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徳川吉宗 とくがわ よしむね

デジタル大辞泉の解説

とくがわ‐よしむね〔トクがは‐〕【徳川吉宗】

[1684~1751]江戸幕府第8代将軍。在職1716~1745。紀伊藩主徳川光貞の四男。紀州藩主から将軍となり、幕府財政の改革幕政の強化につとめ、享保の改革を行った。

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百科事典マイペディアの解説

徳川吉宗【とくがわよしむね】

江戸幕府8代将軍(1716年―1745年)。紀伊(きい)和歌山藩2代藩主徳川光貞の四男。諡号(しごう)有徳院。初名頼方(よりかた),1705年和歌山藩主を継いで吉宗と改名。
→関連項目大岡忠相御庭番御触書集成懐徳堂寛政改革享保金銀公事方御定書三卿巡見使菅野兼山政談鷹匠足高田中丘隅田安家田安宗武朝鮮人参座日光社参一橋家ます寿し室鳩巣目安箱蘭学

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

徳川吉宗 とくがわ-よしむね

1684-1751 江戸幕府8代将軍。在職1716-45。
貞享(じょうきょう)元年10月21日生まれ。徳川光貞(みつさだ)の4男。母はお由利の方(浄円院)。はじめ越前(えちぜん)丹生(にう)郡に3万石の領地をあたえられる。長兄綱教(つなのり),次兄頼職(よりもと)があいつぎ死去したため,宝永2年紀伊(きい)和歌山藩5代藩主となり,藩財政の立て直しに実績をあげた。享保(きょうほう)元年徳川家継(いえつぐ)の跡をつぎ,将軍となる。倹約の実行,実学の奨励,新田の開発,目安箱の設置など享保の改革をおこなう。米価対策に力をそそぎ米将軍(米公方(くぼう))とよばれた。寛延4年6月20日死去。68歳。幼名は源六,新之助。初名は頼方(よりかた)。法号は有徳院。
【格言など】政事(せいじ)は鳥のしばしば飛(とぶ)が如し。少も由(油)断致すべからざる義なり(「紀州政事草」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

