玉葉(読み)ぎょくよう

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

玉葉
ぎょくよう

平安時代末期~鎌倉時代前期の九条兼実の日記。 66巻。現存の部分は,長寛2 (1164) 年から建仁2 (1202) 年まで。この時代は源平の争乱期,鎌倉幕府の草創期にあたり,兼実は右大臣,摂政,太政大臣,関白などの要職を歴任し,将軍源頼朝とも親しく,彼の援護を受けて活躍したこともあって,公武に関する記事が含まれ,また当時朝廷の最高の実力者であった後白河法皇の対幕府政策などを知るうえに貴重な史料である。自筆の原本は九条家に伝えられたが,九条家から分立した二条家では,この日記を写して『玉海』と題した。国書刊行会より刊行。

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デジタル大辞泉の解説

ぎょく‐よう〔‐エフ〕【玉葉】

美しい葉。
天子の一族を敬っていう語。「金枝玉葉
他人を敬って、その手紙・はがきをいう

ぎょくよう【玉葉】[書名]

平安後期から鎌倉初期にかけての九条兼実(くじょうかねざね)の日記。66巻。長寛2年(1164)から建仁3年(1203)までを記述し、朝儀や政界の実情などに詳しい。玉海。

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百科事典マイペディアの解説

玉葉【ぎょくよう】

〈玉海(ぎょくかい)〉とも。九条兼実(かねざね)の日記。1164年から1203年までの部分が写本で伝えられる。平安末期〜鎌倉初期の政治情勢に詳しい。
→関連項目橋本宿

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世界大百科事典 第2版の解説

ぎょくよう【玉葉】

九条兼実の日記。原本は伝わらないが,1164年(長寛2)から1203年(建仁3)までの部分が写本によって伝えられている。そのうち1200年(正治2)までの分は国書刊行会から刊行され(1906),1201年(建仁1)正月,2月および1203年(建仁3)正月の断簡は多賀宗隼編著《玉葉索引》(1974)に付録として収められている。兼実が平安末期から鎌倉初期にかけて朝廷の枢要な地位にあった人だけに,彼の日記は当時の政治の動きを知るための第一級史料であるが,記述がきわめて詳細であることはその価値をいっそう高からしめている。

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大辞林 第三版の解説

ぎょくよう【玉葉】

美しい葉。
皇族を敬っていう語。 「金枝-」
相手を敬ってその手紙をいう語。

ぎょくよう【玉葉】

九条兼実の日記。記事は1164年から1203年にわたる。当時の政治・社会情勢や朝廷内部の事情・風俗などについて詳しい。のち二条良基が書写して「玉海」とも称する。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

玉葉
ぎょくよう

関白(かんぱく)九条兼実(くじょうかねざね)の日記。「玉海(ぎょくかい)」ともいう。66巻。ほかに柳原本1巻。記事は1164年(長寛2)から1203年(建仁3)まで、兼実16歳から55歳までにわたる。兼実は関白忠通(ただみち)の第3子。兄近衛基実(このえもとざね)、松殿基房(まつどのもとふさ)とともに政治家としての道を選んだ。日記の記事内容は、平氏全盛期20年間の右大臣時代、鎌倉幕府と提携の10年間の執政時代、その後の7年に及ぶ隠棲(いんせい)の時期に大別できる。記すところは、公・武の政治、摂関家の動向、朝儀をはじめ、世上の見聞、身辺の事情などきわめて多彩である。公・武政権対立の波瀾(はらん)の時代の姿が、時代の立役者たる平清盛(きよもり)、源義仲(よしなか)・義経(よしつね)・頼朝(よりとも)などの描写を通じてよくうかがわれ、公家(くげ)文化の長い伝統と武家時代の新しい曙光(しょこう)とが交錯する世界を的確、明晰(めいせき)な叙述でとらえており、質・量において公家日記の白眉(はくび)とされている。『国書刊行会叢書(そうしょ)』所収。[多賀宗隼]
『星野恒著『歴世記録考 玉葉』(『史学叢説 第一集』1909・冨山房) ▽龍粛著『鎌倉時代 下』(1957・春秋社) ▽杉山信三著『藤原氏の氏寺とその院家』(1968・吉川弘文館) ▽多賀宗隼著『玉葉索引――藤原兼実の研究』(1974・吉川弘文館)』

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