江戸幕府の第8代将軍。享保(きょうほう)の改革を実施した。貞享(じょうきょう)元年10月21日に紀州藩主徳川光貞(みつさだ)(1626―1705)の四男として生まれる。幼名は源六、ついで新之助、頼方(よりかた)と名のる。生母については諸説あるが、さだかでない。
1695年(元禄8)12歳で従五位下(じゅごいげ)・主税頭(ちからのかみ)となり、翌年従四位下・左近衛権少将(さこのえのごんのしょうしょう)、1697年、5代将軍綱吉(つなよし)が江戸・赤坂の紀州藩邸にきたとき、越前国(えちぜんのくに)(福井県)丹生(にう)郡に3万石の所領を与えられた。1705年(宝永2)兄綱教(つなのり)、頼職(よりもと)の相次ぐ死去により本家55万石を継いだ。同年12月に従三位(じゅさんみ)・左中将となり、綱吉の一字をもらい名を吉宗と改めた。翌年に、伏見宮(ふしみのみや)貞致(さだゆき)親王の娘、真宮理子(さきのみやまさこ)を夫人とし、その翌年に権中納言(ごんちゅうなごん)に昇進した。藩主として12年間在位し、藩財政窮乏のため厳しい緊縮政策をとり倹約に努めた。1716年(正徳6)4月、7代将軍徳川家継(いえつぐ)が危篤に陥るや将軍後見となり、家継の死によって8代将軍となった。同年(享保1)8月13日、将軍宣下の儀が行われた。
吉宗は将軍となり、譜代大名(ふだいだいみょう)を尊重して幕閣を編成し、家宣(いえのぶ)以来の将軍側近間部詮房(まなべあきふさ)、新井白石(あらいはくせき)らを整理した。このようななかで、享保の改革といわれる政治を断行した。吉宗の将軍在位は30年間に及んでいるが、将軍就任から1722年(享保7)までと、1722年から1730年まで、さらに1730年以降の3時期に分けてみることができる。1722年から1730年までの時期が、いわゆる改革期の政策が積極的に打ち出された時期である。享保の改革は財政再建と行政改革などを実施したものであり、応分の成果をあげている。とくに倹約と米価対策に力を注いだため、野暮(やぼ)将軍とか米将軍などのニックネームがつけられている。吉宗は庶民的人柄であり、世論を吸収すべく目安箱(めやすばこ)を設け、優れた投書については極力採用している。文化に対しても開明的であり、庶民教育に努め、蘭学(らんがく)の発達にも力を注いでいる。さらに、法典の整備に努め、1742年(寛保2)『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』(上下)を制定している。また家康代の「御三家(ごさんけ)」と同じような目的で「御三卿(ごさんきょう)」を設定したことも重要である。
吉宗は1745年(延享2)隠居し、11月2日、吉宗の長男家重(いえしげ)が35歳で9代将軍の宣下を受けている。吉宗の人柄などについては『有徳院殿御実紀』の付録に詳しいが、倹約を貫き、唯一といわれる趣味は鷹狩(たかがり)であり、これは趣味の域を超えて熱中している。貴族的教養としての学問には関心が薄かったが、実用的な学問には関心を示している。家康崇拝熱も大きく、つねに「権現(ごんげん)様」への復古を目ざしていた。宝暦(ほうれき)元年6月20日没、法号有徳院。墓は上野寛永寺(かんえいじ)にある。
[土肥鑑高]
『辻達也著『徳川吉宗』(1958・吉川弘文館)』▽『辻達也著『享保改革の研究』(1963・創文社)』▽『大石慎三郎著『増補 享保改革の経済政策』(1968・御茶の水書房)』
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江戸幕府8代将軍。紀州2代藩主徳川光貞の四男。幼名源六。初名頼方。1697年(元禄10)越前国丹生郡3万石を与えられた。1705年(宝永2)兄が相次いで死去したので紀州藩主を相続,吉宗と改名。藩政改革に努め,倹約励行,士風振粛,財政健全化などの諸政策には,後の幕政改革の原型とみなしうるものがある。16年(享保1)4月7代将軍家継の死去により,老中らに推されて将軍となる。その後在職30年間の施政を〈享保改革〉と通称する。まず彼は間部詮房(まなべあきふさ),新井白石ら前代の側近を幕政の中枢から退け,老中以下譜代の伝統的勢力を尊重する態度を示して幕府内の人心を統一し,諸方面からよせられた政治刷新の期待を背景に,将軍の幕政主導権を確立した。従前の将軍と対蹠的な彼の活発な行動は幕臣の耳目を一新し,また彼が就任直後〈御庭番〉という密偵を創置し,あるいは21年目安箱を設けて将軍への直訴を制度化するなど,情報収集に努めたことは将軍の権威強化に効果があった。