河和田村(読み)かわだむら

日本歴史地名大系 「河和田村」の解説

河和田村
かわだむら

[現在地名]坂井町河和田

長屋ながや村の南西にあり、坂井平野の北東部、田島たじま川左岸の自然堤防上に位置する。村は東垣内ひがしがいち・西垣内からなり「越前地理指南」に「二ケ所居ス」とある。「大乗院寺社雑事記」長禄三年(一四五九)六月一七日条に記す、同二年一二月一三日付の宛行状に「長船郷河和田光称寺」とみえる。また天正一三年(一五八五)六月二三日、山田喜左衛門尉高宣が長井左京亮に与えた三〇〇石の知行地のうちに「長畝郷河和田村」の一〇六・〇九石も含まれていた(長井文書)

慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では長畝下のうねしも郷に属し、貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領になり、明治に至る。耕地畑地が多く、正保郷帳によれば総石高八三一・二七石で、その七割に相当する五八一石余が畑地となっている。


河和田村
かわわだむら

[現在地名]水戸市河和田町・河和田一―三丁目・見和みわ三丁目・赤塚あかつか一―二丁目

水戸城下の南西に位置し、村の北部を桜川が東流し、地勢平坦な村。北はほり村・常葉ときわ村に接し、笠間道が村を東西に貫く。

中世は大掾氏の支配を経て江戸氏支配下にあった。近世は水戸藩領で、寛永一二年(一六三五)の水戸領郷高帳先高には「川和田村」とみえ、天保郷帳に「河和田村」とある。「加藤寛斎随筆」の四郡村名沿革の項には「河和田 古名川和田 文政二改」とあり、「水府志料」には「近く川和田に作る。今河に改め古に復す」とみえるが、同書の他村の項では「川和田村」「河和田村」とみえる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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