徳川吉宗

没年:宝暦1.6.20(1751.7.12)
生年:貞享1.10.21(1684.11.27)
江戸幕府第8代将軍。幼名は源六,新之助。諱ははじめ頼方,のち吉宗。徳川御三家のひとつ紀州(和歌山)藩徳川家の第2代藩主光貞の4男。和歌山生まれ。元禄8(1695)年に12歳で元服し,越前国(福井県)丹生郡において3万石の領地が与えられる。宝永2(1705)年,長兄綱教,次兄頼職の相次ぐ病死によって紀伊徳川家55万石を相続した。次いで享保1(1716)年,7代将軍家継が8歳の幼少で死去すると後継者問題が起こったが,すでに紀州藩主としても声望の高かった吉宗が徳川宗家を継承することとなり,8代将軍として迎えられた。 吉宗は,側用人偏重に流れていたそれまでの政治体制を改め,家康の時代のあり方への回帰を標榜することによって名門旗本や老中ら譜代諸勢力の支持を取り付けるとともに,元禄時代以来の華美と放漫な支出によって破産状態になっていた幕府財政の再建に着手した。いわゆる享保の改革である。まず倹約を徹底するかたわら,応急処置として諸大名に石高1万石につき米100俵の割合で上米を要請。他方では定免法を採用するとともに,商人の資力を導入して新田開発を奨励した。江戸市政に関する諸制度も享保期に改革整備されたものが多く,なかでも町火消の設置と商工業者の仲間・組合の結成などが重要だが,これらには吉宗によって抜擢され江戸町奉行を勤めた大岡越前守忠相の功績が大きかった。また統一的な裁判規範となる『公事方御定書』の編纂には,評定所一座が主体となって取り組み,吉宗自身も原案に対して具体的な意見や指示を繰り返し,寛保2(1742)年3月に完成した。幕府の行政制度の充実も計り,勘定所を中心として機構整備を進めたが,さらに行財政改革を推進するために有能者を抜擢登用する制度として享保8年に足高制を導入した。これは役職ごとに基準石高を設定し,その高におよばない少家禄者には,その差額(「足高」)を在職中に限り支給する制度である。これによって,例えば役職高3000石の勘定奉行についても,500石未満層の幕臣の任用される割合が,これ以降は4割以上にのぼったのである。法制の整備と相まって行政官僚制の充実発展は吉宗の功績の大なるもののひとつである。 さらに吉宗の政治で重要なことは,単に幕府自身の利益の追求だけでなく,国富,国益というものに大きな関心を向けていったことである。吉宗は長崎貿易については,新井白石の正徳新例を永世の良法として支持し,金銀などの貴金属の国外流出を防ぎ,輸入品もなるべく国産物で代替していく産業政策をとった。輸入生糸(白糸)や絹織物は17世紀のうちに国産化が進行していたが,吉宗は全国各地に採薬使を派遣して,国内産薬種の発見や栽培に努めた。人工栽培が困難とされていた朝鮮人参の栽培に取り組み,20年にわたる試行錯誤の末その国産化に成功。甘蔗(さとうきび),甘藷,櫨などの国産化もすすめ,特に甘藷の栽培は青木昆陽によって国内各地に広められ,救慌作物として大きな役割を果たした。こうした国産開発政策は,幕府の諸大名を動員した日本国内の産物,自然物の総合調査としての諸国産物取り調べ(1734)へと拡大され,次に,全国各地の物産や希少品を一堂に会して展覧する物産会の開催を民間において流行させ,産業開発を目的とする物産学を発達させた。それとともに博物学や自然誌といった,より学術的な関心と知識とを人々にもたらすことによって科学思想の発達を促すこととなった。吉宗は産業の開発に役立つ実学を奨励し,科学技術的な知識を得ようとして,漢訳洋書の輸入制限の緩和をすすめた。さらにヨーロッパ原書の知識を直接吸収すべく昆陽や野呂元丈をオランダ語の学習に取り組ませたが,彼らは蘭学の先駆者ともなっていくのであり,吉宗の推進した一連の政策はわが国の近代化にとって重要な役割を果たしたのである。<参考文献>辻達也『徳川吉宗公伝』

(笠谷和比古)

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江戸・東京人物辞典の解説

徳川吉宗

1684〜1751(貞享元〜宝暦元)【八代将軍】享保の改革で幕府を近代化。 飛鳥山、隅田川堤に桜を植えた。八代将軍(在職1716〜45)。紀州藩主光貞の4男。1705年、家督を継ぐ。家継が亡くなり、将軍家の血筋が途絶えた後を受け、御三家の中から選ばれて将軍に就任。自ら質素倹約に努め、新田開発の推進など、逼迫した幕府財政の立て直しを図った。また、官僚機構の整備、目安箱、小石川養生所町火消しの設置、飛鳥山や墨田川堤などへの桜植樹など、政治、経済、社会全般にわたる政策を展開。この享保の改革により、江戸幕府は新しいシステムに生まれかわった。

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世界大百科事典 第2版の解説

とくがわよしむね【徳川吉宗】

1684‐1751(貞享1‐宝暦1)
江戸幕府8代将軍。紀州2代藩主徳川光貞の四男。幼名源六。初名頼方。1697年(元禄10)越前国丹生郡3万石を与えられた。1705年(宝永2)兄が相次いで死去したので紀州藩主を相続,吉宗と改名。藩政改革に努め,倹約励行,士風振粛,財政健全化などの諸政策には,後の幕政改革の原型とみなしうるものがある。16年(享保1)4月7代将軍家継の死去により,老中らに推されて将軍となる。その後在職30年間の施政を〈享保改革〉と通称する。

