えい‐きょう ‥キャウ【永享】
[1] ながく受け継ぐこと。
※東京横浜間の鉄道開業式に際して下し給へる
勅語‐明治五年(1872)九月一二日「此鴻利
(こうり)を万民永享の後に恵んとす」 〔曹丕‐追封鄧公策〕
[2]
室町時代、
後花園天皇の代の
年号。
即位により正長二年(
一四二九)九月五日改元し、永享一三年(
一四四一)二月一七日に至り次の
嘉吉(かきつ)に代わる。
将軍は六代
足利義教(よしのり)。
出典は「
漢書‐王莽伝」の「能立
二巍巍之功
一伝
二于子孫
一、永享
二無窮之祚
一」。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
デジタル大辞泉
「永享」の意味・読み・例文・類語
えいきょう〔エイキヤウ〕【永享】
室町中期、後花園天皇の時の年号。1429年9月5日~1441年2月17日。
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えいきょう【永享】
日本の元号(年号)。室町時代の1429年から1441年まで、後花園(ごはなぞの)天皇の代の元号。前元号は正長(しょうちょう)。次元号は嘉吉(かきつ)。1429年(正長2)9月5日改元。後花園天皇の即位にともない行われた(代始改元)。『後漢書(ごかんじょ)』を出典とする命名。永享年間の室町幕府の将軍は足利義教(よしのり)(6代)。1438年(永享10)、鎌倉公方(くぼう)の足利持氏(もちうじ)が関東管領の上杉憲実(のりざね)を攻撃したことをきっかけに関東で大規模な戦乱(永享の乱)が起こり、持氏は敗れて自殺、鎌倉府は滅亡した。この乱の後、将軍義教は、鎌倉公方不在となった関東に実子を下向させようとした。これに対し、下総の結城氏朝(ゆうきうじとも)・持朝(もちとも)父子らが持氏の遺児を擁して幕府に反抗、1440年(永享12)に結城合戦が起こった。
出典 講談社日本の元号がわかる事典について 情報