さらに彼は大岡忠相を江戸の町奉行に登用したのをはじめ,財政・民政上の能吏を抜擢(ばつてき)して改革遂行の手足としたが,23年の足高(たしだか)の制定は人材登用を容易にする手段であった。改革の施策の重点は財政改革にあった。まず吉宗は厳しい緊縮政策を施行したが,とくに貨幣の改良・統一(正徳・享保金銀)による通貨量の急速な収縮策と,商人・職人の同業組合の統制力を利用しての消費抑制策とは新政策であった。22年には老中水野忠之を財政専任とし,本格的財政再建に着手し,諸大名に領地1万石につき100石の上米(あげまい)を出させて当面の急をしのぎつつ,新田開発,検見法の改革,年貢率引上げ,定免制施行などにより年貢増徴をはかり,かなりの成果をあげた。ところがその矛盾が不況,米価下落,農民の年貢減免要求などの形で表面化し,32年には瀬戸内海沿岸を中心に大飢饉が発生し(享保の飢饉),翌年1月には江戸ではじめて〈打毀(うちこわし)〉が起こった。そこで36年(元文1)通貨を悪鋳(元文金銀),増発して不況を緩和し,翌年老中松平乗邑(のりさと)を財政専任に,神尾春央(かんおはるひで)を勘定奉行に登用して再び財政強化をはかり,その後しばらく安定した状態となった。吉宗は司法制度にも関心をよせ,裁判の公正化・迅速化や残酷な刑罰の改廃をはかり,42年(寛保2)の《公事方御定書》その他法典の編纂をはじめて公的に行わせた。吉宗はまた和漢の法制の研究や古典・古文書の収集など実用的・実証的学問に興味を示し,とくにオランダ人を通じてヨーロッパの学術知識の吸収をはかり,1720年には漢訳洋書の輸入制限を緩和した。さらに庶民教育を通じて社会秩序の維持をはかり,21年には教科書として《六諭衍義(りくゆえんぎ)大意》を刊行させている。町奉行大岡忠相を通じて,防火,救貧,風俗取締り,物価統制など江戸の市政改革に努めたことも見逃せない事跡である。45年(延享2)彼は将軍を長子家重に譲り,51年6月20日死去した。法号を有徳院といい,墓は上野寛永寺にある。
執筆者:辻 達也
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(笠谷和比古)
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1684.10.21~1751.6.20
江戸幕府8代将軍(在職1716.8.13~45.9.25)。父は和歌山藩主の光貞。母は側室浄円院。幼名源六・新之助。はじめ頼方。法号有徳院。1697年(元禄10)越前国丹生(にう)郡に3万石を与えられたが,1705年(宝永2)和歌山藩主となり,将軍綱吉の一字をもらって吉宗と改めた。質素倹約・財政安定などの藩政改革を推進,16年(享保元)将軍家継の死後,老中らに推されて将軍職就任。幕府政治の再建をめざす享保の改革を行い,在職30年に及んだ。表面上は門閥譜代層を尊重したが,実際は紀州時代の御用役有馬氏倫(うじのり)・同加納久通を新設の側御用取次に抜擢,政事・人事の重要政策を相談した。役人間の調整役である小納戸頭取や情報収集にあたる御庭番を新設,庶民にも情報提供を求め目安箱を設置。45年(延享2)将軍職を長男家重に譲り,西丸に移って大御所として家重政治を支えた。
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…【村下 重夫】
[墨刑]
江戸幕府の刑罰の一つ。古代には黥刑(げいけい)の例があるが,制度としては将軍徳川吉宗によって整えられた。吉宗は1720年(享保5)耳そぎ,鼻そぎの刑に代えて採用したが,これには中国の明・清律の刺字(しじ)の影響がある。…
…前将軍が隠退後も在職中と同様の実権をもち,政治をとりつづけること。鎌倉時代初めは将軍の父の屋敷を大御所と呼んだが,やがて将軍の父その人,あるいは前将軍をも大御所と呼ぶようになった。大御所政治という言葉は,この点に着目して後世の史家が特定の大御所のそれについてつけた呼び名である。室町幕府3代将軍足利義満は将軍を義持に譲って京都北山の新邸に移ったのち,出家して官職に拘束されない自由な立場から実権を振るったが,これを大御所政治と呼ぶ史家は少ないようである。…
…千利休を開祖とする茶道流儀の一つ。代々宗左を名のる。利休の切腹によって千家は一時断絶したが,会津若松の蒲生氏郷に預けられていた利休の子千少庵が豊臣秀吉に召し出され,本法寺前町に屋敷が与えられて千家の再興がはかられ,千家2世となった。それとともに大徳寺の喝食(かつしき)として修行していた少庵の子千宗旦は還俗し,千家3世を継承することとなった。その後,宗旦は不審庵を中心とする本法寺前町の屋敷を三男江岑(こうしん)宗左に譲り,北裏に今日庵(裏千家)を建て,四男仙叟(せんそう)宗室とともに移り住んだ。…