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大辞林 第三版の解説

とくがわよしむね【徳川吉宗】

1684~1751) 江戸幕府第八代将軍(1716~1745)。紀州藩主徳川光貞の四男。幼名源六・新之助。兄の相次ぐ死により紀州藩主となり、徳川家継のあと、徳川宗家を継いだ。諸事家康への復古を唱え、武芸・学問・殖産興業を奨励(享保の改革)、幕府中興の祖とされる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

徳川吉宗
とくがわよしむね

[生]貞享1(1684).10.21. 紀伊
[没]寛延4(1751).6.20. 江戸
江戸幕府8代将軍 (在職 1716~45) 。紀伊徳川光貞の四男。母は巨勢氏。前名は頼方。院号は有徳院。初めは越前国丹生郡に3万石を領したが,兄が相次いで死んだため宝永2 (1705) 年紀州藩 (→和歌山藩 ) 主に迎えられ,さらに正徳6 (1716) 年将軍家継の死後徳川宗家を継ぎ,享保1 (1716) 年8月 13日将軍宣下。吉宗の享保の改革は,「諸事権現様 (家康) 定め通り」と宣言して実行された。文武の奨励,法令の編纂,人材登用,新田開発,貨幣改鋳など多方面にわたる実績を残し,幕府中興の英主と仰がれた。しかし,改革も治世後期には成果が上がらず,家重に家督を譲ってからは大御所と呼ばれた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

徳川吉宗
とくがわよしむね
(1684―1751)

江戸幕府の第8代将軍。享保(きょうほう)の改革を実施した。貞享(じょうきょう)元年10月21日に紀州藩主徳川光貞(みつさだ)(1626―1705)の四男として生まれる。幼名は源六、ついで新之助、頼方(よりかた)と名のる。生母については諸説あるが、さだかでない。
 1695年(元禄8)12歳で従五位下(じゅごいげ)・主税頭(ちからのかみ)となり、翌年従四位下・左近衛権少将(さこのえのごんのしょうしょう)、1697年、5代将軍綱吉(つなよし)が江戸・赤坂の紀州藩邸にきたとき、越前国(えちぜんのくに)(福井県)丹生(にう)郡に3万石の所領を与えられた。1705年(宝永2)兄綱教(つなのり)、頼職(よりもと)の相次ぐ死去により本家55万石を継いだ。同年12月に従三位(じゅさんみ)・左中将となり、綱吉の一字をもらい名を吉宗と改めた。翌年に、伏見宮(ふしみのみや)貞致(さだゆき)親王の娘、真宮理子(さきのみやまさこ)を夫人とし、その翌年に権中納言(ごんちゅうなごん)に昇進した。藩主として12年間在位し、藩財政窮乏のため厳しい緊縮政策をとり倹約に努めた。1716年(正徳6)4月、7代将軍徳川家継(いえつぐ)が危篤に陥るや将軍後見となり、家継の死によって8代将軍となった。同年(享保1)8月13日、将軍宣下の儀が行われた。
 吉宗は将軍となり、譜代大名(ふだいだいみょう)を尊重して幕閣を編成し、家宣(いえのぶ)以来の将軍側近間部詮房(まなべあきふさ)、新井白石(あらいはくせき)らを整理した。このようななかで、享保の改革といわれる政治を断行した。吉宗の将軍在位は30年間に及んでいるが、将軍就任から1722年(享保7)までと、1722年から1730年まで、さらに1730年以降の3時期に分けてみることができる。1722年から1730年までの時期が、いわゆる改革期の政策が積極的に打ち出された時期である。享保の改革は財政再建と行政改革などを実施したものであり、応分の成果をあげている。とくに倹約と米価対策に力を注いだため、野暮(やぼ)将軍とか米将軍などのニックネームがつけられている。吉宗は庶民的人柄であり、世論を吸収すべく目安箱(めやすばこ)を設け、優れた投書については極力採用している。文化に対しても開明的であり、庶民教育に努め、蘭学(らんがく)の発達にも力を注いでいる。さらに、法典の整備に努め、1742年(寛保2)『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』(上下)を制定している。また家康代の「御三家(ごさんけ)」と同じような目的で「御三卿(ごさんきょう)」を設定したことも重要である。
 吉宗は1745年(延享2)隠居し、11月2日、吉宗の長男家重(いえしげ)が35歳で9代将軍の宣下を受けている。吉宗の人柄などについては『有徳院殿御実紀』の付録に詳しいが、倹約を貫き、唯一といわれる趣味は鷹狩(たかがり)であり、これは趣味の域を超えて熱中している。貴族的教養としての学問には関心が薄かったが、実用的な学問には関心を示している。家康崇拝熱も大きく、つねに「権現(ごんげん)様」への復古を目ざしていた。宝暦(ほうれき)元年6月20日没、法号有徳院。墓は上野寛永寺(かんえいじ)にある。[土肥鑑高]
『辻達也著『徳川吉宗』(1958・吉川弘文館) ▽辻達也著『享保改革の研究』(1963・創文社) ▽大石慎三郎著『増補 享保改革の経済政策』(1968・御茶の水書房)』

