した。

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世界大百科事典(旧版)内のタウングー朝の言及

【ダビンシュウェティー】より

…タウングー朝ビルマの実質的創建者。在位1531‐50年。…

【ミャンマー】より

…16世紀中ごろ,ダビンシュウェティーバインナウンといった傑出した指導者の出現とともに,ビルマ族は史上2度目の国土統一を達成する。タウングー朝ビルマはチエンマイ,アユタヤ,ビエンチャンといったタイ族諸王国を攻略して強大な王国に成長したものの,相次ぐ遠征に伴う絶えざる兵士の徴発,農地の荒廃,国力の衰退といった悪循環を引き起こした。17世紀から18世紀にかけて,西方のマニプル,北方の清などのたび重なる侵犯やチエンマイの離反,新興勢力グウェの勃興などによって衰弱したタウングー朝は,1752年南方のモン族の手で倒された。…

※「タウングー朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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