…頼宣は藩体制確立のために家臣団や農村や町方に対して法度を出している。近世中期になると藩財政が窮乏し,このときに第5代藩主徳川吉宗が登場する。彼はみずからも倹約を実践し,家臣の取締りに横目20人をおいたが,農民や町人に対しては農業経営や商取引をそれぞれの判断にまかせたことが注目される。…
…江戸時代中期,8代将軍徳川吉宗の在職中(1716‐45)に行われた改革政治の総称。17世紀の終りごろから特産物を主軸に商品生産が発達,貨幣経済が浸透し,元禄以来の通貨の混乱と物価騰貴,領主経済とりわけ幕府財政の悪化,政治の行きづまりをもたらし,幕府は幕藩体制再建という課題を抱えていた。…
…その結果,教義書はもちろん,西洋科学書の輸入もすこぶる困難になった。その後,8代将軍徳川吉宗が改暦を企てたさい,この厳令が西洋学術研究の隘路となっていることを知って,1720年(享保5)にこれを緩和した。それ以来,漢籍による西洋科学の研究は盛んになり,蘭書解読による本格的な西洋学術研究への道も開かれた。…
…日本の伝統的な装蹄は,わら,和紙,馬毛,人毛などでこしらえた馬沓が主で,脱落しやすいのが一大欠点であった。8代将軍徳川吉宗は馬政改革にきわめて熱心で,1729年(享保14)オランダ商館を通して洋馬を輸入するとともに,西洋の新しい装蹄技術の導入に努めた。このとき技術指導にあたったのがハンス・ユンゲル・ケイゼルというオランダ人で,彼は馬の飼育法のみならず,通常および特殊蹄鉄の装着法まで教授した。…
…江戸幕府が武家の守るべき義務を定めた法令。天皇,公家に対する禁中並公家諸法度,寺家に対する諸宗本山本寺諸法度(寺院法度)と並んで,幕府による支配身分統制の基本法であった。1615年(元和1)大坂落城後,徳川家康は以心崇伝らに命じて法度草案を作らせ,検討ののち7月7日将軍秀忠のいた伏見城に諸大名を集め,崇伝に朗読させ公布した。漢文体で13ヵ条より成り,〈文武弓馬の道もっぱら相嗜むべき事〉をはじめとして,品行を正し,科人(とがにん)を隠さず,反逆・殺害人の追放,他国者の禁止,居城修理の申告を求め,私婚禁止,朝廷への参勤作法,衣服と乗輿(じようよ)の制,倹約,国主(こくしゆ)の人選について規定し,各条に注釈を付している。…
…江戸幕府8代将軍徳川吉宗が創設した将軍への直訴状を受理する箱。1721年(享保6)8月以降毎月3回評定所前に設置。…
…幸内は江戸麻布青山辺に住む浪人で,謙信流の軍学者という。内容は将軍徳川吉宗の施政を忌憚なく論評したもので,とくに緊縮・府庫充実政策は富を偏在させ,庶民を困窮させると厳しく批判した。その意見は採用されなかったが,吉宗はその直言を喜び,幸内の評判は江戸中にひろまった。…
…本格的な研究が開始されるためには,元禄期(1688‐1704)を境とする国内の経済的発展と,これに伴う経験諸科学の興隆の気運をまたなければならなかった。なかでもその糸口を開いたのは享保期(1716‐36)の将軍徳川吉宗の実学奨励である。吉宗の治世は商品経済の発達に伴い,封建的支配がようやく動揺を示しはじめた時期にあたる。…
…豊臣秀吉の身分統制令は,百姓が商い賃仕事に出,奉公人・侍・中間などが町人百姓になった者を隠しおいた場合,一村一町を死刑に処すと定めている。江戸時代に入ると,犯罪人の親族に刑事責任を負わせる縁坐については反対論が起こり,江戸時代前半にはなお厳しく行われていた縁坐制が,8代将軍徳川吉宗によって制限されるに至ったのに対して,同じく他人の犯罪について刑事責任を負うものながら,親族以外の者が処罰される連坐は,犯罪の一般的予防のためばかりでなく,不完全な公権力の警察事務を人民に分担させるためにも有用と考えられた。しかし幕府法上の縁坐は,博奕(ばくち)・隠鉄砲・隠売女・失火その他の犯罪に,名主・組頭・五人組・総百姓・家主・地主・両隣・町内などが,過料・手鎖・押込・叱などの刑に処せられるもので,刑罰が軽微であるうえ,連坐が科さるべき犯罪の種類も,連帯責任・相互監視によって犯罪を未然に防ぎ,犯罪摘発を容易にするのに適したものに限定されており,近世前期に比してかなり緩和されている。…
※「徳川吉宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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