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367日誕生日大事典の解説

徳川吉宗 (とくがわよしむね)

生年月日:1684年10月21日
江戸時代中期の江戸幕府第8代の将軍
1751年没

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世界大百科事典内の徳川吉宗の言及

【入墨∥刺青】より

…【村下 重夫】
[墨刑]
 江戸幕府の刑罰の一つ。古代には黥刑(げいけい)の例があるが,制度としては将軍徳川吉宗によって整えられた。吉宗は1720年(享保5)耳そぎ,鼻そぎの刑に代えて採用したが,これには中国の明・清律の刺字(しじ)の影響がある。…

【大御所政治】より

…前将軍が隠退後も在職中と同様の実権をもち,政治をとりつづけること。鎌倉時代初めは将軍の父の屋敷を大御所と呼んだが,やがて将軍の父その人,あるいは前将軍をも大御所と呼ぶようになった。大御所政治という言葉は,この点に着目して後世の史家が特定の大御所のそれについてつけた呼び名である。室町幕府3代将軍足利義満は将軍を義持に譲って京都北山の新邸に移ったのち,出家して官職に拘束されない自由な立場から実権を振るったが,これを大御所政治と呼ぶ史家は少ないようである。…

【表千家流】より

…千利休を開祖とする茶道流儀の一つ。代々宗左を名のる。利休の切腹によって千家は一時断絶したが,会津若松の蒲生氏郷に預けられていた利休の子千少庵が豊臣秀吉に召し出され,本法寺前町に屋敷が与えられて千家の再興がはかられ,千家2世となった。それとともに大徳寺の喝食(かつしき)として修行していた少庵の子千宗旦は還俗し,千家3世を継承することとなった。その後,宗旦は不審庵を中心とする本法寺前町の屋敷を三男江岑(こうしん)宗左に譲り,北裏に今日庵(裏千家)を建て,四男仙叟(せんそう)宗室とともに移り住んだ。…

【紀州藩】より

…頼宣は藩体制確立のために家臣団や農村や町方に対して法度を出している。近世中期になると藩財政が窮乏し,このときに第5代藩主徳川吉宗が登場する。彼はみずからも倹約を実践し,家臣の取締りに横目20人をおいたが,農民や町人に対しては農業経営や商取引をそれぞれの判断にまかせたことが注目される。…

【享保改革】より

…江戸時代中期,8代将軍徳川吉宗の在職中(1716‐45)に行われた改革政治の総称。17世紀の終りごろから特産物を主軸に商品生産が発達,貨幣経済が浸透し,元禄以来の通貨の混乱と物価騰貴,領主経済とりわけ幕府財政の悪化,政治の行きづまりをもたらし,幕府は幕藩体制再建という課題を抱えていた。…

