永嶋暢子(読み)ナガシマ ヨウコ

20世紀日本人名事典 「永嶋暢子」の解説

永嶋 暢子
ナガシマ ヨウコ

昭和期の婦人運動家,新聞記者



生年
明治30(1897)年1月16日

没年
昭和21(1946)年1月4日

出生地
青森県八戸

本名
永嶋 ヨネ

別名
筆名=轟木 歌,松池 美代,新島 まち,木下 淳子,陸奥 光代

学歴〔年〕
青森県立実科高等女学校卒

経歴
卒業後上京し、大正9年平塚らいてうらの新婦人協会の婦人運動に加わる。関東大震災における被災者の救援活動を機として東京連合婦人会が発足すると、その常任書記として会の中心的な役割を担った。この頃からマルクス主義に傾倒し、学習会や講座などにも参加。また婦人運動の傍ら評論家としても活動し、「婦人公論」などに寄稿。14年婦女新聞社に入社し、次いで昭和4年には女性運動家の神近市子の後任として「女人芸術」の社会時評欄担当となり、女性や労働の問題など社会の矛盾を鋭く批判した。その後、モップル(国際赤色救援会)や日本労働組合全国協議会(全協)に拠ってマルクス主義的な運動を展開するが、9年全協の繊維女工オルグ中に検挙。2年の獄中生活を経て出所ののち13年中国に渡り、「月刊満州」「鉱工満州」などの編集に携わりながらも運動を続け、17年9月の第1次満鉄事件に連座して逮捕された。終戦後は孤児の収容施設開設を志すが、果たせず病死した。一説にはロシア軍侵入に際して自殺したとも言われている。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「永嶋暢子」の解説

永嶋暢子 ながしま-ようこ

1897-1946 大正-昭和時代前期の社会運動家。
明治30年1月16日生まれ。上京して東京連合婦人会の運動にくわわり,大正14年婦女新聞社の記者となる。「婦人公論」「女人芸術」などに時評を発表。昭和3年の共産党弾圧(三・一五事件)後は解放運動犠牲者救援会で活動した。昭和21年1月4日死去。50歳。青森県出身。青森実科高女卒。本名はヨネ。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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