池田御厨(読み)いけだのみくりや

日本歴史地名大系 「池田御厨」の解説

池田御厨
いけだのみくりや

土岐川の北西岸、近世可児かに郡池田八ヵ村一帯に比定される。建久三年(一一九二)八月の伊勢神宮神主請文写(神宮文庫蔵)に「池田御厨」とみえ、伊勢内宮領。給主は大皇大后宮職で、供祭物は上分八丈絹六疋・紙五〇帖と定められていた。「神鳳鈔」によれば面積は六七町七段三〇〇歩、上分田は六町で段別一五〇文ずつ納め、供祭物は前出請文写と同じ。西美濃の池田郡池田庄に対し東池田ひがしいけだとも称されたらしく、永享四年(一四三二)六月一八日の法印宗真請文(醍醐寺文書)には「可児郡東池田郷」とある。「内宮氏経日次記」によれば、同月一日付で東池田御厨に河籠米を課す庁宣が出されており、永正一〇年(一五一三)一〇月には内宮から先例どおり御裳濯みもすそ(現三重県)の堤防修理用の河籠米催促が出されている(「皇大神宮宮司庁宣写」神宮文庫蔵)

池田御厨
いけだのみくりや

玉葉」建久二年(一一九一)五月二四日条に「遠江国池田御厨」とみえ、当御厨をめぐって伊勢神宮が山城松尾まつお(現京都市西京区松尾大社)を記録所に訴えている。延元四年(一三三九)一〇月日の「給人引付諸神領注文」によれば三石を納めているが、納入先は外宮(豊受大神宮)と思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報