【禁書令】より

…その結果,教義書はもちろん,西洋科学書の輸入もすこぶる困難になった。その後,8代将軍徳川吉宗が改暦を企てたさい,この厳令が西洋学術研究の隘路となっていることを知って,1720年(享保5)にこれを緩和した。それ以来,漢籍による西洋科学の研究は盛んになり,蘭書解読による本格的な西洋学術研究への道も開かれた。…

【蹄鉄】より

…日本の伝統的な装蹄は,わら,和紙,馬毛,人毛などでこしらえた馬沓が主で,脱落しやすいのが一大欠点であった。8代将軍徳川吉宗は馬政改革にきわめて熱心で,1729年(享保14)オランダ商館を通して洋馬を輸入するとともに,西洋の新しい装蹄技術の導入に努めた。このとき技術指導にあたったのがハンス・ユンゲル・ケイゼルというオランダ人で,彼は馬の飼育法のみならず,通常および特殊蹄鉄の装着法まで教授した。…

【武家諸法度】より

…江戸幕府が武家の守るべき義務を定めた法令。天皇,公家に対する禁中並公家諸法度,寺家に対する諸宗本山本寺諸法度(寺院法度)と並んで,幕府による支配身分統制の基本法であった。1615年(元和1)大坂落城後,徳川家康は以心崇伝らに命じて法度草案を作らせ,検討ののち7月7日将軍秀忠のいた伏見城に諸大名を集め,崇伝に朗読させ公布した。漢文体で13ヵ条より成り,〈文武弓馬の道もっぱら相嗜むべき事〉をはじめとして,品行を正し,科人(とがにん)を隠さず,反逆・殺害人の追放,他国者の禁止,居城修理の申告を求め,私婚禁止,朝廷への参勤作法,衣服と乗輿(じようよ)の制,倹約,国主(こくしゆ)の人選について規定し,各条に注釈を付している。…

【目安箱】より

…江戸幕府8代将軍徳川吉宗が創設した将軍への直訴状を受理する箱。1721年(享保6)8月以降毎月3回評定所前に設置。…

【山下幸内上書】より

…幸内は江戸麻布青山辺に住む浪人で,謙信流の軍学者という。内容は将軍徳川吉宗の施政を忌憚なく論評したもので,とくに緊縮・府庫充実政策は富を偏在させ,庶民を困窮させると厳しく批判した。その意見は採用されなかったが,吉宗はその直言を喜び,幸内の評判は江戸中にひろまった。…

【洋学】より

…本格的な研究が開始されるためには,元禄期(1688‐1704)を境とする国内の経済的発展と,これに伴う経験諸科学の興隆の気運をまたなければならなかった。なかでもその糸口を開いたのは享保期(1716‐36)の将軍徳川吉宗の実学奨励である。吉宗の治世は商品経済の発達に伴い,封建的支配がようやく動揺を示しはじめた時期にあたる。…

【連座(連坐)】より

…豊臣秀吉の身分統制令は,百姓が商い賃仕事に出,奉公人・侍・中間などが町人百姓になった者を隠しおいた場合,一村一町を死刑に処すと定めている。江戸時代に入ると,犯罪人の親族に刑事責任を負わせる縁坐については反対論が起こり,江戸時代前半にはなお厳しく行われていた縁坐制が,8代将軍徳川吉宗によって制限されるに至ったのに対して,同じく他人の犯罪について刑事責任を負うものながら,親族以外の者が処罰される連坐は,犯罪の一般的予防のためばかりでなく,不完全な公権力の警察事務を人民に分担させるためにも有用と考えられた。しかし幕府法上の縁坐は,博奕(ばくち)・隠鉄砲・隠売女・失火その他の犯罪に,名主・組頭・五人組・総百姓・家主・地主・両隣・町内などが,過料・手鎖・押込・叱などの刑に処せられるもので,刑罰が軽微であるうえ,連坐が科さるべき犯罪の種類も,連帯責任・相互監視によって犯罪を未然に防ぎ,犯罪摘発を容易にするのに適したものに限定されており,近世前期に比してかなり緩和されている。…

※「徳川吉宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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