江戸中期の大名。水戸藩初代藩主徳川頼房の三男として水戸に生まれる。母は頼房の側室谷久子。家臣の屋敷で養われた。幼名は長丸,のち千代松,9歳で元服のとき3代将軍徳川家光の1字を与えられて光国と名のる。のち50歳代に国を圀に改めた。字ははじめ徳亮,また観之,のち子竜。号は常山,別号は日新斎,梅里,率然(そつぜん),隠居して西山,採薇(さいび)などを用いた。諡(おくりな)は義公。6歳のとき世子に決定し,江戸の水戸藩邸に移り,61年(寛文1)父の死後,34歳で第2代藩主となる。18歳のころ《史記》の伯夷伝を読んで発奮するまでは,三家の世子としてふさわしくない言動が多いとして,周りの人々を困らせたことは,守役の小野言員の残した《小野諫草》に詳しい。18歳以後は歴史編纂を志し,多くの古書を集め始めた。また長兄頼重(高松藩主となる)をさしおいて世子となったことを恥じ,兄の子を養子とすることを心に決した。第3代綱条(つなえだ)は兄の子である。なお光圀の子頼常は懇請によって頼重の跡を継いだ。90年(元禄3)引退,水戸の北西山荘(常陸太田市)に隠棲し73歳で没した。とくに学問上の業績と宗教行政および文化財保存に尽くした点などは,後世注目されるところとなった。学問上では南朝正統の立場を強調した《大日本史》の編纂がある。この修史事業のために開いた彰考館には全国各地から学派にこだわらず学者を招き,多いときは館員が60名を超すこともあった。この学者の間に一つの学風が生まれ,これが天保期(1830-44)に大成されて,水戸学となった。宗教行政としては社寺の大整理があるが,一方,神仏分離を推進して名社名刹には特別の保護を加えた。このときの1村1社制は後世長く守られた。文化財については,那須国造碑(栃木県,国宝)の保存や侍塚(栃木県,史跡)の発掘保存,遠く多賀城碑(宮城県)の修復などにも力を入れ,仏像などの保護にも努めた点は,むしろ今日になってその成果が評価されるようになったといえる。後世水戸黄門といえば光圀を指すのは,中納言の唐名黄門の代表的存在とされたからである。
執筆者:瀬谷 義彦
光圀が〈名君〉として広く定着したのは江戸末から明治期で,講談・実録本の流布,演劇化などにより虚構が拡大された。光圀の逸話を多く含む伝記《桃源遺事》(1701)や《久夢日記》などが実録本《水戸黄門仁徳録》(成立年未詳)に与えた影響は大きい。幕末の講釈師桃林亭東玉は,水戸烈公(斉昭)に招かれたと伝えられ,これによって化政期(1804-30)以降,講釈が光圀の顕彰,すなわち虚構化を深化させたと推定される。また当時の庶民間の旅行ブームや十返舎一九の《東海道中膝栗毛》にならって,光圀の諸国漫遊譚が誕生した。光圀による3回もの蝦夷地渡航や,《大日本史》編纂のため,安積澹泊(あさかたんぱく)(通称覚兵衛。講釈で渥美格之丞。格さん),佐々十竹(さつさじつちく)(通称介三郎。講釈で佐々木助三郎。助さん)が全国に史書を探求旅行した史実が核となって,この虚構はふくれあがった。マレビトが窮状の人々の前に現れ,事件を解決して去る民間伝承のパターンを芯とし,全国60余州を遍歴する長編物語が形成された。明治初年には《名君膝栗毛》《名君道中記》などの演題で釈場にかけられ,また立川文庫が《諸国漫遊 水戸黄門》として収録。歌舞伎では実録本《護国女太平記》(柳沢騒動)から光圀が家臣藤井紋太夫を手討ちにしたくだりを劇化した《黄門記童幼(おさな)講釈》(河竹黙阿弥作,1877初演)が著名。岡本綺堂にも《黄門記》(1927初演)があり,その他映画,ラジオでも黄門の漫遊記が続作された。テレビでは東野英治郎主演の《水戸黄門》(1969年8月初放映)が高視聴率の人気番組となった。
執筆者:小池 章太郎
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江戸前・中期の大名。御三家水戸藩第2代の藩主。幼名は長丸(ちょうまる)、のち千代松(ちよまつ)、元服して名を光国といった。光圀となったのは50歳代後半からである。字(あざな)は、初め徳亮(とくりょう)、また観之(かんし)、のち子竜(しりゅう)。号は日新斎(にっしんさい)、常山人(じょうざんじん)、率然子(そつぜんし)などがあるが、晩年の梅里(ばいり)、西山(せいざん)が有名。義公(ぎこう)は諡(おくりな)である。光圀を理解するには、その生涯を4期に分けるのがもっとも適当であろう。
[瀬谷義彦]
