永原城跡
ながはらじようあと
[現在地名]野洲町上屋
旧朝鮮人街道東側、現祇王小学校敷地にあった六角氏重臣永原氏の城館跡。二町四方の掘割に本丸・二の丸があったとされ、調査により室町・戦国期のものとされる遺物、堀・井戸・竈・石敷などが検出された。堀は南方を西流していた家棟川の水を引いている。南東大字辻町・小堤にかけての城山に支城小堤城跡がある。
永原氏の本姓は藤原氏(補庵京華新集)。一三世紀末には守護六角氏の重臣馬淵氏の被官であった。応永一六年(一四〇九)九月二六日の足利義持御判御教書(尊経閣文庫所蔵)によれば、三宅家村が犯科人永原孫太郎入道・同彦太郎らの跡として拝領したと称する「野洲郡名田畠」が、六角満高・京極高光に起請文を提出した永原正光に返付されている。この野洲郡名田畠がどの地をさすかは不明だが同二六年一一月には正光が願主となって、江辺庄産土神天神社(現菅原神社)の造替えを行っており(菅原神社蔵棟札)、江辺庄もしくはその近辺であったと考えられる。永原氏の馬淵氏被官としての活動は長禄(一四五七―六〇)から長享(一四八七―八九)初年まで確認できる。応仁・文明の乱後永原氏はしだいに経済力を蓄え、馬淵氏被官の地位から脱していった。文明一一年(一四七九)三月、正光の孫吉重は京都清水寺の再建に際し中島吉久とともに二〇貫を寄進(「清水寺再興奉加帳」成就院文書)。吉重は禅僧横川景三と親交があり、天神社頭で一千句連歌を興行するなど、文化面での活動も知られる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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