高月村(読み)たかつきむら

日本歴史地名大系 「高月村」の解説

高月村
たかつきむら

[現在地名]滑川市高月町、富山市水橋高月みずはしたかつき

早月はやつき川と上市かみいち川によって形成された複合扇状地の末端部に位置し、東は領家りようけ村、北は富山湾に臨む。北陸街道は領家村から当村を経て西の魚躬うおのみ村に至る。高槻とも記す。康治元年(一一四二)一〇月日の宮道季式寄進状(祇園社記)によると新川にいかわ郡内の「高槻村」などが松室法橋に寄進されており、高槻村は当地に比定される。高槻要害(高槻河原要害)は上市川河口付近にあったといわれ、街道伝いに進撃する軍勢を阻む目的で築かれたとみられる。康永四年(一三四五)越中守護井上(普門)俊清を攻めるため越中へ進攻した能登の吉見頼隆の軍勢が井上方の拠点であった高槻要害を押えたところ、同年七月一一日井上方が要害に攻め寄せ、吉見方は激戦の末にこれを撃退している(同年八月日「得江頼員軍忠状」得江文書、貞和二年閏九月日「得田素章代章名軍忠状」遺編類纂所収得田文書)


高月村
たかつきむら

[現在地名]高月町高月

現高月町域の中央南寄りに位置し、南流する高時たかとき(高月川)右岸平地に立地。西部を北国街道が南北に通り、また北国脇往還馬上まけ村で連結する道が分岐する要衝の地で、湖北平野北部の一中心をなす。村名は神高槻かみたかつき神社に由来すると伝える。条里遺構も近年までみられ、ろくつぼの地名が残る。中世には富永とみなが庄に含まれ、応永二九年(一四二二)六月二四日の法橋兼全奉書案(井口日吉神社文書)に「高月郷高時」とみえる。天正元年(一五七三)八月一〇日織田信長が岐阜から当地への出陣に際し、稲葉一鉄に高月郷に出陣するよう厳命(甫庵信長記)、同月一三日信長軍が高月に布陣している(当代記)


高月村
たかつきむら

[現在地名]八王子市高月町、あきる野市切欠きつかけ

加住北かすみきた丘陵の北面に立地し、あき川と多摩川の合流域に臨む。高築・高槻とも記される(御朱印帳など)。南は宮下みやのした村、西は戸吹とぶき村に接する。三田みた藤橋ふじはし(現青梅市)に当村飛地(人家一軒)があるのは、小田原北条氏の頃、家人石川土佐守の領地であったためという(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、田七九石・畑一八〇石余で、うち幕府領一三五石余、旗本稲垣領六三石余・同須田領六〇石余。元禄郷帳では高二七〇石余。享保六年(一七二一)の山之根村高改帳では幕府領一九八石余、旗本須田領六〇石余。「風土記稿」では幕府領と須田領で、民家九〇、小名は大夫殿沢たいとのさわ西沢にしざわ鵜通沢うつうざわ井戸沢いどさわ姥沢うばさわ唐松沢からまつさわ・井戸ノ沢・児沢ちごさわ寒場沢かんばさわ・谷ノ沢・切掛きつかけなど。


高月村
たかつきむら

[現在地名]忠岡町高月南たかつきみなみ一―三丁目・高月北たかつききた一―二丁目・北出きたいで二丁目

北出村の東にあり、村の東部で牛滝うしたき川と松尾まつお川が合流、東端牛滝川対岸を熊野街道が通る。高槻とも書く(和泉国郷村帳)。集落西方に高月寺跡があり、平安時代の平瓦が出土。延宝七年(一六七九)の高月村検地帳(前川家文書)によると古検高(慶長検地高とみられる)二一三石余、新検高三〇三石余で反別二三町七反余のうち田一八町一反余・畑四町六反余・屋敷九反余。


高月村
こうづきむら

[現在地名]清和村高月

西は大河おおかわ村・仁田尾にたお村、北東は井牟田いむた村に接する。広戸ひろと川と大矢おおや川の間の山間に集落がある。慶長国絵図に村名がみえる。矢部手永に属し、「国誌」によると大北村・立倉村・久具志原村・寺村などの小村があった。文政九年(一八二六)の矢部手永略手鑑によれば高二四〇石五斗余、田畝六町二反五畝余・畑畝一八町九反二畝余・苅畑六反八畝、竈数七七、男一三四・女一三二、牛一三四・馬一三二。


高月村
たかつきむら

[現在地名]和島村両高りようたか

高森たかもり村との地境不分明村田むらた村の枝郷正保国絵図にはみえない。元和二年(一六一六)以後は幕府領出雲崎いずもざき代官所支配に属したと思われる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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