出生と水戸時代。寛永(かんえい)5年6月10日、水戸城下の重臣三木之次(ゆきつぐ)の屋敷で生まれ、6歳で水戸家の世子(せいし)(跡継ぎ)に決定するまで。初代藩主徳川頼房(よりふさ)(家康の第11子)の三男。母は谷久子、諡は靖定(せいてい)夫人。光圀が頼房の子と認められ、水戸城入りをしたのは5歳のころで、その出生は不遇であった。
[瀬谷義彦]
世子の時代。世子に決まり、江戸・小石川の水戸藩邸に移った1633年(寛永10)から61年(寛文1)34歳で藩主となるまでの、およそ28年間。18歳のとき『史記』の「伯夷(はくい)伝」を読んで感動し、学問に目覚め、修史の志をたてるまでは、非行が多く父や家臣らを困らせた。27歳のとき前関白近衛信尋(このえのぶひろ)の娘泰姫(たいひめ)と結婚したが、31歳で夫人を亡くしてからは、生涯後妻を迎えなかった。1657年(明暦3)2月、江戸大火の直後、光圀は史局を江戸・駒込(こまごめ)の中屋敷(東京大学農学部構内)に開設した。修史事業の第一歩である。
[瀬谷義彦]
藩主の時代。34歳から1690年(元禄3)63歳で引退するまでの29年間である。この間、上水道の敷設、士族の墓地の創設、社寺の郊外移転などによって、城下町水戸の整備を図ったほか、小石川邸内に史局を移して彰考館と命名し、全国から学者を招いて、『大日本史』編纂(へんさん)を本格的に進めた。
[瀬谷義彦]
西山時代。引退してから翌年水戸の北方西山の地(常陸太田(ひたちおおた)市)に山荘を建てて、元禄(げんろく)13年12月6日、73歳で没するまでのおよそ10年間。藩主の職は兄の高松藩主松平頼重(よりしげ)の子綱条(つなえだ)に譲ったが、なお政治的には綱条の後見的役割を果たしたほか、『大日本史』の本紀、列伝の完成を目ざして、彰考館を水戸城中にも開き、その結果多くの学者が水戸にも集められ、水戸の学問的発展の基となったこと、盛んに領内を巡り民情視察を行ったこと、とくに文化財の発掘保護に努めたことなどは、晩年の特色である。
光圀のおもな業績は、父頼房の死に際して殉死を禁じ幕府の殉死禁令に示唆を与えたといわれること、徹底した社寺の改革などが政治的に重要である。文化史上では、『大日本史』など各種の編纂事業、侍塚(さむらいづか)古墳の発掘調査、那須国造(なすくにのみやつこ)碑はじめ多くの文化財の保護に努めたことなど、現代的意義が大きい。世に喧伝(けんでん)される「水戸黄門(こうもん)漫遊記」の類は、光圀の名声をもとに、明治末期から大正にかけて創作されたものであろう。
[瀬谷義彦]
『佐藤進著『水戸義公伝』(1911・博文館)』▽『名越時正著『新版水戸光圀』(1986・水戸史学会)』▽『瀬谷義彦著『水戸の光圀』(1985・茨城新聞社)』
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(尾藤正英)
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1628.6.10~1700.12.6
江戸前期の大名。常陸国水戸藩主。初代藩主徳川頼房の三男。1633年(寛永10)のちに讃岐国高松藩主となる兄頼重をこえて継嗣に定まり,61年(寛文元)2代藩主となる。90年(元禄3)家督を頼重の子綱条(つなえだ)に譲った後,同国久慈郡新宿村に西山荘を建て隠居。この間幕府に先駆けて殉死を禁止し,藩士の規律,士風の高揚をはかる一方,藩内の寺院整理を行い,隠居後も八幡神社の整理と一村一社制の確立に努めるなど藩政に強い影響力をもった。藩主就任前の57年(明暦3)江戸駒込の中屋敷に史局(のちの彰考館)をおき,「大日本史」の編纂に着手。名君のほまれ高く,のちに「水戸黄門漫遊記」が創作された。
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…最初に儒葬を行ったのは土佐藩の野中兼山で,1651年(慶安4)に母の秋山氏を土葬にして3年の喪に服した。ついで水戸藩の徳川光圀が彼に仕えた儒学者朱舜水(しゆしゆんすい)の意見を聞き,《文公家礼》を基にして《喪祭儀略》を作成し領内での普及を図ったが,光圀の死後,幕府の宗教統制に反することを恐れて再び仏葬に戻された。【阪本 是丸】。…
…水戸藩2代藩主徳川光圀の言行録。光圀に仕えた三木之幹,宮田清貞,牧野和高の3人が,光圀の没した翌1701年(元禄14)に編集。…
…神武天皇から南北朝時代の終末すなわち後小松天皇の治世(1382‐1412)までを,中国の正史の体裁である紀伝体により,本紀73巻,列伝170巻,志126巻,表28巻の4部397巻(別に目録5巻)で記述している。この事業に着手したのは2代藩主徳川光圀で,1657年(明暦3)に江戸駒込の藩邸に史局を設け,72年(寛文12)にこれを小石川の上屋敷に移して彰考館と命名し,ここに佐々宗淳,栗山潜鋒,三宅観瀾,安積(あさか)澹泊ら多くの学者を集めて,編纂に従事させるとともに,佐々らを京都,奈良など各地に派遣して,古文書・記録など史料の採訪に努めた(なお光圀隠居後は水戸でも編纂が進められ,のち1829年(文政12)には彰考館は水戸に一本化された)。光圀時代の編纂は本紀と列伝,すなわち伝記的な叙述の部門を中心とし,儒教道徳の見地から人物の評価を定めるところに,その主眼が置かれていた。…
…それらの大部分は史実にもとづくものであるが,1640年(寛永17)ごろから〈東照神君〉〈権現様〉といわれるようになった――それまでは死の直前に任じられた太政大臣の別称によって〈相国(しようこく)様〉と呼ばれていた――家康のイメージは,彼が今川氏の人質から信長,秀吉のあとを受けて最終的に天下を安定させたことにより,良くも悪くも〈忍耐〉を中核としているといえよう。偽作(本来の作者は徳川光圀に比定されている)であることが最近明らかになった,〈人の一生は重荷を負いて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず〉という言葉で始まる〈東照宮遺訓〉が現在でも広く知られていること自体が,このことを物語っている。…
…しかし,発掘調査とみなされるすべての行為が,この3種類の形をとる情報をことごとく回収することを意図し,実行されるものとは限らない。
[発掘調査の前史]
日本における発掘調査の嚆矢(こうし)としてよく取り上げられるものに,徳川光圀による1692年(元禄5)の下野国那須郡(現,栃木県那須郡)の上車塚(上侍塚古墳)と下車塚(下侍塚古墳)の発掘がある。光圀はその付近で発見された那須国造碑の報告(1687)に触発され,両古墳を那須国造の墓とみて,墓誌の発見によってその人名を確認することを目ざし,家臣に両古墳の発掘を命じた。…
…弘前藩も昔から牧畜の盛んな土地で,枯木平牧など藩営の馬牧が5ヵ所あった。水戸藩では徳川光圀が1678年(延宝6),常陸国多賀郡大能村(現,高萩市)に牧を置き,牛馬を放牧して〈大能牧〉と名づけ,初めてオランダの馬12頭を入れて繁殖を図り,牧馬は400頭にもなり,牧の地域も多くの村にまたがって広い範囲に及んでいた。西国の薩摩では天文年間(1532‐55)に吉野牧にアラビア馬を輸入して放飼し,唐牧と称していたという。…
…茨城県中央部にある県庁所在都市。1889年市制。1992年常澄村を編入。人口24万6347(1995)。市域の大半は常陸台地と那珂川沖積地に広がる。主要市街地は,那珂川と千波(せんば)湖にはさまれた台地上の上市(うわいち)と那珂川の沖積低地上の下市(しもいち)とからなる。12世紀末,大掾資幹(だいじようすけもと)が館を置き,佐竹氏の支配を経て近世に水戸藩の城下町となってから大きく発展した。1889年,両地区の接点に常磐線水戸駅が開設されたが,行政中心は上市に置かれ,以後の都市発展は上市が中心となった。…
…常陸国(茨城県)水戸に置かれた親藩で三家の一つ。徳川家康の十一男徳川頼房が1609年(慶長14)常陸下妻城主から水戸に移封され,25万石を領したときに始まる。頼房以前,佐竹義宣が水戸から秋田へ移封された直後に家康の五男武田信吉が,また信吉死後十男頼将(頼宣)が水戸城主の地位にあったが,この2代の間は水戸藩とはいわない。藩主は頼房以後,光圀(みつくに),綱条(つなえだ),宗尭,宗翰,治保,治紀,斉脩,斉昭,慶篤と続き,11代昭武のとき廃藩置県となった。…
…徳川光圀が霊元天皇の内意をうかがい朝廷の実用に役立てることを目的として編集した総合部類記。930年(延長8)から1533年(天文2)にわたる二百数十部の諸家の日記などを中心にして,恒例・臨時の朝儀公事に関する記事を網羅的に分類集大成したもの。…
※「徳川光圀」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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